十、 捨てた記憶

1.

 五日と間をあけずに、あの嫌な夢を見た。

 久しぶりに見たかと思ったら頻繁に顔を出すようになる。旧友のいやらしさによく似ていて、一段と寝覚めを悪くさせた。

 そんな日に限って、空は青く高く澄み渡る。

 崩れることの多い山の天気。この晴天を有効に使えよと、ヴァールの気分などお構いなしに暖かな陽射しが差し込んでいた。

「洗濯でもするか」

 なんとなしに、袖の辺りに鼻を近づけた。

「そうだな。洗濯するか」

 そういうわけで、その日は何日ぶりかの『洗濯の日』になった。




 数少ない水場のうち、村の人間があまり近寄らない水たまりがヴァールの洗濯場だ。

 水量が特に安定しないというのが、他の者たちが敬遠する理由の一つだったが、今日は充分な量を蓄えていた。

 普段着を上から下まで一揃いと、替えを同じく一揃い。着ていたものもまとめて水に放り込む。持ってきた毛布を羽織ったら、あとはひたすら洗濯物の上で足踏みをする。水の濁り方がいつもよりひどいのは見なかったことにした。

 しばらく踏んだらきつく絞って、その辺の岩の上に広げておく。乾くまでは見張り番をしながらではあるが休息の時間だ。

 日に当たりながら暖をとり、陽射しに耐えられなくなると岩陰に隠れる。そして体が冷えるとまたの日向に移動する。そんなことを繰り返しながら、読みかけの本を広げていた。

 すっかり肌寒く感じるようになった風。しかしご機嫌な陽射しが心地よくて、文字を追うよりもうとうと船を漕ぐのに忙しくなる。

 久しぶりに、まわりの時間がゆっくり流れていた。山の音だけが聞こえるようなひとときは。懐かしく感じさえした。

 ここ幾日か、毎日毎日けたたましい騒動に起こされ、大きな声に呼ばれ、食事の支度を迫られ、時にスキンシップとは名ばかりの攻撃を受けてきた。

 今日はそれらから逃れられるだろう。

 ここに来ていることは誰も知らないはずだ。あの騒々しく自分の名を呼ぶ声は聞こえないはずだ。あのやかましい声。自分を呼ぶ声はすっかり耳にこびりついてしまったようで、最近は一人でいるにもかかわらず、どこかから呼ばれたような気がして辺りを警戒してしまうことが多くなった。

『ヴァール』

 と元気いっぱいに呼ぶ声。

 そうだ。そもそも、どうして幼い子どもに呼び捨てにされなければならないというのか。カムラのように恐縮しきるものどうかとは思うが。

『ヴァール、ヴァール!!』

 叫びながら走ってくる姿。遠くから呼びかけるときも、目の前で話しかけるときもいつも同じ、大音量。自分の耳のために何度か注意はしてみたが、彼女にはまったく理解されなかった。

『ヴァール、ヴァール、ヴァール!!』

 手が届くほどに、鮮明に、脳内で再現されるビルカの声と顔。

 ああ、せっかくの静寂なのに、どうして余計なことを考えてしまっているのだろう。ヴァールは自分が哀れに思えて仕方なかった。

 それでも声は消えない。

「ヴァール、ヴァール、ヴァール、ヴァールったら、ヴァールってば!!」

 毎日聞かされる声の威力というものは恐ろしいものだ。振り払おうと思えば思うほど、ありありと聞こえてくる。山肌や周囲の岩に当たって響き、ヴァールを包囲するほどだった。

 その声を聞いて、ヴァールは目印を挟むことも忘れ読みかけの本を閉じてしまった。

 幻聴に山びこが応えるわけがない。

 ヴァールは遠くの方へ視線を向けた。

 洗濯物をはためかせる風の音に混じって、たしかにあのやかましい声が響いている。さらに、その後を追い呼びかけるような大人たちのざわめきも耳に届いた。

 急な登りの道を、息を切らすこともなく越えてきたビルカが、ヴァールを見つけて満面の笑みを浮かべた。

 となれば、次の行動は一つである。

「ヴァール!! やっと見つけたぞ!」

 大地を蹴り、獣のごとく突進するのみ。

「どうしてここがわかった」

 追い詰められた逃亡者のようなセリフを投げつつ、ビルカの体当たりを制止する。

 ビルカは手足をばたばたさせながら前進を試みるが一歩も進めず。ヴァールに触れることすらできず。本体をあきらめて、己の行動を押さえる腕に対し反撃するのが精一杯のようだった。

「質問に答えろ。どうやってここに来た」

 ヴァールの問いに、

「歩いてきたぞ」

 ありがちな、噛み合わない答えを返すビルカ。

 彼女に聞いても仕方ない。

 ヴァールは、ひとあし遅れて到着した、おそらく『石読み』を期待してやって来たと思われる客らの顔一つ一つに目を向けた。

 どいつに聞けば答えがわかるか。

 しかし尋ねるまでもないようだ。

 彼らの視線をたどったら、そこに答えがあった。皆一様に何かを恐れているようで、肩をすくめ、上目遣いで岩場を見上げていた。

 そこには神獣カラカルがいた。

 客人たちと答え合わせをしてみれば、やはりカラカルがここまで案内したのだと言う。正確には、ヴァールの家の前に現れたカラカルを追ってきたらこの場所にたどり着いたらしい。たまたまなのか。それともイタズラ好きの老君のさしがねか。

 カラカルは当然ヴァールの疑問に答えることなどなく、しれっとその場に伏せた。

 人々は「ここはどこだ」とか「あれは本当に神獣様なのか」と口々に言い、ビルカは未だヴァールの手に突進を阻まれていた。

 両者の様子に辟易して、重たいため息をこぼした。

「何をしに来た。押しかけてきたって、ここじゃ飯は作れないぞ」

 その言葉に何かを思い出したらしい。ビルカはヴァールの腕にじゃれつくのをやめて自分の背中へと手をまわした。どうやら体にくくりつけてきた包みをどうにかしたいらしい。たすき掛けにして胸もとで結び目を作ってあるのだからそれをほどけば解決するのではないかと観察していたが、一向に気づく気配がない。

 ヴァールは、今度は癖の一つかのように浅いため息をこぼし、少女に代わって結び目を解いてやった。

 背中にまわしていた少女の手に包みが着地する。

 少女は嬉しそうに顔の前に持ってくると、ヴァールの方へと突き出した。カナズで日常的に使われる華やかな毛織物に包まれた何か。

「今日はワタシが料理当番だ!」

 無邪気な笑顔とともに取り出したのは、蝋紙に包まれた茹で肉と野菜の酢漬け。そして薄くスライスしたパンが数枚。小瓶に飴色のどろっとした液体も入れられていた。

「今日はワタシがごちそうするぞ」

 とビルカは言う。並べた食材を前に「ワタシが作ってやるぞ」と言うのだ。どういう風の吹き回しかと問えば、彼女は笑顔を絶やさず言った。

「昨日、ヴァールは元気なかったぞ。だからウマイもの食べたほうがイイ! だから今日はワタシがヴァールにウマイもの食べさせてやる!」

 ヴァール本人の認識では、昨日はビルカに当たり散らしたということになっていた。それが、ビルカの中ではただ腹を空かしていただけということになっていたのだ。罪悪感を感じる必要などなかったようだ。

 だがそれは同時に、ビルカを遠ざけるのに失敗したことを意味するのだ。

 気を落とすヴァールの前で、ビルカは鼻歌を歌いながら調理を始めた。

「きょおは、わったしが、つーくるんだー」

 明るい調子で歌うビルカ。

「作るって言ったって」

 手順を見ていれば……パンを一枚置く。肉と野菜を重ねる。もう一枚パンをのせる。ヴァールに突き出す。

「できた!」

「それは?」

 ヴァールが小瓶を指すと、

「あ、忘れた!」

 ビルカは元気いっぱいに笑い、一番上のパンをめくって小瓶の中身を垂らした。そうしてできあがった『サンドイッチ』をヴァールの手に押しつける。同じものをもう一つ作って手に持つと「一緒だな」と笑った。

 いつものお返しも兼ねて、カムラと考えたのだそうだ。

 この辺ではこんな食べ方をする習慣などないが、ヴァールが中央の出身と聞いて、彼の地の食べ物を作ったのだと言う。

「別に、中央でなくてもどこでもあるけどな」

「ん? 何か言ったか?」

「いや。なんでもない」

 ヴァールはごまかして、無理矢理つかまされたサンドイッチに目をやる。群衆の目もビルカの輝く瞳も、ヴァールとサンドイッチを見守っている。

 こんな状況で食べられるものか。

 だいたい、ビルカの手にも同じものが握られているということは、今この場で彼女も食事にしようとしているということだろう。石の記憶見たさに集まってきた、この大人たちはどうするつもりなのか。

「飯は後でいいから、お前はそっちを済ませろ」

 やはり衆人環視の中で昼食など絶対に回避したい。

 ビルカは少し考えて、しかし首を横に振った。

「ダメだぞ! これはな、作ってからすぐ食べなければいけないのだ。そうしなければビシャビシャになるのだ。カムラが言っていたぞ」

 そう説明している間もサンドイッチの様子が気になって仕方がない様子のビルカ。ヴァールとサンドイッチの間で、視線を忙しく往復させている。

 往復させているうちに、もうそれ以上考えることができなくなったか。

「わかったぞ! では食べながら石を見るぞ! いいな? よし。石を寄越せ。いただきます!」

 誰の返事も待たずにビルカはパンを頬張った。顔とさほどかわらない大きさのパンと葉っぱと肉とパン。口のまわりにたっぷりのソースを付着させにんまり笑う。

「さあ、一緒に食べるのだ!」

 口から何かがこぼれるのも気にせずヴァールを急かす。そこへ遠慮気味に石を差し出す者が現れ、本当に食事をしながらの石読みの会が始ってしまった。しかもヴァールのすぐ側でだ。

 そそくさと逃げようとするヴァールをめざとく見つけ、ビルカはキリッと上がり気味の目尻を余計に高くする。

「ダメだぞ! ここで一緒に食べるんだぞ。というか、手がふさがってしまうので、食べさせてほしいぞ」

 両手で石を持ち『ぐるぐる』の最中のビルカが請うように言った。

「どうして俺が食べさせなければならない」

 吐き捨てるように言うとすぐに言葉が返ってくる。

「ワタシが作ってやったのだ。それくらいしてもらってもいいのだ」

「俺は一度もしてもらったことないぞ」

 言ってしまってから、その言葉の通りの光景を思い浮かべ、失言だったと後悔した。

「いや、俺は求めてないからな」

「何がだ?」

 聞こえていなかったようだ。

「なんでもない」

「ん? そうか? よくわからんが、わからんからほおっておくぞ。それより、ほら。口がからになったぞ。さあ来い!」

 遠慮するな、と口を開けて待ち構えるビルカ。

 ヴァールが拒否し続けても、ビルカは口を開けたまま。少しでも意識を石読みに集中させると、口の管理がおろそかになってよだれが垂れた。

 石を持ってきた大人たちも苦笑い。放っておけば、あぐらをかいたその足の間に水たまりを作ってしまいそうだ。

 見るに見かねてヴァールが折れた。

 よだれまみれの体で突進される可能性を考えて、少女の命令に従った。

 開いた口にフタをするようにパンを押し込んだ。苛立ちが手伝って少し多めに口に入ったわけだが、ビルカはものともせず、満足そうに頬いっぱいに詰まったパンを味わった。

 味のせいなのか、希望通りヴァールに食べさせてもらえたせいなのか。ビルカは上機嫌のまま、三つ目の石を見ていた。

 介助のため大きくは離れられず、ビルカの隣りで不服そうな顔を続けるヴァール。いつもより近いところで見ているからか、色々な発見があった。

 例えば、石を見る少女の表情がいつになく険しいだとか、険しい中に悲しみを表すような瞳の色や苦しさにをにじませる口もとの動きが見てとれた。

 誰かの記憶をのぞく時、少女の表情はぐるぐるとまわる。それは彼女がそう感じているということではなく、石の中の景色をそのまま表しているのだという。だから、それだけならば彼女には何の感情も残らない。

 しかし誰かに頼まれ石読みをするということは、見た内容を伝えるという行為を伴う。見たものを咀嚼して自分の言葉に、感情に換える時、それはすなわち記憶を捨てた誰かの人生と向き合うことになる。さらりと眺めていた悲しみや苦しみに、同調し同情し、そうした感情を自らの胸に植え付けることになる。

 彼女に何も残らないはずがない。

 ビルカは楽しいこと、キレイなものばかりに目を向けてそればかりを伝えるが、彼女の顔は嘘をつかなかった。

 今に始ったことではないだろう。石を見る時には少なからず目撃したことがあった。だが今日は比べものにならないほどに、彼女の表情が陰っているように思えた。

 たまたまその手の記憶に多く当たったのかもしれない。もしくは、いつもより近くにいていつもより様子を気にしているせいだろうと、ヴァールはサンドイッチを口にした。

 顔をしかめる。

 まずくはないのだろうが、あまり得意ではない味つけだ。だが二口目に進んだ。口に合わなくとも、久しぶりに食べる『自分以外が作った食べ物』だ。残してしまうのは気が引けた。

 苦手だと思いながら口に運ぶ。

 苦手だと思いながらどうして食べてしまうのだろうと、苛立ちが沸く。

 苛立ちは派生する。

 ヴァールはサンドイッチの味にではなく、目の前の大人たちに憤りを覚えていた。

 どうして誰も気づかない。誰も少女を見てはいないのか。彼女でなく、石の記憶ばかりを気にしているからか。

「もう、やめたらどうだ」

 思わず口からこぼれた言葉。皆の視線が突き刺さる。

 ビルカもまた。輝く石を両手で大事そうに包みながら、真っ直ぐにヴァールを見つめていた。タイミング悪く、不遇の類いの記憶を見ている最中だったようで、例の険しい表情でヴァールを見つめる。

 それは、見ようによってはヴァールの言葉にすがるようにも見えたし、ヴァールの言葉をいさめるようでもあった。

 ヴァールは視線を外し、生乾きの衣服をかき集め始めた。比較的ましな具合の一揃いを取り分けて、羽織っただけの毛布から着替える。

 着替えながら、前の一言に言い訳するように言葉を重ねた。

「捨てた記憶だ。見られるのも見せられるのも、良いものじゃないだろ」

 食うためにそれを拾い売っている人間が何を言うかと、自分自身に言いたくなった。だが、その場ではそう言わなければいけないような気がしていた。

 全ては、まっすぐに向けられる少女の瞳と、そこからあふれた涙のせい。

「あ……あれ?」

 その小さな手のひらで、ぐいと涙をぬぐっては驚きの声を上げる。

 少女自身が戸惑うほどだ。その場にいた誰もが言葉を失い、そしてばつが悪そうに少女を取り囲んでいた。

 誰として流した涙だったのだろうか。

 何に対しての涙だったのだろう。

 少女の涙はとどまることなく、ボロボロとこぼれ落ちる。大人たちは「ごめんね、ごめんね」と口々に言った。少女は「大丈夫」とは返さなかった。ただこぼれる涙の粒に戸惑うばかりだった。

 見かねて、ヴァールは布きれを投げ渡す。ハンカチ代わりに使っている、持ち物の中ではきっと一番清潔な布きれ。

「顔を拭け。拭いたら帰るぞ」

 受け取って、生乾きの匂いに一瞬怯んだが、ビルカはヴァールの言葉に従った。

 涙を拭いて、鼻までかんで、それでもビルカが気にするのは石のこと。自分の力を期待して集まった人々のこと。

 彼らの顔を順繰りに見まわして、

「で、でも……まだ全部見てないぞ!」

 とヴァールに叫ぶ。

「今日はもういいんだ。そうだろ」

 ヴァールは群衆に問う。脅かすような口調になってしまったことを後悔したが、それを気にする人間はいなかった。それよりも、本当に申し訳ないという様子で所在なさげに立っているだけだった。

「そういうことだ」

 さあ来い、とヴァールが手招く。ビルカは言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ様子で、ヴァールにしがみついた。わずらわしくは感じたが、ヴァールは今だけはと引きはがそうとしなかった。

「……あんたたちの協力に感謝する。カラカルの祝福のあらんことを」

 見よう見まねで、もっともらしいことを言った。山の人間たちの最上級の礼を真似たつもりだった。いち早く理解したカラカルがヴァールの気持ちに応えるように遠吠えを響かせた。

 偶然などではないと言わんばかりに、同じ音で同じ長さで、三つ。

 人々はその声を有り難がり、思い出したようにヴァールの言葉にもそれぞれ何かしらの反応を示した。

「感謝する」

 ヴァールは人々に向けて言った後、もう一度繰り返した。視線の先には神獣の凛とした姿があった。

 簡単すぎる言葉で心が届いたかどうかはわからない。

 だが神獣カラカルは、ヴァールたちに手向けるように、もう一つ、美しく厳かな鳴き声を白い峰峰に響かせた。

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