2.

 ヴァールの小屋まで戻る道。

 たいした距離でもない道のりを歩く間、少女は何度もつまづいた。いまだ引き切らぬ嗚咽のせいだろうか。

 二桁に至ったところで見ていられなくなって、ヴァールはビルカの腕をつかんだ。手を握るのではなく、ぶっきらぼうにつかんだ。

 少し力が入りすぎたかもしれない。

 それでも、少女は涙で目を腫らしながらも、にいっと口の端を上げ嬉しそうに笑った。




 帰宅して、家の前の岩場に生乾きの洗濯物を干し、急ぎ一本の煙草を吸うだけの休息を取り終えた頃には、ビルカの涙も止まっていた。

 涙が止まって平静を取り戻す――どころか、常時とかわらぬ元気さで、ベッドの上で跳ねていた。

 それでもしばらくは、突然の涙について興奮気味に喋っていたので、ヴァールは黙って付き合ってやった。半分くらいは聞き流していたが、椅子に座ったまま、相づちくらいは打ってやった。

 話の主旨は涙の理由。記憶の主の感情だったのか。自分自信が石を見ることを拒絶したのか。それはビルカにはまったくわからないのだと言う。

「俺の優しさに感動したんじゃないのか?」

 どうどうめぐりに陥りかけた演説に、まったくの冗談で終止符を……と軽い気持ちで言ったのだが。

「それは違うぞ。ヴァールが優しいから泣いたというなら、ワタシはいつも泣いていなければならないではないか」

 ビルカはベッドの上で座り直し、真っ直ぐな眼差しを向けた。これ以上ない真面目な顔で返されて、無性に恥ずかしくなった。

 ヴァールはごまかすようにビルカの頭を小突く。

 ビルカもたちまちビルカらしい顔つきへと変わり、ヴァールの腕に攻撃を始めた。

「負けないぞ!」

 相変わらず勝ち目のない腕の長さ リーチ の差。ヴァールは片手間で相手して、膝の上では読みかけの本を開いていた。

 それでもビルカは嬉しそうに笑い、声を上げ、ヴァールの腕にじゃれついていた。

 しばらくして。

 腫れた目をこすり始めたかと思うと、ビルカの頭はうとうとと揺れ、笑い声は寝息へと替わってしまった。

「おい。こら」

 こんなところで寝られてはたまらないとビルカの体を揺する。だがまったく起きる気配はない。

「……どうする」

 ヴァールは憎たらしいビルカの寝顔を見ながら考える。対処法を考えるつもりが、思考は自然とビルカの発した言葉に向いていた。

 気まぐれで手を差し伸べたり、かと思えば平気で追い出そうとする自分を、ビルカは優しいと言った。誰に対してもそう思うかもしれないが、その中にヴァールも含まれているということが意外だった。

 だがそのことを嬉しいとは思わない。何も知らないからそう思うのだと、ビルカのことが哀れに思えた。

 もしもヴァールのこと、ヴァールの過去を知ったなら同じように言うだろうかと考える。

 いや、知らないほうがいい。汚いものなど見ない方がいい。

 ビルカの漆黒の髪にそっと触れた。

 その行為に、ビルカが身じろぐ。

 起こしてしまったかと思い、慌てて手を離そうとするとビルカの手がヴァールの袖をつかんだ。

「……ヴァール……むむむ。………………ふっ」

 目をつむったままで声を漏らす。

 幸せな夢でも見ているのだろうか。何度もヴァールの名を呼んでは、口もとを緩ませたり、はっきりと声を上げて笑ったりした。

「どうしような」

 ヴァールは再度、自分自身に尋ねた。

 ヴァールは考えた末、しばらくそのままでいることにした。

 ベッドの端、少女の枕もとに腰掛けて、気の済むまで袖を握らせてやることにした。

 少女は寝言を言おうが、毛布を蹴飛ばそうが、ヴァールの袖から手を離すことはなかった。

 片腕はビルカに託し、空いた手は腿を支えに頬杖をつく。制約にため息がもれるが、もう少しだけ従っていようと思った。今はただ空気に飲まれて、流されて。そんな時間も、たまにはあっていいだろう。

 そんな気の緩みが不幸を招いたようだ。

 ほんの一時、ビルカに付き合ってやるだけで、その後は何もなかったかのように一人に戻ろうと思ったのに。うたた寝から目覚めると、雨の匂いと、粒の音。湿気の少ないこの地方で、二日続けての降雨。季節の変わり目の移り気な空模様だと言ってしまえばそれまでだが、これはにおう。信心の欠片も持たぬヴァールだが、この時ばかりは神獣と賢老の加護とやらを少しは信じ、その関与を疑った。

 それでも、これくらいの雨ならばカムラの家へ送り届けられるだろうと、高をくくり腰を上げた。

 ――上げたつもりだった。

 不自然な姿勢で寝ていたせいか、体の節々が部品の錆びた機械のように軋んだ。動かす度に鈍い痛みを伴う。

 多少無理をすれば行けるだろう。だが気持ちを優先させるなら、一歩も動きたくはない。そして今すぐベッドに転がって眠り直したい。

 そっとベッドの上を振り返る。

 袖をつかむ手はほどけていたが、引き続きヴァールの安息の地を占領しているビルカがいる。下手に生じさせた温情が尾を引いているのか、彼女をその場から引きずり下ろす気にはなれなかった。

 雨音は、しばらく天気が回復しそうにないことを知らせる。

「仕方ない」

 ヴァールはそう呟いてから、今日の寝床に身を収めた。部屋の隅、壁に背中を預け座り込む。全身を覆うには足りないロングジャケットで、形だけの防寒をし目を閉じた。

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