2.
ヴァールはその声に応えるように、大きな声を上げながら目を覚ました。
跳び起きた。
勢いよく上体を起こすと、目と鼻の先にビルカの顔が迫っていた。
「どうして、ここにいる」
腰回りに妙な重み。昨日似たような重さを味わったはずだ。
枕もと、手探りで眼鏡を探す。
視力を取り戻すと、笑みでいっぱいの少女の顔がより近くに現れた。
「ヴァール! 起きたな。遅いぞ。寝すぎだぞ」
そう言って何度も跳ねる。
その度にヴァールの体が押しつぶされた。
「やめろ。しずまれ」
ビルカの顔を押しのけ、跳ねる体を押さえつけ、状況を把握しようと室内を見渡した。
何が起きている。
窓の外はすっかり明るかった。そしていつもとは異なる騒がしさがあった。
開けっ放しになっていたドアから、ひょいとカムラが顔をのぞかせる。ばっちり目が合ってから申し訳なさそうに、念のためとノックした。
すみませんすみませんと謝りながら部屋に入ってきて、慌ててビルカの体をヴァールの上から下りさせる。勝手に侵入したことやヴァールの体に馬乗りになったこと、無理矢理に目覚めさせたことをたしなめるカムラ。ビルカがまったく聞こうとしなくても念を押して、そうしてからようやくヴァールの方へ顔を向けた。
あらためて深々と頭を下げ、ビルカの仕打ちを詫びる。それよりも、と状況説明を求めると、彼女は困り顔のままで話し始めた。
「ヴァール様のお料理がよほどお気に召したみたいで」
「お前のスープが食べられないから、ザーイムのとこには住まんぞ」
わかるようで、いまいち理解しきれない理由を伝える二人。すんなり頭に入ってこないのは、ヴァールが寝起きだからというわけではないだろう。
「つまりですね、その、ザーイムが頼りにしている方からの指示があるまで、ビルカちゃんはこの村で過ごすことになりまして……。あ、いえ、もちろんヴァール様のご迷惑になりませんように、なるべく私の家で面倒を見ようと思っていますが、ただ」
「なんだ」
「ワタシはあのスープが食べたいぞ。今すぐ食べたいぞ」
ビルカが二人の間に割って入る。実害があったわけではないが、ヴァールは反射的にビルカのを顔を遠ざけた。
「あ。ビルカちゃん。ダメですよ、そんなムリを言っては」
カムラは慌てふためいて、この村で過ごす上での注意事項をビルカに説明しだした。ヴァールの家に来る前にたたき込んできたらしい文言をあらためて復唱させる。本人たちが小声のつもりで行っていたのでなるべく聞こえないふりをしてやろうかと思ったが、聞こえてくる言葉の端々に反応せずにはいられなかった。
大半がヴァールの扱いに関する内容だった。
話を聞いている限り、自分は相当接しにくい人間のようだ。アレは駄目。コレは駄目。と禁止事項が羅列される。なんだかいたたまれなくなってきて、話し声から遠ざかろうとベッドから離れた。
少女らから離れると、代わりに他の声が飛んでくる。
「なんだ。外が騒がしいな」
水瓶の水を汲みながら、復習中のカムラに問うた。答えを待たずに、開いたドアの隙間から外の様子をのぞく。
「あ」
カムラが声を上げた。
外で何が起きているか。説明するより先にヴァールの目に触れるのは、彼女の中ではよほどまずいことだったのだろう。ビルカへの注意を後回しにして駆けつけたが間に合わなかった。
ヴァールも、カムラの答えを待たなかったことを後悔した。カムラから何かしらの説明を受けたあとにこの光景を目にしていたなら、我が身を襲った衝撃も、幾分小さく済んだかもしれない。
自分の家の前に市でも立ったのかと思った。
普段はカムラくらいしか近寄るもののないヴァールの家のまわりに、村の住民たちが集まっていた。いや、村の人間だけにしては数が多い。ワアダで見たことのある顔、まったく知らぬ顔もちらほら混じっている。
「ビルカちゃんのことを聞いて、石を見てもらいたいという人が集まってしまったんです」
カムラはただひたすら謝り続ける。
「だからって、どうしてここに集まる」
「ですから、それはビルカちゃんが」
そう言って視線を家の中に移す。
ビルカは今までの会話の何一つも聞いていなかったようで、「スープはまだか」とヴァールを見上げた。
ヴァールはたまらず黙り込む。
「俺には関係ない」
ヴァールはジャケットと読みかけの本とを乱暴につかむと、自分の住処から立ち去ろうとした。
だがすぐに押し戻される。
野次馬の第二陣が現れ、家の入り口に殺到したのだ。みなそれぞれに大きな荷物を担ぎやってきて、勝手に台所に置き出した。
「ビルカちゃんが言うから持ってきたけど」
ヴァールの顔を不満げに睨みつけていく輩ばかり。
なんの荷物かと尋ねてみても、ヴァールの問いに答えるものは誰一人としていなかった。
「ビルカちゃん、やっぱりうちで食べたら?」
「うちは狭いけど、ここよりマシだよ」
一方、ビルカに対しては歓迎ムードの表情と言葉が投げられる。ヴァールの不人気はともかく、人が寝過ごしている間に、ビルカはすっかりカナズになじんだようだった。
みながビルカにラブコールを送ったが、ビルカは頑として譲らない。どうあってもここでヴァールの作った料理を食べるのだと言う。
村人たちはあきらめきれない様子で顔を見合わせていたが、どうしてもビルカは折れそうにないと見ると、「仕方ないね」と口々に言った。そして台所に積み上げた大量の荷物を指差して、
「それ、今朝採れた野菜だから」
「うちのは川魚の干物」
「そっちは木の実」
順に持参したものを申告する。その間にも、「つぶしたて」と言って持ってきた家畜の肉が追加された。
「これで美味しいもの作ってあげてね。ビルカちゃんはたくさん食べてもっとお肉つけなくちゃいけないんだから」
「足りなかったらまた持ってくるよ」
村人たちはそう言って食材の山を押しつける。
「どうして俺が」
それくらい言う権利があると思ったのだが、何十倍もの罵詈雑言となって返ってきた。
人徳の差か? それとも日頃の行いか?
それにしても、この短時間で少女はどうやって村人たちを虜にしたのか。ビルカの言うことを聞こうとしないヴァールは、カナズの敵として認識されてしまったようだ。
「わかった。わかったから、全員外に出ろ。この家には一歩たりとも侵入するな。何かやるというなら外でやってくれ」
「なにをぉ? この家はお前のもんじゃないだろうが」
「今は俺の家だ。文句があるならアルナーサフに言え」
ヴァールはビルカも村人も追い出して扉に手をかける。当然のように文句を言う者もいたが、相手にせずに押し出した。
最後の一人に差しかかった時。
「お前は残ってくれ」
「私、残ってよろしいんですか?」
声をかけるとカムラは目を丸くして驚いた。しかしどこか嬉しそうである。
「これ、中を検めるだけでも一苦労だろ」
視線で示した場所には例の食材の山。
「手伝ってくれ。……いや、いっそ代わりに作ってくれ」
「え! それはいけません。ビルカちゃんが楽しみにしていますし、村のみんなを騙すことになりますし」
「言わなければわからない」
自分の作ったものだって特別手の込んだ料理というわけではない。似たようなものを作って食べさせておけば、誰も味の違いなんてわかりはしないだろう。
「ですが、私はあまり料理が得意ではありませんので……」
困るどころか泣き出しそうな顔で言うので、さすがに気の毒になった。
「作らないって選択肢は」
「……ええと、それは…………」
カムラはその選択をした場合の結末を想像したようだが、顔色は次第に悪くなっていった。
「あまり、良くはなさそうですね」
言葉は控えめ。しかし顔を見れば一目瞭然。ヴァールの頭にも、自分のことのように怒り抗議の声を上げる村人たちの顔が浮かんだ。もし作らなければ、そしてそれでもビルカがあきらめずにヴァールの手料理を所望したら? その時は、休むこともできず一日中暴動の相手をすることになるかもしれない。
「それで、今日は何を作りますか? ビルカちゃんはスープと言ってましたが、これだけ色々ありますと、スープだけに使うには勿体ないですね」
カムラもすっかり、ヴァールが作ると決断した前提で話を進めている。
ヴァールは食材の山を見て、そしてすぐに窓の外に目を向けた。騒がしい声。村人の中心で少女がはしゃいでいる。
「どうしたものか。少し考えさせてくれ」
ヴァールはそう言って、食材の一つを拾うでもなく、まずはと煙草に火を点けた。
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