2.

 遺却の湖はカナズ以外にも世界中でいくつか確認されているわけだが、記憶を捨てる者たちはなるべく人の住む集落が近くにある湖を選ぶという。

 それは、邪魔が入るというリスクを回避することよりも、記憶を失った後の新しい自分が路頭に迷わぬよう保険をかけたいからだ。

 だからそうした湖の近くの町では、記憶を失った者への対応というものが形式化されていることが多かった。

 カナズの場合、村の者が状況を説明してやった後、村長――もといカラカルから名前を授かるというのがまず始めに通る道。

 次に記憶の喪失者が向かうのが、ヴァールたちがたった今たどり着いた建物。『失想者の家』と呼ばれる、湖に入った者の援助を行う組織の事務所である。公の機関でも何でもない、物好きたちの集団ではあるが、どこぞの賢者のように『神のお告げ』や『山の祝福』といったインチキ臭い言葉で惑わすようなことはもちろんしない。

 住まいを手配し、仕事を紹介し、希望とあらば元の人生に戻るための手段を一緒に探す。

 自称『記憶を失った者の一番の理解者』たちがいる場所なのだ。

「で、こいつが噂の?」

 カウンターの向こうで、少年がけだるそうに言った。

 一目でカナズの民だとわかる、カムラのものと似た衣裳を着た少年だった。

「ワタシはビルカだぞ! 良い名だろ。アルナーサフとやらに……あ、ちがった。カラカルとやらにもらった、ありがた~い名だぞ」

 少年の感想など気にする様子もなく、ビルカはエヘンと胸を張る。

 見守るヴァールの眼差しが冷ややかなのはもちろんであるが、カウンター越しの少年もまた冷めた……というか、哀れむような目でビルカを見ていた。

「またあの村長はいい加減な名前つけやがったな。よりによって『水たまりビルカ』とは手抜きにもほどがあるだろ。どうせ、湖に入ったから『水たまりビルカ』なんだろ。じゃあ、これから湖に入りに来るやつはみんなビルカになっちまうじゃねえか。なあ」

 なんとなしに、自分以外の誰かに同意を求めた少年だったが、その相手がヴァールしかいないことに気がつくと、途端に不機嫌を作ったような顔になる。『俺はお前なんかに話しかけたりしてないからな』とアピールするように、ふてくされた顔で頬杖をついた。

 この少年、ヴァールに対する時は常にこうした表情なのである。

 カナズの住人であり、『失想者の家』の一員でもある少年ザーイムは、ヴァールのに強い敵意を抱いているのだ。

 顔を合わせるたび、その力強い眼で睨みつけ、成長途中の体躯で張り合い、声をかけようものならこれでもかというほどに険しい表情を作り拒絶する。

「どうせ、石欲しさにお前が突き落としたんだろ。きっとそうだ。そうに違いない」

 ビルカに関する書類を作成するために投げる質問が、あまりに偏った憶測へとすり替わってしまうほど、彼のヴァールに対する心の闇は根が深い。

「こいつはワルイ奴ではないぞ。スープもウマかった」

 ビルカがヴァールに寄った発言をしても、

「とんでもない。お前は騙されてる」

 ヴァールを擁護するような態度は一切認められないとばかりに語気を強める。

 しかし当の本人、ヴァールが人ごとのように眺めている。

 ザーイムはそれに気づいて一段と不機嫌になり、更なる攻撃をと思案する。ビルカの体を引き寄せコソコソと何かを吹き込むのだが、ほぼ全ての言葉がヴァールの耳に届く音量で話された。

「いいか。こいつの家には、これくらいの水袋がいくつもあってな」

 ザーイムは両手の人差し指と親指でマルを作ってみせる。

「その水袋に湖の水を入れて常備してるんだ」

「それをどうするのだ?」

 なぜかワクワクしているビルカ。

 ザーイムも調子に乗ってくる。

「それを家に来たやつに投げつけるんだ」

「ふんふん」

「体に当ると、衝撃で口が開いて水がドバーッと!」

「ぬれるな!」

「濡れるだけじゃないぞ。湖の水だ。記憶がなくなるんだ。な、ひどいだろ」

 ひどいのはどっちだ、と今度はヴァールがあきれ顔で頬杖をつく。そんな方法で客を撃退するなどしたことがない。そもそもヴァールを尋ねてくる物好きなどそうはいない。

 ヴァールが口を出さないのをいいことに、ザーイムの嘘は次から次へと湧いて出る。

 しばらく経って、ヴァールを貶めるための作り話を思いつく限り一通り言い終えたのか、

「そういうわけで、ヴァールはひどいやつなんだ。最低なやつなんだ。みんなにも嫌われているし、いつも一人だ。ザマーミロ」

 ふん、と鼻息荒く、見ようによっては勝ち誇ったような表情を浮かべるザーイム。その姿を真似てビルカも腰に手を当て仁王立ちし、やはり鼻息を荒くする。が、何かに気づいたようで、そのままの姿勢でぱちくりと目を瞬かせた

 そして、小首を傾げて一言。

「ヴァール、一人じゃなかったぞ」

「ん?」

 同じく腰に手を当てたまま、ザーイムは怪訝な顔をする。

 同じ格好で、異なる表情で顔を見合わせるビルカとザーイム。

「カムラがいたぞ。三人一緒にご飯食べたぞ。ウマかったぞ!」

 ほとんど一人で食べ尽くしたというのが真実だが、ビルカの中では三人一緒の楽しい食事という図になっていたようだ。そして最終的には『楽しかった』よりも『ウマかった』が勝ったようで、口の端にあふれそうになったよだれを慌てて拭き取った。

 ビルカの言葉と表情から、食事の内容が気になってもよいものだが、ザーイムは違う。彼の神経はただ一点のみに食いついた。

「カムラがいたのか?」

 彼にとって重要なのはそこである。

「ああ。いたぞ」

 ビルカは元気いっぱいに答えた。

「……見つけて連れ帰ったの、夜中だったよな?」

 答えに困ったビルカがヴァールに視線を向けた。

 ヴァールは面倒なことになりそうだと感じながらも、短く「ああ」とだけ言った。

「もちろん暗かっただろ」

「ああ」

「ビルカが目を覚ますまで実質二人きりだったてことだよな。何してた? 何話してた?」

 単なる興味本位の質問ではない。極めて深刻な問いなのだと、彼の顔と声色が言っている。

「ヘンなことしてないだろうな」

「どんなことだ」

 ヴァールに質問で返されて、一時黙るザーイム。

 若さ故のありあまる想像力で、事細かに脳内に『ヘンなこと』を再現してしまったのか。顔を真っ赤にして照れてみたり、怒りに体を震わせてみたりと慌ただしいことこの上ない。

「と、とにかくだ。その辺のことはカムラに会って直接確認することにする」

 ゴホンと咳払いを一つして、もう一言付け加える。

「お前の悪さを全部暴いて、カムラの目を覚ましてやるからな。そうすれば、その目が次に見るのはきっと……」

 理不尽な敵意の理由はつまりそういうことである。

 いつもなら、気が済むまで言わせておくところだが、今日はそれほど心に余裕がない。一刻も早くこの状況から解放されたいのだ。早く眠りにつきたいのだ。

 だからこその失言。

「カムラの話など、どうでもいいから――」

 言い終えぬうちにザーイムの顔がぐいと迫った。カウンターを乗り越えそうな勢いで―否、実際、片足を机上に踏み込んで攻めてきた。しかし体格からして勝ち目がないことは承知しているようで、攻撃に転じられなかった両腕は不格好に宙を泳いだ。今、彼にできるのはしゃべることだけである。

「どうでもいいだと?」

「ああ。くだらない話はもういい。さっさと終わらせてくれ」

 自覚しないまま、ザーイムの神経を逆なでし続けるヴァール。

 いよいよザーイムが臨界を迎えようかというところで、振り子時計が一つ鳴り半刻を告げた。しばしの沈黙。

 細く消えていく残響に引っ張られて、殴りかかろうとしていたザーイムの手も彼の体の脇へと返っていった。

 決まりの悪さを咳払いで振り払って。

「お、俺は先を急ぐから、今の無礼はなかったことにしてやる」

「いいから手続きを早く……」

「そのことだけど、手続きならとっくに終わってるぞ」

 わざとヴァールの前で書類をひらひらさせてから片付けを始めるザーイム。動作に表情に「なぜ居座ってるのか」と言わんばかりの空気が漂う。

 さすがに言葉を失った。

 とっくに終わっていると言っただろうか。

 それでは今までの時間はなんだったのか。自分の悪口をただ聞き続けるだけの時間だったのか。

 そしてもう一つ気になるのは、そんな中で作成された書類とやらにどれだけの事実が反映されているのかということだ。

 考えるだけで頭が痛くなる。

 カムラに会いに行くため、何事もなかったかのようにせっせと身支度を整えるザーイムは、

「もう用ナシだって言ってるだろ。さあ、帰った帰った」

 手ぶりを加えて追い払う始末。

 申請書類の仕上がりを確認する気も、あまりの仕打ちに対して言い返す気も失せて、ヴァールは無言のまま席を立った。

 深く考えたら負けだ。これで帰れるのだからいいではないか。

 ヴァールは考えるのをやめて扉へと向かった。

 その足を止めさせるものがあった。

 ヴァールの腕をつかんだビルカ。

 当然のように、ヴァールのあとに続こうとしていた。

「ビルカ、お前はこっちだ」

 気づいたザーイムが呼び止める。

「あのおねえさんが面倒見てくれるから、今日の所はワアダで過ごせ。ふもとの町へは明日以降、都合がつき次第連れてってやるからな」

 ビルカを手招くと同時に、奥の部屋にいた中年女性を呼ぶ。

 ビルカはまん丸の目でヴァールを見上げた。

「お前とはべつべつなのか?」

 どう答えるのが正解か。

 考えて出した結論が、

「べつべつだ」

 オウム返しという苦肉の策。

「ではもうウマイものは食べられないのか」

「この町にはもっと旨いものがたくさんある」

「本当か?」

 食いついたのをこれ幸いと、ヴァールはたたみかけるようにワアダの名物料理やら、市が立つ日にしか食べられないよその土地の食べ物など、少女が食いつきそうなネタを並べ、できるだけ詳細に説明してみせる。

 少女の瞳はキラキラと輝いていた。

「ではヴァールも一緒に食べればいい」

 そう来たか。

 これにはどう返すべきかと考えあぐねていたら、思わぬ助け船が舞い込んだ。

「そんな嫌われ者と一緒じゃあ、どんな食いものでもまずくなるだろ」

 ザーイムは悪口のつもりで言ったのだろうが、結果的にはヴァールを救うことになる。

「マズイのはいやだぞ。よし。わかった。ヴァールとはべつべつだ。さらばだ!」

 ビルカは、世話係に任命された女性のもとへ、飛びこむように駆けていった。恰幅のよい体に抱きとめられたところで、今一度ヴァールの方を振り返る。

「またな!」

 別れの言葉はたった一言。しかし、ぶんぶんと音が鳴るくらい、両腕を高く大きく力強く振っていた。

 ヴァールは別れの言葉らしい言葉も探さずに、ため息と苦々しい笑いだけをこぼし失想者の家を後にした。




 後ろ手に扉を閉め、一歩踏み出したところで振り返る。なんとなしに小屋と、その上空に広がる青空とを眺めていたら、心外にもアルナーサフが告げた例の一言が脳裏をよぎった。

『何かをもたらすだろう』

 ヴァールはただ鼻で笑った。

「何をもたらすって」

 澄み渡るこの青空のような結末を暗示したつもりだったのだろうか。

 しかし実際はそんなものは得られなかった。そもそも、何かが起きるには時間が短すぎた。アルナーサフと会ってから、まだ半日と経っていないのだ。その間に少女がもたらしたものと言えば、無駄な疲労と胃もたれくらいだった。

 もちろん、期待も信用もしていなかった。

 だから虚しくも悲しくもない。

 それなのに、何故だろう。

 一歩。二歩。三歩目でヴァールは立ち止まり、再び振り返ってしまった。振り返って、小さな小屋と青空だけの景色を眺める。

 深いため息がこぼれた。

 虚しさや悲しさではない。

 日常に戻るための合図なのだろう。

 ヴァールは己に言い聞かせるように、その一言を吐息に混ぜて吐き出すと、早足で市場の雑踏へとその身を紛れさせた。


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