3.
人混みの中、一歩入り込むごとに波立っていた心は静まり、目に映る風景もそれを眺める心持ちも、正常な色を取り戻していった。
今日という日は、ヴァールの日常において特別な日だった。それは少女と出会ったからということではない。繰り返される何もない毎日の中で月無しの夜とその翌日は、唯一『意味のある日』であった。
市場の騒がしさに眉をしかめながら、なじみの商人を探して石を売り、できた金で食料や日用品を買う。余裕があれば、生活必需品の隙間に並べられる掘り出し物を眺めてまわる。掘り出し物といっても高価なものは買わない。時々無性に欲しくなる、暇つぶしのための本や遊び道具になりそうな工具などを手に取るくらいだ。
月に一度の、目的のある一日。
月に一度の、いつもとは違う日。
毎月一度だけ規則正しく行われる一連の儀式のようだ。毎回同じということに、飽きることも不満に思うこともない。逆に同じでなければ心地が悪い。
つまり今日のような日は心をかき乱されるのだ。
まず寄り道を重ね町への到着が遅くなったせいで、露天の店主たちの顔ぶれが違っていた。品物を見てまわれば上質なものはすっかり売れてしまっていたし、なじみの商人の姿も見当たらなかった。
いつも通りの行為が、いつも通りに進まないことがどれほど苦痛であるか。
他の商人と交渉を試みるか、それとも今回はあきらめて次にまわすか。そこまで耐えられそうかと財布の中をのぞいてみるが、一枚二枚と硬貨を数えたところで、少女に蓄えを食い荒らされたばかりだと思い出した。
「飢えるな」
深刻さは微塵も含まず、呼吸のついでとばかりに呟いた。
さてどうしたものかと頭をかく。
今一度思考をめぐらせて、しかし同じ答えにたどり着いて観念したように辺りを見まわした。キョロキョロとあてもなく視線をめぐらす。
気の良さそうな、比較的交渉しやすそうな、かつ玄人向けすぎない商人が、そちらの方から声をかけてくれないものかと願いながら眺めるわけだ。
天の助けか、すぐにその背中に声がかかった。
「やあ、良かった。今日はいらっしゃらないのかと思いましたよ」
声に振り返ると、大きな背嚢を担ぎにこやかな表情でたたずむ男の姿があった。なじみの顔である。ヴァールが探し、しかし今日はもう会えやしないと半ばあきらめていた男。月無しの夜の翌日に必ずふもとから石を買いに登ってくる若い商人だ。
もともと持ち込んだものか、市場での戦利品なのか。少し離れたところで、護衛兼荷物運びに雇っている男が、背負いきれぬ量の荷物を牛の胴にくくりつけている最中だった。
「他のお客相手なら見つけられないだろうと帰っていたところですけどね。あんたの場合は別ですよ。なんたって探しやすいんだもの」
そういう男の視線は自然とヴァールの頭部に向かう。髪の色については言うまでもないが、小柄な人間が多い山の民の中にあっては、長身のヴァールの頭というものは良く目立つというのだ。たしかに市場の人ゴミを歩いていても視界を遮られることは少ない。
「おまけに山の衣裳は色使いが派手でしょ? その中にこの鈍い色ですもの、そりゃかえって目だつってもんですよ。上質な生地だというのも、目利きの商人にとっては見つけやすいポイントですがね」
まあ、そもそも隊章はずしたり着崩したりしてはいますけど、それ軍支給のものでしょ? 良くも悪くも目を引きますよ、と言い足して、ヴァールと大して変わらない色合いを身にまとう男は豪快に笑った。
そんな話をしながらも、彼はいそいそと商売の準備をしているようだった。
腰紐に縛りつけた革袋から七つ道具を取り出すと、ギラギラと輝く笑顔をヴァールに向けた。
これが彼の店開きの合図。
「さあさ、お立ち会い。毎度おなじみ、あなたのよろず屋。売り物安く、買い取り高く。必ずあなたを満足させましょう。今日は何をお求めか。あなたのよろず屋。なんでもござれ。記憶の石さえ買いましょう」
歌うように決まりの口上を述べて、ヴァールの来店を歓迎した。
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