2.

 今しがた披露した混乱っぷりからは考えられないほど、カムラは手際よく少女の介抱を始めた。

 その間ヴァールはといえば、替えの衣服と毛布だけを渡されて台所へと追いやられてしまった。自分の家の、自分の寝床で羽を休めるというささやかにして至極当然の権利も行使できなかったわけだ。

 盛大にくしゃみをして身震いをひとつ。

 着替えを済ませ、毛布にくるまりながら湯を沸かす。しかし火が熾きいざこれから暖をとろうという時に呼び戻されるという、何とも腑に落ちない状況が連続した。

 カムラよりも、たぶん迷子の少女よりも自分はずっと大人なのだから、怒らずイラつかず冷静に対応しようとするが、駄目だ。彼女たちより年をくっている分なのか、疲労の影響は深刻で、立ちくらみをしたところで舌打ちをしてしまった。幸いなことにカムラの耳には届いていないようだった。

 寝室――というか食事の支度以外のほとんどの時間を過ごす生活のための空間に戻ると、いつもと空気が違っていた。自分以外の人間がいるというだけでどうも居心地が悪くなっているというのに、再会を待ちわびていたベッドはすっかり少女のものになっていたのだ。あやうく、もう一つ舌打ちをしそうになった。

 そんな様子にもカムラはちっとも気づかない。

 濡れた衣服を手際よく片付けながら経緯を話し始めた。

「なんでも、最初に彼女を見つけたのはラティーフさんだったそうですよ」

 真面目なだけが取り柄のラティーフという男が、ひとつ下の村まで食料を買いに行っていたのだが、その帰り道で少女を見つけたそうだ。

 その男もやはり、はじめは少女を人ではないものだと思ったらしい。陽の光のもとであっても、そのように見えたのだという。

 少女は男の前に出るなり、言葉を交わすこともなくばたりと倒れた。息はあるようだったが、見るからに憔悴しきっているようだった。

 男は高山牛に積んでいた荷と少女とを交互に見て、そしてあごを撫で考え込んでしまった。

「捨て置くにはいかないと思ったようで、荷の方をいったん下ろして、それでカナズまで彼女を運んできたそうですよ。それから夕方くらいまではラフマおばさんのお宅で休ませていたというのですが、いつの間にか姿がなくなってしまいまして……」

 眠気覚ましに顔を洗い、大きくのびをして筋肉のこわばりを解いている間にカムラの報告は一通り終わっていた。

 なかなか長く、そして正直なところあまり興味がわかない話であったため余計に疲れてしまいそうなものだが、カムラの声の心地よさのおかげか、それほどストレスは感じなかった。何より返事や相づちを強制しないのが良い。今のように、他の用事を終わらせている間に話は終わっているのだ。

 ありがたい、と胸の内で唱えるヴァール。脱ぎ捨ててあったジャケットから煙草を取り出した。粗雑な紙で巻かれた安物の煙草だ。それをくわえふと顔を上げると、ぼんやりとした明るみが目に入った。

 いつの間にやら、空の端が白み始めていた。

 夜空の闇に少しずつ水を溶き混ぜたように、色濃くはびこっていた黒い色が淡く滲んでいく。日の出にはまだかかりそうだが、簡単な作業ならばランプの灯りがなくともなんとかなりそうだ。同じことを思ったのか、カムラは細かい作業をするために、と明かりとりの窓の近くへと移った。

 薄明かりのもと、微笑みをたたえながら持参した荷物の整理を始めるカムラ。

 鼻歌でも混じりそうなやわらかな空気を感じながら、ヴァールはカムラの横顔を眺める。

 色鮮やかな刺繍がほどこされた衣裳がよく似合う、小麦色の肌の少女だった。いや、少女というのが正しいか、それとも『女性』というべきか。ちょうどその狭間にある年頃のようで、その時々で大きく印象を変えるのだ。

 こうして手際よく働いている時にはしっかりものの大人の顔。

 一方、

「まあ、どうしましょう。お夜食を用意し忘れました! 家を出る前まで『忘れないように』と言っていましたのに」

 どうしましょう、どうしましょうと泣き出しそうな顔で慌てる様は年相応に。混乱した時の迷走も度が過ぎれば面倒だが、たまに見せるほころびだと思えばかわいいものだ。しかし、そのほころびがあるせいで、ヴァールは重要性は低いとはいえ難題に頭を悩ませることになる。

 少女か。女性か。

 ヴァールがそのようなことを考え黙り込んだとは知るはずもなく、カムラはその無言を後ろ向きにとらえているようだった。

「問題ない。昨日の残りがある」

 安心させるつもりで言ったのだが。

「残り物だなんて、とんでもない! お疲れのヴァール様にそのようなものを食べさせるわけにはまいりません」

 さらに泣きそうな顔になってしまった。

「そうは言ってもなあ。一晩おいたスープもなかなかうまいぞ」

「スープ……ヴァール様の手作りですか?」

 なぜか、かろうじて涙はすんでのところで止まった。

「ああ」

 ヴァールはたじろぎ答える。

「どんなスープですか」

「干し肉と豆だ」

「味つけは? シンプルな塩味ですか? それとも最近となりの村で流行っているらしい発酵調味料というものでしょうか」

「しいて言えば中央風、か」

「まあ! 都市の味ですね。ヴァール様のお作りになった中央風のスープ。きっと美味しいのでしょうね」

 カムラの表情から不安は消え去っていた。

 その代わりに宿った妙なテンションでスープについて質問を続ける。

 そんなに料理に熱心だったのかと関心しながら、しかし今までそんな素振りは微塵もみせなかったなあなどと過去の様子を振り返る。その間にも、カムラは頭の中に思い描いたスープ像に恍惚となっていた。

「食べてみるか?」

 ヴァールの提案に、ぱあっと花が咲いたようにカムラの表情が晴れた。しかしきまじめなカムラ。食事の準備を忘れたことへの後ろめたさから、顔いっぱいに喜びの表情が出てしまいそうになるのを必死に抑えている。

「よ、よろしいのですか?」

 笑いたいのか泣き出してしまいそうなのかわからぬ顔で言う。

「ああ」

「本当に、本当にですか?」

「ああ」

「夜食を持ってくるのを忘れるという大失態を犯したのに、そのようなご褒美をくださるのですか」

「ご褒美……か?」

「それに、私がいただいてしまったら、ヴァール様の召し上がる分がなくなってしまうかもしれませんよ?」

「そんなに腹が減っているのか」

 軽く驚きはしたが、まあそれはそれで構わないかと、ヴァールは了承するつもりになっていた。だがカムラにそのつもりはなかったらしく、顔を真っ赤にしながら否定した。

「なんだ。結局食べたいのか。食べたくないのか。どっちだ」

「ぜひ、いただきたいです」

「じゃあ食え」

 こんなに簡単に解決する話なのに、カムラが相手となるとどうしても遠回りしがちだ。

 ヴァールはため息をこぼしながら台所へ。

「あ、私もお手伝いします」

 とカムラが後を追ってくる。

 スープを温めるくらいのことになんの助けが必要なのか。再びため息がこぼれそうになった。

 小さな作業台とかまどと水瓶があるだけのシンプルな台所で、夜明けが近いにも関わらず『夜食』の準備が行われる。

 準備といっても、湯を沸かそうとかまどに上げていた片手鍋と、スープが入った鍋を入れ替えるだけ。あとは時々加減を確認すればいい。だから二人もいらぬと言おうとしたが、カムラがやる気に満ちあふれた顔でこちらをうかがうので、あとは任せてしばしの休息に入ることにした。

 煙草の煙をくゆらせながらカムラの方を見ると、買い置きしていた丸パンを探し当て、一つ二つと木製のボウルにとっていた。

 はぜる薪の音。立ち上る煙とスープの匂い。二人が同時に動けば体のどこかしらがぶつかってしまうような狭い空間での食事の支度。誰かの気配を感じながらの支度。

 どこにでもある朝の景色なのに、それが自分の家で起きていることだと思うと、とても居心地が悪かった。

 安楽を求めて、台所の端の暗がりに逃げ込んだ。日干しレンガの壁に寄りかかると、背中にじんわり冷たさが伝わって胸の中のもやもやを払ってくれるような気がした。

「それにしても、目を覚ましませんね」

 カムラは言いながらスープ皿を探している。

「珍しいのか?」

 村で生まれ育ったカムラは、湖を目当てに訪れた人間を何人も見てきている。当然のことながらよそ者のヴァールよりもずっと詳しい。

「湖に入るなり気を失ってしまうこと自体、あまりないことですからね。まあ、あの体では湖が関係していなくても、今のような状態になっていたかもしれませんけど」

 たしかに、とヴァールは湖のふちで見た少女の姿を思い浮かべた。カムラも似たような様子を想像したのだろう。切なそうに息を吐いた。

 ヴァールの視線に気づいて笑顔を作ろうとしたが、少女の残像に引きずられたのか、なんとも苦々しい微笑みとなった。

「早く目を覚ますといいですね」

「そうしてもらわないと、俺がゆっくり休めん」

 言葉につられてあくびが出る。

「まあ。純粋に心配なさっているのではないのですか」

「早く追い出して、ベッドで横になりたいだけだ」

 そう言ってパンをつまもうと手をのばす。

「本当は心配なさっているのでしょう?」

 カムラは機敏な動きでそれをよけた。パンと引き替えに本音をどうぞ、と言わんばかりのいたずらな目つきで返答を待つ。

「まったく」

「だって、ここまで運んできてくださったじゃありませんか」

「ベッドを占領されることまで考えなかった」

「目を覚まさなければ、寝かせる場所が必要になるのはごく自然な流れのような気もしますけど」

 カムラは人差し指をあごに当てて考え込む仕草を見せた。

「それにもし私が待っていなかったらどうするおつもりだったのですか?」

「だから深くは考えてなかった」

「他の方に頼るにしても、今の時期はみなさん朝早くから収穫作業で大忙しですからね。そうなると、どこにも預けられなかったヴァール様は、一人でこの子を看なければならなかったということですね」

 引き続き、考えるポーズを維持したままあれやこれやと想像を膨らませる。隙を見てパンを取ろうとしたが、そこはしっかり防衛を忘れない。

 ヴァールはあきらめてカムラの言葉を待った。どうせ、くだらないことを考えているのだろう。カムラの顔が、耳ぶまで真っ赤になったのを見てヴァールは確信した。

「服を着替えさせたり、体を拭いたり…………まあ! ヴァール様がそんなことを!? まさか、それが目的で頑張って背負ってきたわけではありませんよね??」

 予想通りだった。予想通り過ぎて言葉を失う。

 ヴァールの沈黙を肯定ととったのか、カムラは破廉恥だなんだと騒ぎ立てた。

「深く考えていなかったといってるだろ」

 鍋のふたがコトコトと暴れ出す。

「本当に、本当ですか?」

「置き去りにできなかった。それだけだ」

 スープは少し熱すぎるくらいになっていた。

 カムラは突然真剣な顔つきになって、再び考え込む。

 二、三度瞬きをしたのち、やわらかな笑みを見せた。

「つれないことをおっしゃっても、やっぱり心配で連れてきたのですね。さすが、ヴァール様です」

 ずいぶんと好意的に意訳してくれたものだ。

 だがこれに反論すれば堂々めぐりに陥りそうなので、あえて口をつぐんだ。カムラの笑顔にはただ頷きを返すのが一番だ。

「スープの加減も良さそうですし『お夜食』にいたしましょう」

 カムラは嬉しそうに、少女が眠る部屋の方へ戻った。

「もはや朝食だけどな」

 ヴァールカムラに聞こえぬほどの弱々しい声量で言った。

 空はすっかり明るくなって、太陽の登場を今か今かと待っているようだった。

 ヴァールは鍋を持ってカムラの後に続いた。

 テーブルの上には、ヴァールとカムラの座り位置を示すように食器がセットされていた。しかしパンがない。カムラもいない。

 カムラはパンが入った木の器を抱えたまま、ベッドの傍らに膝をついていた。眉間にしわを寄せ、右へ左へと首を傾けている。

「どうした」

 ヴァールの声に振り返ったカムラは、ただオロオロするばかりだった。

「何かあったのか?」

「それが、今動いたように見えたのです」

 いっそう深刻な面持ちで訴えるカムラ。

 しかしヴァールは彼女の動揺に同調することなく、鍋を置き、椅子を寄せ、そしてどっしり腰を下ろした。

「死んだわけじゃないんだ。そりゃ動くだろ」

「ですが、寝返りを打ったとか、そういう自然な動きではなくて……鼻が」

「鼻が?」

「こう、『くんくん』と」

「は?」

 何を言っているのかと訝ったが、スープをよそおうと鍋のふたを開けた時、カムラの言葉の意味が理解できた。

 それはまさしく部屋に立ちこめた豆と肉の匂いを味わうかのような反応であった。

 気を失っているはずの少女の鼻が動いていた。

 ヴァールとカムラは何も言わずに顔を見合わせた。

 何も言わずとも、カムラは一歩引き代わりにヴァールが少女に一歩近づく。覚醒が間近なのかと、軽く頬を叩いてみた。少女は眉間にしわを寄せ小さく唸った。しかし唸っただけで目を覚ます気配はない。

「においに強く反応していたみたいですよね。もっと刺激したら目を覚ますでしょうか」

 さあどうだろう、というヴァールの返事を待たずに、カムラはパンを少女の顔へと近づけていた。

 少女は反応を示す。

 『すやすや』という寝息の中、『くんくん』という音が混じった。両者の割合は時間をおうごとに変化する。やがて、意識がないということが疑わしく思えるほどに、少女の鼻はせわしなく動くようになっていた。

「このまま続けたら目を覚ますかもしれませんね。さあ、早く起きて下さーい。今ならヴァール様の手作りスープも温まってますよー」

 喜びのあまり興奮気味のカムラは、パンの匂いで誘い覚醒をうながす。少女の意識をパンで釣り上げようとでも思ったのか。軽く腰を浮かせて少女の顔をのぞき込む形になった。

 と、その時。

 少女が動いた。

 上半身を勢いよく起こしたかと思うと、口を大きく開けてパンにかぶりついた。

 カムラはとっさに腕を引く。彼女に似合わぬ素早い反応だったが、そのおかげで指まで噛まれることは回避できた。しかし守るべきは指先だけではなかったようだ。

 起き上がった少女の頭が鈍い音を立ててカムラの額にぶつかる。その威力のせいか。少女の頭がよほど硬かったのか。はたまた避けきれなかったショックのせいか。カムラは額を押さえるなり、声も出さずにその場にうずくまってしまった。

「おい」

 どちらに先に声をかけるべきか決断できず、どちらにともなく呼びかけた。

「わ……私は、平気です。それよりも――」

 額を押さえたままではあるがカムラがそう言うので、ヴァールは少女に注目した。

 上体を起こした少女。

 カムラから奪ったパンをしっかりくわえていた。

 しかしその目は未だ閉じられたままである。

 興味本位でパンを引っ張ってみると、少女の体が一緒についてくる。それでもまだまぶたが開く気配はなかった。眠ったままでもパンをくわえて離さないなどというふざけた行動を、湖で見た儚き姿からどうして想像できようか。

 唖然としていると、さらに二人を驚かせるように少女が動いた。

 少女はパンをまるまる頬張り、そこでようやく目を開けた。ただし全開にはまだ足りない。薄く開いたまぶたの奥にかろうじてあの虚ろな瞳が見てとれるという程度だった。

 少女の頬がパンの形そのままに膨れる。そのままで、部屋のあちこちに視線を向けた。首を振ることなく、体をひねるでもなく。瞳の動きで追える範囲で視線を巡らせる。

 ヴァールを見る。カムラを見る。そしてテーブルの上に並べられたものを他の何よりも長い時間見つめてから、再びヴァールを見た。いや、正しくはヴァールがいる方向を、か。焦点が定まらない眼差しだけが湖で出会った彼女を思い起こさせる。

 少女は口の中、最後のひとかたまりを丁寧に咀嚼して、渇いた喉に苦戦しながら飲み込んだ。

 空になった口が、そっと開いた。

 唇の端に残っていたパンくずをぺろりと舐めてからようやく声を聞かせる。

 ふっと息を吸い込む音が、部屋を包んでしまうほどの緊張を生んだ。

 ヴァールはいくつかの言葉を予想していた。予想というよりも、湖に入ったほぼ全ての人間が発する言葉を、きっとその言葉を口にするのだろうと思っていた。

『ここはどこだ』

『お前は誰だ』

 そして、

『私は、誰だ』

 湖の恩恵を受けられたものがまず発する言葉。

 だが彼女は違った。

 未だ覚醒しきらぬ少女はただ一言、

「イタイぞ」

 と呟いて、思い出したように額を押さえた。

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