3.
「この黒パンとやらもウマイな。だが、こっちのスープはもっとウマイ!」
そう言いながら、少女は買い置いてあった一週間分のパンと昨日の残り物であるスープを次々にかきこんだ。たちまち器の底が見えてしまうほどの勢いである。
まったく別人に見えた。
死人のようで、幻想的で、美しくさえ見えて、放っておけない。しかし近づきすぎてもいけないような気高さを感じたはずなのだが。
目の前の少女は、無邪気で幼稚で『少女』そのものであった。大きな目をくりくりと動かし、大飯を食らう。テーブルの下では、地面に届かず宙ぶらりんになった足を忙しく前後に動かし、時にヴァールのすねを蹴り上げた。
そんな攻撃にも反応できぬほど、少女の変化は衝撃的であった。
ヴァールの動揺など知らず、少女は皿に盛られたスープを喉の奥へと流し込んだ。
皿を顔にかぶるほどに傾けて、最後の一滴までたいらげると、満面の笑みを二人に向けた。
「ぷはあ! ウマイな! ウマイぞ! この汁は何という食べものだ? こんなウマイもの、はじめて食べたぞ」
そんなに絶賛されるようなものではないことは、作った本人がよく知っている。よほど腹が減っていたのだろう。
「名前なんかあるか。ただのスープだ」
無愛想に答えると、少女はにたあっと笑った。
「『タダノスープ』というのか? 不思議な響きだな。聞いたことがない。どこの国の食べものだ」
「いや、そういうことじゃ――」
「何が入っている?」
矢継ぎ早に問いを投げてくる。
元気いっぱいの勘違いを訂正するのが先か、新たな問いにだけ答えていくのが正解か。そもそも、一つ一つに丁寧に答える義務はないだろう、とため息をこぼしたところに更なる質問が飛んできた。
「誰が作った? ほめてやるぞ」
どこの貴族か王族か。
人の笑顔を見て、これほど腹立たしいと思ったのはいつ以来だろうか。先ほど一度は見逃したテーブル下での粗相に対する怒りも手伝って、苛立ちはいっそう色濃くなった。
煙草でごまかそうか、それとも直接少女にぶつけてやろうか。考えたがどちらも実行せずに済んだ。
「こちらは豆と干し肉と、帝都でよく食べられる香草が入った中央風のスープだそうです。作ったのはこちら、ヴァール様です」
すかさずカムラが助けに入ったのだ。
カムラは簡潔に、そして余すことなく少女の問いに答えた。
さらに
「ヴァール様はお優しい方で、見かけによらず料理もお上手なんですよ」
どこか誇らしげな表情でいらぬ情報を付け加える。本人は気にしているという大きめの胸を突き出すように、しゃんと背筋をのばしていた。
つられて少女も姿勢を正し、カムラの誇りに敬意を払う。それからヴァールの方に顔を向けた。
「お前か? お前が作ったのか? すごいな。とてもウマイぞ。気に入ったぞ!」
言いながら、ばしばしとヴァールの肩を叩いた。
ヴァールは何も言わず少女の手を払いのける。なるべくそのペースに巻き込まれぬように自分に言い聞かせる。叩かれても叩かれても……どんなに苛々が募っても、顔色を変えず、涼しい顔で頬杖をついた。
叩いても叩いても反応を見せないヴァール。少女は一瞬、きょとんとして手を止めたが、
「なんだ? 照れてるのか? おっさんのくせにカワイイやつだな」
とさらなる攻撃を加えてきた。
「あのなあ……」
引き続き、叩く叩く。
あまりに怒りがふつふつと沸き上がると、やがて怒ることに疲れて、ふうっと息を吐いたのを境に苛立ちはきれいさっぱりなくなった。半ば呆れ半ば感心して、というような心持ちで少女の打撃を甘んじて受けるのだ。
それにしても、よくもまあその身体で、しかも目覚めたばかりという状態でこのテンションに到達できるものだ。不安になるほどに華奢な体つきや、湖での頼りない足どりを思えば、食べることはおろか起き上がることもままならないといった状態でもおかしくはない。
大きな声で笑ったり、大口を開けて人様の食料を食べ尽くそうとするような状況など予想だにしない。
興奮にまかせて動いていてはいつか体が悲鳴を上げるだろう。そう冷ややかな視線を送っていたら、案の定その時はやってきた。
少女は声を上げて笑っていたかと思うと、突然ひどく咳き込んだ。顔が真っ赤になるほど咳をして、それがやむと、もともと少ないはずの体力を使い果たしてしまったのか、ぐったりした様子でテーブルにもたれかかってしまった。
一つ一つの呼吸は長く重く。それでも鼻が食べ物の匂いを感知すれば腹が鳴り、口の端にはよだれが光り、食欲は失っていないのだと主張する。だがパンにもスープにも手はのびず――いや、のばせず、また一段とだらしなくテーブル上に崩れた。
それ見たことか、とさらに冷めた視線を向けるヴァール。
「大丈夫ですか」
一方カムラは心配そうに少女の体を支えた。
「ふむ。なんだか、とてもからだが重いぞ。すごく疲れたぞ」
少女はむむむとうなり声を上げながら、必死に上体を起こした。
「その体でこんな山奥まで上がってきたんだ。当然だ」
「そうですね。高所に慣れていないせいもあるかもしれませんね」
ヴァールの言葉にカムラが続く。
二人の言葉に、少女は目を丸くして首をかしげた。
「山だと? ワタシは山にいるのか。……ん? ここはどこだ。ワタシは……あれ?」
スプーンを握ったまま、もう一度、今度は逆方向に首を倒した。
きょろきょろと室内を見回して、カムラの顔を見つめ、ヴァールの姿を見つめ。寝覚め一番にパンをくわえ虚ろな目で眺めたのと同じような順番で周囲を観察する。偶然か。最後はヴァールのところで止まって、つま先から頭のてっぺんまでじっくり見つめた。
てっぺんまで行ったが、少し下りてくる。
ヴァールとばっちり目を合わせて、一つ瞬きをした。
「そうだ。お前たちは何者だ」
さんざん馴れ馴れしくしておいてそれはないだろう。と思ったのはヴァールだけだったろうか。
だが反面、その言葉はいつか来るだろうと覚悟していた言葉だった。
やっと来たかと、ヴァールとカムラは顔を見合わせた。
「それでは、私からお話ししますね」
カムラは確認するようにまずヴァールに視線を送った。面倒な役目を引き受けてくれるというのだ。断る理由はない。目配せで同意する旨を伝えると、カムラは神妙な面持ちで頷いて見せた。
「よろしいですか。落ち着いて聞いて下さいね」
そう言って、寄りそうように自分が座っていた椅子を少女の方へと近づけた。
真っ直ぐな眼差しを向けると、少女は事の重大さを察したようで、スプーンを握る小さな手のひらにぐっと力を込め何度も頷いた。
多少、表情も強ばっていただろう。気づいたカムラがすかさずフォローを入れる。大事な話だがあまり気を張らずに聞いてほしい。そう言わんばかりの笑顔を送ってからカムラは話し始めた。
山道で村人に拾われたこと。介抱してくれた人の家を抜けだしたこと。そこから山道を歩き湖に行ったらしいこと。湖でヴァールに会ったこと。水の中で意識を失い、その後村に運ばれたこと。そして食べ物の匂いに反応して目を覚ましたこと。
カムラは時々、確認するようにヴァールを見る。はなから訂正も補足もする気はなかったので黙って聞いていたが、目を覚ました際に起きた事件のくだりは、少女に気を遣ったのか省略しようとしたので代わって説明してやった。聞くなり、少女は「そういえば……」と申し訳なさそうに、そしてカムラは「いえいえ。たいしたことではありませんから」と恐縮した様子で、それぞれ自分の額をさすりながら謝罪する。至近距離にも関わらず勢いよく、そして何度も頭を下げるので、またぶつかるのではとヒヤヒヤしたがその心配は杞憂に終わった。
繰り返し頭を下げすぎたせいでフラフラになりながら顔を合わせる二人。
少女はぶるっとかぶりを振って目眩を振り払うと、あらためて姿勢を正した。両の手のひらをグーに握り話の続きを待つ。まるで英雄の冒険譚でも聞いているかのように、猫みたいに大きな目をキラキラと輝かせてだ。
「それで、ワタシはなぜ『ワタシ』がわからないのだ」
待ちきれずに発した言葉は底抜けに明るい。
この無垢な明るさを奪ってしまうであろう話をこれからしなければならない。
カムラは努めて平静をよそおい、説明を再開させた。
「自分が誰なのかわからないのは『あなた』が湖に溶けてしまったからですよ」
カムラは自身の言葉に、そっと目を伏せた。
「ワタシが溶ける? どういうことだ」
少女は身を乗り出してカムラの顔をのぞく。
「ワタシはここにいるではないか。溶けてなどいないぞ。むむ。なぞなぞか?」
「なぞなぞなどではありません。あなたは……生まれてから湖に入るまでの『あなた』は溶けてなくなってしまったのです」
その言葉では少女は何一つ理解できなかっただろう。それは表情を確認するまでもなく容易に想像がついた。
だからカムラは用意していた言葉の続きを話し始めた。カナズに住む者たちが代々そうしてきたように、できるだけ悲しさを隠した顔で、淡々と。
「あなたが入った湖は『
「ふつうではない、だと?」
「ええ。『遺却の湖』は……人の記憶を溶かしてしまう特別な湖なのです」
カムラはようやく核心を告げて、深く息を吐いた。
世界には遺却の湖と呼ばれる湖があった。
それは伝承などではなく、誰もが知っているこの世界の常識だった。
その湖の水は、触れたもの記憶を奪ってしまう。その現象を溶けたと表現する者もいれば、奪われたと言う者もいる。どちらであれ、湖に足を踏み入れた者の身に起こる事象は変わらない。
全く、記憶を失ってしまうのだ。
自分がどこで生まれ、どのように生きてきたか。誰と出会いどんな想いを抱いていたか。何を夢みて何を手に入れたのか。自分という人間を形作っていたものが瞬く間に失われてしまうのだ。
それ故に、多くの人は湖を畏れ遠ざける。
だが、まれにその力に希望を見出す者たちもいた。
「その人たちは、忘れたくて仕方がないことがあって湖に来るのですよ」
誰かを思い浮かべたのか、カムラは隠しきれずに悲しみに染まった表情を露呈させた。
「もちろん、何も知らずにとか、不注意でとか、自分の意志とは関係なしに入ってしまう人もあるそうですが。あなたの場合は自ら望んで湖に入ったそうです。そうですよね、ヴァール様」
「……ああ」
短い返事を口にすると、少女の最後の姿が思い出された。まるで今目の前にしているかのように鮮明に見えたのは、湖に入る間際に見せた晴れやかな顔。そして
『これでやっと私を消せるのだな』
生々しく耳にこびりついて離れない、はっきりとした口調と凛とした声。
本来の彼女は確かにそう言っていた。
暗闇の中、石の光に淡く照らされた彼女は、自ら望んで湖に身を投げたのだ。
その悲しくも誇らしげに見えた少女と、目の前で混乱に飲み込まれぬよう戦っている少女とは、本当に、まったく別の人間に見えた。
今、少女はあどけない顔つきで、その顔立ちに似合わぬ険しい形相で、見知らぬ者たちが語った言葉を何とか理解しようとしていた。
眉根をひそめ、口をとがらせ、そしてついにスプーンを置いた。
「ワタシは、湖の水に、溶けて、いなくなってしまった、のか?」
一言ずつ、確認しながら言った。
カムラが苦しそうに肯定する。
少女はいっそう険しい顔つきになった。
「そうか。ワタシは、湖の水に溶けて、いなくなってしまったのだな」
もう一度、今度は噛みしめるように言って一人頷く。
瞳は宙の一点を見つめていた。そこに何があっただろう。悲しみか、戸惑いか。それともこれから先への不安だろうか
しかし、まもなく少女は表情を一転させた。
悲しみや憂いといった類いのものとはほど遠い顔をしていた。
「わかったが、わからんぞ!」
両の手のひらを力強くテーブルに打ちつけた。パンが跳ね、食器が音を立てる。
つまりは『現状は把握できたが、そんなこと言われても納得などできないぞ!』ということらしい。少女は鼻息荒く不満を訴える。
「なぜワタシは湖に入った? 捨てたい記憶とはどんなものだ? まったくわからんぞ」
非常に答えにくいことを、ど直球で尋ねてくる。
困るのはカムラだ。
なんとか少女を傷つけぬようにと言葉を選んでいるのだろう。「あの」とか「えっと」ばかりでなかなか前に進めない。
「なあ、本当に全部溶けてしまったのか? 『ワタシ』は何一つ残っとらんのか?」
カムラの返答を待たずに少女が言った。これもまた、心優しいカムラの口からは伝えにくいものだ。
『人生に絶望したのだろう』
『胸に抱えたままでは生きていくのが難しい、最低最悪な記憶だったのだろう』
『こうして話している限り、お前はもう何一つ残っていないさ。残っていると思う方がどうかしている』
だから、つべこべ言わず『今の自分』として新しい人生を生きるんだ。
こう答えるしかないだろうとヴァールは思う。
だが心優しいカムラの口からは、そんな言葉は出てこない。
考えていたらあくびがでた。それでベッドが恋しくなった。早く終わらせてしまおうと、ヴァールは重い口を開いた。
「覚えていることはあるか」
ヴァールの言葉に少女は目を丸くする。
「むむ。おぼえていることだと? おぼえていること……おぼえていること?」
「言葉。人の顔。風景。なんでもいい」
「むむむむむ」
単純なようで難解なヴァールの言葉に少女は腕を組んで考え込んだ。すぐには思い浮かばなかったようで、やがて目を閉じ頭の隅々まで探し回る。
放っておけば何時間でもそうしていそうだった。が、途中経過は芳しくないようで、少女はしかめっ面へと変わっていく。
「わかったろ。全て消えた。もう戻らない。以上だ」
ヴァールは何の感情も込めずに言い放った。
少女は目も口もまん丸に開いて硬直する。
「ヴァ……ヴァール様。もう少し、こう、違う言い方といいますか、」
カムラもまた硬直しかけていた。傷つけぬよう言葉を選べと言いたいのだろう。
「無意味だ」
そう。そんなことは無意味であるし、時間の無駄だ。とにかく早く寝たいのだ。
だからヴァールは、カムラが狼狽しても、少女が興奮気味に食ってかかってきても気遣うことなく続けた。
「絶対に戻らないというか!」
「まず無理だ」
「本当に、本当か?」
「諦めるんだな」
「そんな……だが、きっとなんとか! ……ぐぬぬぬ」
吐き捨てるように言ったヴァールの言葉に、少女はこぶしを握った。反論の言葉を探したようだったが、次に続く言葉は向かってこなかった。代わりに「どうしてそんなひどいことを言うのだ! お前など嫌いだぞ!」というような子どもらしい反撃のしかたで攻めてきた。
そして言葉だけでは飽き足らず、握ったこぶしをヴァールめがけて振りかぶった。
小さな小さなこぶし。ぱたぱたと、ヴァールの胸やら腹やらを打つ。力は強くはないが、煩わしいことこの上ない。
つい先ほど似たような攻撃を受けていたことを思い出し、今度こそはと怒りをあらわにしたところで少女が手を止めた。
反撃を察知したのか。一瞬。びくっと身を縮ませたかと思うと、決してヴァールと目をそらさぬようにしながらゆっくりと動く。まるで獣と遭遇した際の対処法だ。ある程度距離を広げてから、勢いよく身を翻した。その先にいたのはカムラである。
少女は期待たっぷりの視線でカムラに助けを求めた。
「本当に、戻らぬのか」
先ほどまでの剣幕とは打って変わって、弱気な声色とともにすがるような眼差しを向ける少女。多少潤んでさえ見えるのは素直な反応なのか、それとも計算か。
カムラには効果覿面で、彼女は両腕を広げて少女を受け入れ、子どもをあやすように少女の頭を撫でてやった。そうしながら優しい口調でヴァールの説明に付け加えた。
「方法はあるにはあるのですが……」
カムラの自信なさげな表情につられてか、その一言ではまだ少女の表情は晴れない。
「溶けた記憶はやがて石になるのです。自分の記憶の石、自分自身の『|追憶
「その石はどこにある?」
「ええと、数日ほどで湖の底に現れると言われていますが、はっきりしたことはわかりません」
「だが湖に現れるのだな」
「ええ。それは間違いないはずです」
そこまで聞いて少女はようやく笑顔を見せた。いや、したり顔と言った方が正しい。
「なんだ。簡単ではないか。……この、ウソつきめ。ウマイものを作れるのにウソをつくとは。イイ奴なのかワルイ奴なのか、よくわからん奴だな」
得意げにヴァールの体を小突く。
小突くと言うには勢いがつきすぎている感はあったが、これに怒りをぶつける気は起きなかった。ヴァールの関心は他に向いている。
「記憶のありかも、取り戻す方法もわかっているのなら、ワタシは『ワタシ』がなぜ記憶を捨てたか、確かめられるではないか」
重大な事を忘れてはいまいか、ということだ。
「すぐに取りに行こうではないか!」
オー、とこぶしを突き上げた少女に対し、ヴァールはため息をつき、一方カムラは自分の発言に責任を感じたのか申し訳なさそうな顔をしていた。
少女は二人の表情の理由が理解できず、こぶしを突き上げたまま首をかしげる。
ヴァールはもう一度ため息をこぼしてから言った。
「湖の底に現れると言っただろ」
「だから、わかってるのだからさっさと取りに行こうではないかと言っている」
「ええと……、よろしいですか? 湖に入ると記憶が溶けてしまうのですよ」
カムラの言葉にまだぴんとこない少女。
「お前がしようとしているのは、石を増やすだけのマヌケな行為だ」
だめ押しの一言でようやく気がついたようだ。
少女は見るからに落ち込んでいるといった風に肩を落とした。
涙をこらえているのか、湧き上がる怒りに耐えているのか。しばしうつむき体を震わせていたが、まもなく爆発した。
「『ワタシ』め! なぜ湖などに入ったのだ!」
そうやってスタート地点に戻った。
「自分がだれかわからず、帰るところも知らず、ワタシはどうすればよいのだ……」
今度の震えは涙のせい。
丸い輪郭の中に、下がり眉と口角の下がりきった唇。ぐっと下唇を突き出して悔しさを滲ませる。
強気になったり、怒ったり、嘆いたり。目まぐるしく表情を変えてきたが、しばらくはこの表情に落ち着きそうだ。
「不安かと思いますが、大丈夫です。幸い、カナズの……この村の人間は、あなたのように記憶を失くしてしまった人をたくさん見てきましたから」
カムラはそう言って優しい笑顔を見せた。
「本当か? そいつらはどうなったのだ?」
少女は泣き顔のままカムラにしがみついた。少女の中ではすでに『カムラ=優しくしてくれる人間』という式が成立していたのだろう。カムラに気づかれぬようにヴァールに向かって舌を出した後、豊満な胸元へ飛びこんだ。
その手の期待には見事に応えるカムラである。少女を歓迎すると、優しく、そして力強く抱きしめた。
「みなさん、新しい自分として、新しい人生を歩まれていますよ」
「その新しい人生には、食べるものもちゃんとあるのか?」
少女があまりに真面目な顔で、食事の心配についてを特に強調して尋ねるので、カムラは思わず笑ってしまった。
「もちろんですよ。食べ物もありますし、住むところも、家族だって手に入れられます。幸せに暮らしていると便りをくださる方もいましたよ」
「そうか」
「ええ。ですから安心して下さい」
カムラの言葉に少女はまだ納得し切れていなかった。カムラの胸に顔を埋め、むむむとうなり声を上げる。
「まずはカナズの長であるアルナーサフ様にお会いして、それから先のことを考えましょう。それが村の決まりです。アルナーサフ様にお会いして新しい名前をいただき、道を示してもらうのです。そして少し山道を下りたところ所にあるワアダに行きます。そこには記憶を失くした方のお手伝いをしている人たちがいますから、きっとあなたの助けにもなりますよ」
すると少女はぱっと顔を上げカムラを見上げた。
キラキラの目で尋ねる。
「その通りにすればなんとかなるのか?」
「それは……」
少女の言う『なんとか』には、新しい人生を歩むこと以外、つまり先ほどから少女がこだわっている自分の記憶を取り戻すことも含まれているような気がして、カムラは言いよどんだ。
「なんとかなるか?」
瞳の輝きは増す一方。
「なんとかなる」
言いよどんだカムラに代わってヴァールがはっきり言い切った。
「本当か? 本当だな?」
少女は喜び跳ね上がった。
カムラは慌ててヴァールの腕を掴む。そしてその行為に恥じらうというワンクッションをおいた後、動揺を隠そうともしない様子でヴァールに迫った。
「そのような嘘を言ってはいけません」
「嘘じゃない」
「ですが『なんとか』というのは」
わかっている。が、
「俺の『なんとか』はなんとかなる」
「そんな強引な……」
カムラは納得いかないようだったが、少女がもう後には退かせぬというような顔でカムラの笑顔を待っているものだから、
「……なんとか、なります」
不本意ながらそう答えるしかなくなった。
「よし! では決まりだ! ワタシは行くぞ。名をもらいに行くぞ。なんとかという村にも行くぞ!」
うん、と頷いた少女。
カムラは騙す結果になってしまったことを気に病んでいる風ではあったが、少女の決断を受けとめるようにやわらかく笑ってみせた。
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