二、 遺却の湖
1.
ジャバル山脈。ネーヴェの屋根。ミヴツァルの城壁。
三国が三様に呼ぶ巨大な山脈はその名のひとつが表すように、高さ、広さ、険しさゆえに隣国からの干渉を防ぐ重要な壁となっていた。
麓からまず始まるのは緩やかな山道であったが、やがて深い谷、荒れた岩稜となる。初めて訪れた者の多くが、その先に見えるなだらかな丘が終点だと思いがちだが、本当の終点、巨大な山脈の奥峰は丘を越えたところで初めて姿を見せる。
ついたてのように立ちはだかる山々を見つけた時には、誰でも言葉を失うだろう。
真っ白な雪に覆われた山を相手に、眺める以上のことをしてはならない。決して挑んではならない。ひとたび足を踏み入れたなら、敵を迎え撃つ兵士のごとく沢筋を駆け下りる雪の層に押し流される危険がある。
あるいは足もとに隠れるクレバスに吸い込まれ、二度と陽の光を目にすることができなくなる。
今のところ、この壁を越えたものはいない。誰も試そうとは思わない。
しかし、この厳しい山中にも人の住む集落は数多くあった。地上では蒸気機関による文明が目まぐるしい進化を遂げているというのに、彼らの大半は古くからの不便で厳しい生活を続けていた。
その中でも最も深い場所、奥山への道が突然急勾配へと変わるその間際の高原にある村、カナズに向かいヴァールは山道を下っていた。
山道といっても、湖からカナズまでは比較的歩きやすい道で、人ひとり担いでいてもそれほど苦にはならなかった。
しかし。
「どうして俺がこんなことを……」
そうこぼさずにはいられない。
少女が水に―正確にはヴァールの腕に倒れ込み意識を失ってしまった、そのあとのこと。
とりあえず水から引き揚げ、とりあえず岩場に寝転がせ、とりあえず煙草をくわえた。細い煙を吐き、どうしたものかと考えながら少女の顔を見つめた。
考えるといっても答えはほぼ決まっていた。
寒空の下。濡れた衣服。不健康そのものの肢体。
これだけそろった不安要素を目の前にして、見捨てる者がいるだろうか。
「……いや、いるな」
ふと浮かんだのは、長い付き合いの悪友の顔だった。あいつなら『自業自得だ』と憎たらしい笑みを浮かべながら平気で置き去りにするだろう。
そう割り切ることができたなら楽だったかもしれない。しかし友人の言葉に一度は頷きながらも、それでもヴァールの頭には少女を運ぶ以外の選択肢は浮かんでこなかった。
短い一服の後、ヴァールは少女を背負い、湖から小一時間ほど下りたところにある集落に戻ることに決めた。記憶の中の友人が楽な道を示してくれたのにも関わらず、それを払いのけ選んだ結果だ。
それでも、愚痴のひとつくらいはこぼしたくなる。
「どうして俺がこんなことを」
それも、己の身を守るための防寒具を彼女に貸し与えてまでだ。
冷え切った夜の山の空気と、濡れた少女の体とがヴァールの体温を容赦なく奪っていく。ガチガチと歯を鳴らしながら、ヴァールはずり落ちてくる少女の体を何度も担ぎ直した。
少女の体は驚くほどに軽かった。十にも満たぬ幼子を抱き上げたかのような手応えだった。小さく未発達な体を背中で感じていると、この少女はいったいどんな生活をしてきて、何を想いこの山奥の湖にやってきたのかとつい詮索したくなる。そして『特別な湖』はお前の声に耳をかたむけ願いを叶えてくれたかとたずねたくなった。
「まあ、きっと叶えられたろうな」
ヴァールは苦笑をこぼした。
変われない自分の目の前で、少女は変わってしまったのだ。気づかないフリをしてみても、心の隅で良くない感情がくすぶっている。
ヴァールは膨らみかけた彼女へのやっかみを打ち消すように、山道を下る速度を上げた。
慎重さを捨てた足どりが砂埃を巻き上げ、石のつぶてを弾き飛ばす。荒くなる呼吸。肺の中まで冷え切ってしまいそうになったころ、ようやく暗闇の中に人家の輪郭が見えてきた。
その手前、少し離れて村を見下ろす高台に建っているのがヴァールの寝床である。小さな小さな道具小屋のような寝床である。よそものであるヴァールに与えられた仮住まいは、故郷の屋敷とは比べものにならないくらい狭く簡素な造りの建物であったが、見た目よりも居心地は良い。
その証拠に、小屋を目の前にしてヴァールの体が反応を示した。
もうすぐ休めると知ったのだろう。
主人の意思に先んじて、体が勝手に休息の準備を始めてしまったようで、どっと疲労が押し寄せた。背中に乗せた少女が鉛のように重く感じたし、そうなると両脚も思うように進まなくなる。このままではたどり着く前に思考回路まで休みに入ってしまいそうだ。
ヴァールは意識を保とうと、無理矢理に頭を働かせた。どうでもいいことを、事細かに頭の中に描くのだ。
建物まではあと何歩だろう。
たどり着いたら、まず何をすればいい?
火を焚こうか。そうだ。何よりも温まりたい。もちろん服も着替えなければいけない。
熱い飲み物をいれるだけの余力はあるだろうか。
そういえば、この山に来たばかりのころに村のじいさんに押しつけられたマズイ酒が残っていたな。味はひどいが寝酒に使うなら問題ないだろう。そいつを一口あおって、それでさっさとベッドに潜ってしまおうか。
色々と思考をめぐらせて、そこで大きな問題に気がついた。
背中の少女はどうするべきかと。
帰宅後の手順から彼女の処置に関する項目がまったく抜けていた。着替えさせるのか? ベッドを貸すのか? 朝になるまで様子を見て、それから対応策を考えるのか?
「どうして俺が」
ため息と同時に例の悪友の顔と彼が選びそうな答えが浮かんだが、やはりヴァールにはそれを受け入れるのは難しかった。
それでも居座ろうとする悪友の企み顔を必死に追い出そうとしていたせいだろうか。
ヴァールは家のすぐそばに来るまで、人影があることに気がつかなかった。
思わず眉をひそめる。こんな夜更けに―いや、こんな時間でなくても、ヴァールのもとを訪れるものはそういない。
「ヴァール様、お戻りになったのですね」
暗がりでも誰かとすぐにわかる、村一番の美しい音色で、優しい調子でヴァールを呼ぶ。
声だけでなく、そのシルエットでも彼女とわかった。
村の伝統衣装を隙なく着こなし、「古臭い」だ「作業の邪魔だ」ととかく無下にされがちな複雑なつくりの帽子までもをしっかり身につけた、カナズの民の手本のような少女。日中ならまだしも、誰しもが寝静まった刻限にあっても手抜きをしないのは彼女くらいのものだろう。
「こんな時間に、なんだ?」
ヴァールは目を細め、今一度、訪問者を確認した。間違いなく村に住むカムラという少女だった。人の寄りつかぬこの場所に、普段から何かと足を運ぶ変わり者だ。「嫁入り前の娘が、夜更けに男性のもとへ赴くなんてはしたないことです!」などと頬を赤らめ声を上げる類いの人間だったはずだが。何やら大きな荷物を抱えてヴァールの帰りを待っていたようだった。
カムラはやはり、初めは少し恥じらうような仕草を見せた。が、意を決したかのように顔を上げ、神妙な面持ちでヴァールを見つめた。
さらなる厄介ごとならよしてくれ、そう心の中で呟いたところで、その神妙な面持ちが彼女の悪癖の前兆であったことに気がついた。が、一歩遅かった。
すうっと一つ、心を落ち着かせるための深呼吸をしたかと思うと、カムラは先ほどとは一転、まくしたてるような勢いで話し始めた。
「実は行方がわからなくなった方がありまして。ええ、村の人ではなく、よそからいらした方なのですが。日暮れころに姿が見えなくなって、それで村の人たちで探していたのです。でもしばらく探したら、みんなが『どうせ湖だろう』と。それならわざわざ追いかけなくても、ヴァール様に任せたらいいじゃないかと言い始めたのです。今夜は月無しの夜だから、あいつはきっと湖に行っているだろうと。まさか見捨てはしないだろうから大丈夫だと一人が言い始めたら、他の方々も『そうだそうだ』と安心しきってしまいまして。あ、いえ、別にヴァール様の名前が出てきたところで安心したことに不満を抱いているわけではありません! 安心した途端にそろって家に戻ってしまったことに腹を立てているのです。ヴァール様に丸投げにするなんて……。しかも、本人の知らないところで、一方的にですよ? それを止められない私の無能さも問題ではありますが。……とにかく、本当に申し訳なくて、なんてお詫びすれば良いのやら」
「いや、謝罪はいいから、止まって――」
「そもそも! 村のみんなよりも私の方がヴァール様を信頼していますし、お慕いもしているんです。それなのに、カスールさんはなんて言ったと思いますか? 『よそ者だから信頼できないなんて、カムラも意外と度量が狭いんだなあ』ですよ? ひどいと思いませんか? 信用していないのではなくて、ヴァール様にだけ押しつけては申し訳ないと思っているからこそです。大事なことですからもう一度言いますが、私は村の誰よりもヴァール様のことを信じていますし……」
途中言葉を遮ろうとしたが、声を発したことすら気づいてもらえなかった。
興奮したり困惑したりするとひたすら喋り続け余計に混乱する。真面目で面倒見が良くて働き者で器量よしと評判のカムラの数少ない欠点の一つだ。
カムラはヴァールの声に気づかずとも、自分の話が途中で脱線したことに気づいたようで、急に失速していった。
そして
「あら。私ったら何を言おうとしていたのでしょう。ええと、たしか……」
そう言って、もう一度最初に戻ろうとする。
「行方不明の人間だろ」
復唱を回避すべく、ヴァールはすかさず助け船を出した。カムラはすっきりした様子でぽんと手を打った。
「そうです! あの、ヴァール様。これくらいの背丈で綺麗な黒髪で、白い装束を着た女の子を見ませんでし……あら?」
カムラは言いながら、ヴァールではなくその後方に目を向けた。ようやくヴァールの背中に気づいたようだ。そそくさと回りこみ少女の姿を確認するとホッと一安心というような表情を見せた。が、すぐ後に「そうとは知らず失礼いたしました」と何度も頭を下げた。
礼の数が二桁に届いたかどうかというところで落ち着きを取り戻し、最後の仕上げとばかりに深呼吸で息を整える。
カムラは持っていた荷物を顔の横に掲げてニコリと笑った。
「ヴァール様が連れ帰ってくださると信じておりましたので、せめて帰宅後のお手伝いをと、着替えなどを準備して参りました」
正直、疲れ切っているところに新たな面倒事がやってきたかと警戒していたのだが、この一言でカムラが天使に見えた。これで悩み事がひとつ減ったのだ。
「……助かった」
ヴァールは安堵で崩れ落ちそうになった体に鞭打って、我が家に、恋い焦がれた硬いベッドに倒れ込んだ。
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