一、 星の輝き、石の煌めき

 月のない夜だけ、湖には星座が下りる。

 神話をなぞれるくらいに、くっきりと、はっきりと湖面に映る星座をひととおり眺めてから、ヴァールは湖に足を入れた。

 まずは右足から。

 裸足のつま先に、そっと水の温度を感じたところで、全身の緊張は解かれる。

 そうなれば、あとは躊躇することなく一気に身体をあずけるだけだ。

 大きな音。無数のしぶきを伴って、ヴァールの体は湖へと沈んだ。

 ゆっくりと目を開けたら、ついさっき湖面に映っていた星座の一部が、水底にも存在していることに気づく。

 星の光ではない。そこにある石たちが放つ輝きだ。

 月無しの夜、湖底に散らばる小さな石が一斉に輝き出すのだ。

 ヴァールはそのうちのひとつを手に取った。

 石炭のように重たい黒色をしていた。不透明のそれは、宝石のように色や形が特別美しいというわけではなかったが、確かに自ら光を放ち、湖を彩っていた。

 点々と散らばった光の中、ヴァールはゆっくりと水面へと浮上した。仰向けで。手足をだらりとのばし、湖の水に己をあずけてしまうように。

 四肢にわずかな緊張も残すまいと、ふうっと長めに息を吐く。新しい空気の代わりに、直視したくない【現実】が胸の内に舞い込んできた。

「今回も……か」

 しかし落ち込んだのは一瞬だった。

「俺は俺のままだ」

 そう言って自嘲気味に笑ってから、星空に石を掲げた。

 こけた頬。無精ひげ。生え際だけが黒い不自然な白髪頭。フィンチ眼鏡のレンズの奥には生気を欠いた薄青の瞳。石の光が、まるで死人のようなヴァールの顔を照らす。

 まぶしさに目を細め、しかし口もとには今までとは明らかに違う類いの笑みをのせた。

 誰もいない湖で、こうしてひとり石と星座を見上げる時間がたまらなく好きだった。

 森林限界を超えた高地にひそむ湖である。周囲にあるのは地を這いつくばって小さな花を咲かせる植物くらいで、さらに夜ともなれば野生・家畜を問わず動物たちの気配も消え、まさにヴァールに孤独を感じさせる場所になる。

 暗闇にうっすら浮かび上がる山塊のシルエットに包まれながら、何も考えずに水面の揺らぎに身を委ねて、時折吹き抜ける風に流される。

 ただ光を見つめ、ただ風を感じて、頭の中は空っぽで。

 体が冷え切ってしまうまでの、ほんのわずかな時間にだけ味わえる快感が、この行為につきまとう悲しさや虚しさを忘れさせてくれた。このひとときは唯一の安らぎであった。

 しかし、今日は、そんな無二の時間を邪魔する無粋な来訪者があった。

 ヴァールの視界の外、水辺の石がガラリと音を立てた。

「誰だ?」

 体を起こし振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。

 思わず息を飲む。

 はじめは、その場に漂い始めた霧を人と見間違えたのかと思った。誰かが触れたならただちに消えてしまいそうな儚さがあった。闇のベールをかぶったような黒く長い髪。青白い肌の手足はあまりに細くか弱く、見ていて不快になるほどだった。

 風に押されるがまま、ふらふらと揺れながらかろうじて立っている。そう。立っているだけだ。虚ろな目はどこを見ているでもなく、重たそうなまぶたに今にも隠れてしまいそうだった。

 まったく『生』を感じさせぬ少女であった。

 だがなぜか、ヴァールは美しいと感じていた。

 額に描かれた見慣れぬ紋様や、土埃で汚れていても一見して良質のものだとわかる白い装束でその身を飾られているせいだろうか。

 それとも、水面の揺らぎに照らされた一瞬の表情がりりしく気高く見えたせいだろうか。

 なんにせよ、ヴァールは少女を美しいと感じ、同時に、関わるべきではないと判断していた。

 こんな時間に、こんな場所で出会ったのだ。きっとろくな出会いにはならない。

 早々に退散しようと動き始めた。話しかけてくれるな、そして何か起きるなら自分が去った後にしてくれと。

 たしかにそう思ったはずなのだが。

「お前も水浴びか?」

 あろうことか、自分の方から声をかけていた。

 挨拶代わりにと場違いな言葉を投げていたのだ。

 少女は何も答えなかった。

 それどころかこちらを見てもいない。

 ヴァールのことを認識しているかどうかさえも怪しかった。

 それでもヴァールは続けた。

「ここがどういうところか、わかった上で来てるのか?」

 ここは――【やり直し】を望むものが最後にすがる場所。少なくともヴァールの認識ではそうだった。

「どういう……ところか?」

 今度は反応があった。視線は変わらず、他の人間には見えぬものを見つめているかのように空中のただ一点から動かず。消え入りそうな声で、ヴァールの言葉を繰り返す。

「ここは普通の湖じゃない」

「ここは……ふつう、じゃない」

「この石を見ればわかるだろ」

 そう言って、さきほど湖の底で採取した黒い石を見せる。

「追憶の石がピエトラ生まれる場所。つまりここは」

遺却いきゃくの湖」

 ヴァールの言葉をさえぎって少女は言った。

 少女の目が初めてヴァールの顔を見つめた。ぴたりと視線が合ったはずなのだが、何も捉えなかったという風に、少女の視線は辺りをめぐる。

 湖をぐるっと一周見渡すとそっと目を閉じた。

 どれだけの時間、そうしていただろう。

 夜の風の音を聞いているのか、地を這う草の細々とした匂いを嗅いでいるのか、冷たい空気をその青ざめた頬で感じているのか。

何も言わず、何も見ず、微動だにせず。

 彼女が作り上げた沈黙は刻一刻と深くなり、やがて辺り一帯を支配した。

 気のせいか、星さえも瞬きを控えたようで、夜の闇がいっそう濃くなったように思えた。その色濃き闇にとらえられたように、ヴァールの両足は一歩も進めなくなった。

 動かぬ少女と、動けぬヴァール。

 ただ沈黙を見守るだけだった。

 積まれた小石が崩れる音。

 風が水を撫でる音。

 遠くで啼く獣の声。

 体をつたい落ちる雫の響き。

 己の鼓動や少女の息遣いまでもが鮮明に耳に届く。

 そこへもうひとつ、衣擦れの音が加わった。

 さらさらと流れる白い布。

 少女の頼りない両腕がわずかに持ち上げられる。その場のすべてを全身で受けとめるかのように、大きく両腕を広げたつもりなのだろう。だが実際には手招くほどにも挙げられず。

 力なく広げられた腕が余計に彼女の脆弱さを強調する。しかしヴァールの目には、少女の姿は晴れやかなものに見えた。何かが変わったのだと感じた。

 その瞬間だった。

 二人の間に風が駆け抜けた。

 風は少女の髪をふうわりと持ち上げて、ついでに小さな小さな笑みを引き出した。

「ああ、これでやっと私を消せるのだな」

 そう言って少女はゆっくりと目を開けた。

 少女の瞳に、満天の星空と石の輝きが宿っていた。

 その瞬間、彼女は変わったのだ。まるで生を取り戻したかのように、つややかに艶やかに笑ったのだ。

 なめらかなつま先が、今まさに水に触れようとしても、何のためらいも見られなかった。

 一歩一歩、少女が前へと進む。そのたびに、ヴァールの胸がひとつ、ふたつとざわめいた。

 目の前で少女は変わっていく。湖の力でさらに変わってしまう。自分は自分のままだというのに。

 胸の奥の方で何かがくすぶってヴァールを突き動かす。

 ヴァールは歩き出していた。

 一歩、二歩、水を押し進む。

 三歩目からは大袈裟に水をかき分けて、もがくようにして先を急ぐ。少女の歩みに急かされるように、次第に歩幅を広げ、呼吸を荒くし、髪を振り乱して少女との距離を縮めた。


 なぜそうしたのか、今となってはわからない。

 阻もうとしたのか、逃げようとしたのか、どちらでもないのか。

 なんのために手をのばしたのかもわからない。

 その手を少女が掴まなかった理由なら痛いほどよくわかるのに。

 弾ける水のしぶき。

 ヴァールは自分の心を見つけられぬまま、ただ少女の体を抱きとめることしかできなかった。

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