第五章 向こう側
第22話 本当の姿・1
重苦しい話がいつの間にか苦手な方向の話――――いや展開にすり替わったまま、セシルの状況はますますセシルにとって理解不能なものとなっていた。
何しろ、シガに抱きしめられているのだ。セシルからすれば、この男は何をとち狂ったかとしか思えない。
これが暴漢なら腕を引っかいたり噛みついてでも逃げてやるところだが、明日の夜も本番の舞台を控える役者の肌にはっきり痕が残るようなことはできない。ジュリアスの顎に頭突きしたのとはわけが違う。
外はまだ雨が止まず、窓に雨水が叩きつけてくる。それでも扉は半開きのままだから、廊下のほうから冷涼な空気が流れてきて室内は蒸し暑くない。適度な温度に保たれている。
そのはずなのに、異性との甘い駆け引きとはまったく無縁なセシルは、快適な空間を堪能することはできなかった。
「シガ、いい加減放せ」
「んー、まだこのままがいいなあ」
「駄目に決まってるだろ! どれだけこ、この状態だと思ってるんだよ! カイルがもし来たらまずいだろうが!」
「俺は別に構わないけど?」
楽しそうにシガは言って、セシルの腰に回す腕の力を強くする。セシルは押し当てるはめになった耳にシガの心臓の音を感じ、息を飲んだ。
まったく、とシガは苦笑した。
「セシルもそろそろ、こういうのに慣れないと。いくら君が恋愛もの以外の男役ばかり任されているとはいえ、いつ恋愛ものの女の子の役に抜擢されるかわからないんだから」
「母さんみたいなこと言うな。団長があたしにこういうの任せるわけないだろ。女の役だって、喜劇でしかしないんだし。この手の役は、あんたかジュリアスさんがすりゃいいじゃないか」
「でも、役の雰囲気って大事だからねえ。君は俺やジュリアスさんにはない雰囲気の男役だから、お鉢が回ってくるかもしれないよ。だから、このくらいは慣れておかないと駄目だよ」
興に乗ってきたのかますます楽しそうな色で笑い、シガはセシルの髪を撫でる。さらりと撫でられた感触と音が、セシルの肌や耳に届く。
「シガっふざけすぎっ……」
もうこれ以上は耐えられない。いい加減にしろと、セシルが眦を吊り上げたときだった。
隠れ家への侵入者を示す術具の警戒音が、再び高らかに鳴った。セシルはいつぞやのように助かったと安堵すると同時に、こんなところを見られたらと焦る。
シガは残念そうにため息をついた。
「無粋な輩がいるなあ、今いいところなのに」
「どこがだよ! ともかく放せよ」
「はいはい」
セシルが睨みつけると、シガは名残惜しそうにセシルの頬を撫で、抱きしめていた腕の力を緩めた。セシルは即座に逃げるとテーブルを挟んで向かい側のソファを目指し、その背を盾にする。
あからさまなセシルの拒絶に、シガは憮然とした顔をした。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。俺は君にひどいことなんてしないのに」
「あんなことされたら、逃げるに決まってるだろ!」
「あんなの、ただじゃれてるだけじゃないか」
「どこがじゃれてるだけだよ!」
異性と戯れることに慣れた自分と一緒にしないでくれ。セシルは心の中で叫んだ。
「じゃあ俺は、無粋な訪問者を追い返してくるよ。セシルはここで待っててよ。できれば続きがしたいな」
「誰がするか!」
にっこりとねだってくるシガに、セシルはきっぱり言ってやる。そんなセシルの明確な拒絶の何が面白かったのか、シガはくすくす笑いながら術具の音を消して扉を閉めた。数拍だけ大きくなった雨音や人の気配は、すぐ小さくなる。
危機が去り、セシルは全身で息を吐き出した。けれど身体はまだ熱く、心臓も落ち着かない。シガに触れられた感触も残ったままだ。
「なんでこうなるんだよ……人で遊びすぎだろ…………」
鏡がこの部屋になくてよかったと、セシルは心の底から安堵した。背を向ければ済む話だとしても、わずかでも今の自分を鏡に映されたくない。絶対、湯気が出そうな顔をしているのだから。
いくらセシルをからかえる好機が巡ってきたからといって、どうしてシガはこういう方向でからかおうとするのだろう。しかも、かなり踏み込んで。確かにあいつは危険だったと、セシルは心の中で母に土下座したくなった。
時間が経つにつれ、セシルの心臓は次第に落ち着いてきた。しかしそうすると、シガがソファに置き去りにしていった二つの巾着がセシルは気になってしまう。かつてセシルが血の海から拾い上げた宝石と、それを模した宝石を入れた巾着。
どうすればこの宝石を偽物だと気づかれず、デュジャルダンの私立魔術研究所へ引き渡すことができるだろう。ユーサーに直接渡し、正直に話すことはできない。昨夜、セシルをマクシミリアンから庇ってくれたユーサーのことだ。セシルが正直に話せばきっと、セシルを捕らえるべきかどうかで悩ませてしまう。あるいはセシルに失望するかもしれない。
泥棒を泥棒と思わない後輩を守るために、あんなにいい人を騙すとセシルは心に決めた。だからこそ、これ以上ユーサーを悩ませることはできない。――――したくないのだ。
だから、どうにかしてマクシミリアンを黙らせるしかないのだが、一体どうすればいいのか――――
どうしようかとセシルが悩んでいると、部屋の外で激しい物音がした。まるで、誰かが争っているかのような。
「……」
セシルは表情に緊張を走らせると、さっきしまった短剣を棚の引き出しからまた取り出し、そっと部屋から出た。気配を殺して廊下を歩き、玄関ホールへ向かう。
玄関ホールから聞こえてくる声が、姿は見えない代わり、来訪者の存在をセシルに知らせた。
「――――シガ・キョウ君、もう一度繰り返すよ。あの宝石をどこに隠したんだい?」
そう問い詰める声は、セシルが聞き覚えのある声だ。明るい響きなのに、激しい感情があらわで少しも楽しそうではない。
セシルがしらを切るからと、マクシミリアンはシガにも追及の手を伸ばしてきたのだ。こういうときは制止してくれるだろうユーサーの声が聞こえてこないということは、彼と一緒ではないのか。それだけ、捜査が行き詰っているのだろう。
シガは知らないと主張しているが、マクシミリアンは耳に貸そうとせず、追及するばかり。やはりまだ、セシルかシガが持っていると信じて疑っていないらしい。
助けに行かなきゃ、とセシルは物陰から一歩踏み出した。短剣は持っている。こちらに矛先が向くかもしれないが、構うものか。
しかし。
「――――君だって、正体をばらされたくはないだろう?」
優位を確信した声が、シガに投げられる。セシルは思わず足を止めた。
シガの正体。東大陸人で、人気俳優で、法律なんて完璧無視の術具収集狂。人を言いくるめるのが得意で、セシルをからかうのが大好き。大人げない大人。
それだけのはずだ。そう、それだけのはず。
玄関ホールで厳しい表情を扉のほうへ向けるシガは両腕を組み、長息をついた。
「ばれるばれない以前に、たった今、君がばらしたところだよ。――――ねえセシル、出てきなよ」
「――――!」
シガの命令に等しい要請に、セシルはびく、と肩を揺らした。げ、と口の中で呻いた。気づいていたことに驚きだが、せっかく隠れていたというのに、何故ばらすのか。
居場所を明かされてしまった以上、逃げても仕方ない。セシルは諦めて、玄関ホールに足を踏み入れた。シガの隣で立ち止まる。
そして、見えてきた光景に絶句した。
玄関ホールでは、シガとマクシミリアンが対峙していた。だがマクシミリアンの背後には、昨日彼が連行したはずの男が三人、縛られもせず、まるで配下のように付き従っているではないか。
呆然とするセシルに、マクシミリアンは上辺だけの笑みを浮かべてみせた。
「やあ、セシル君。物騒なものを持ってるねえ」
「マクシミリアンさん、なんでそいつらがいるんですか? そいつらは捕まえたはずじゃ……」
「彼はエルデバランの間者で、後ろのは彼の仲間だってことだよ」
「!」
シガの断定に、まさか、とセシルは瞠目した。
だって彼は青薔薇騎士団副団長の副官、ユーサーの部下だ。そんなこと、あるわけがない。大体、どうしてここでエルデバランが絡んでくるのか。
だが、マクシミリアンが否定もせず、薄く笑むばかり。昨日捕らえたはずの男たちを従えている様子は、シガの断定を裏付けているとしか思えない。
「それを言ったら、君も人気の俳優として貴婦人方にもてはやされながらこの国の内情を探る、叡洛の間者じゃないのかい? どうせ黒づくめの連中も、君の仲間なんだろう?」
「……………………え?」
セシルは今度こそ、思考が停止した。
――――東大陸の覇者たる大国、叡洛の間者? この男が?
「マクシミリアンさん、何言ってるんですか。そりゃシガは確かに叡洛から来たって言ってましたけど、あいつらはあたしだけじゃなくて、シガにも襲いかかって」
「君はその現場を見たのかい? 攻撃をかわすのに忙しくて、見てられなかったと思うんだけどね? 彼の武芸の技量については、君がよく知ってるだろう?」
「っ」
マクシミリアンの嘲笑混じりの指摘に、セシルは黙り込んだ。シガのほうを見たが、彼は諦めたような、困ったような表情をするだけだ。
だからセシルは、マクシミリアンなのだと理解する。――――するしかなかった。
「……叡洛は、西大陸諸国の言うことを本気で信じたりしてないんだよ。特にラディスタとエルデバランは、今でも警戒の対象だ。その上、叡洛にとって大事なものをどういうわけか持ってて研究中と聞いたら……取り戻そうとするのは当然だろう?」
「……!」
「ああ、俺は確かに叡洛の間者だ。そしてあの黒い宝石は、叡洛の術者が開発した術具。だから俺は、取り戻しに来たんだ」
まるで舞台の上で、己はゆえあって庶民に身をやつしていたのだと名乗る王子のように、シガは恥じることもなく己の素性を明かした。
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