第21話 剥がれ落ちる平穏
ないに等しかった集中力がとうとう途切れ、ユーサーは顔を上げた。
朝から続く大雨で、昼前だというのに室内は明かりを点けなければならないほど暗い。古い時代に造られた建物であるため窓ガラスがない明かりとりの窓からは、雨だけでなく冷えた空気も入ってきている。暖房の術具がなければ、頑強な身体であっても寒さでうんざりしていただろう。
青薔薇騎士団の本部の一角、副団長の執務室。その一つでユーサーは、このところの特殊任務で溜まっていた通常業務をこなしていた。
書類は時間がかかったもののあらかた目を通し、処理し終えた。後は数枚を残すのみだ。それだけブリギットで事件が起きているということであり、自分とマクシミリアンがあの特殊任務に時間を割いていたということでもある。思い起こしてみても、ここ数日、本部の椅子に座っていた記憶がほとんどない。
その割に成果が出ていない事実を思い起こし、また特殊任務の経緯を辿って、ユーサーはため息をついた。
常日頃は私情を挟むことなく淡々と仕事に従事するユーサーであるが、今回ばかりはそれが難しかった。何しろ知人――――セシルが騒動に巻き込まれているのだ。しかも、共に捜査をしているマクシミリアンは、彼女かその後輩であるシガが黒い宝石を盗んだのではないかと強く疑っている。昨日のやりとりで、疑いはますます強くなっているようだ。
副団長として、またセシルを信じる者として、ユーサーはマクシミリアンを止めようとした。昨日、セシルが奇妙なことを言っていたのは確かだが、それが彼女と黒い宝石を関連付ける証拠とは思えないのだ。それは、ユーサーが魔術師の素質も興味もないからかもしれない。ともかくマクシミリアンの反応は、ユーサーにとって不可解ですらあった。
だが今朝マクシミリアンに押しつけられた、通常業務の決裁書類と、いつの間にか彼がおこなっていたセシルの身上調査の報告書のせいで、ユーサーは動けなくなってしまった。
――――様々な国へ向かう船が行き交う港湾都市へ続く街道沿いの村として賑わっていたものの、二年戦争の最中に賊に襲撃されほろんだ漁村ラダンの、唯一の生き残り。
――――発見された当時、出所不明の黒い宝石を所持していたが、傭兵隊の隊長に持ち逃げされている。
報告書を読んだ後、ユーサーはしばらくの間、他のことを考えられなかった。
もちろん、セシルが持っていたという黒い宝石が、傭兵隊の隊長に盗まれた後、持ち主を転々としてデュジャルダンのもとへ行きついた証拠はない。仮にそうだったとしても、ユーサーたちに話す必要のないことである。セシルがこれらのことをユーサーに話さなかったのは、責められるいわれのないことだ。
だが、もしデュジャルダンが所有する宝石が、セシルがかつて持っていたものなら。それを夜中の、自分やシガ以外には、宝石を眦に傷がある男しかいない路地で彼女が拾ったなら。――――二度とないかもしれない機会を逃がさなかったとしても、おかしくはない。
そんな考えが浮かび、しかし即座に否定する自分の思考に、ユーサーは違和感を覚えた。
マクシミリアンが言っていたように、やはり自分はセシルに肩入れしすぎている。普段なら、両方の可能性があるとだけ考え、断定などしないのに。彼女とわずかでも交流しているからだろうか。
鍛冶屋での、少年のように快活に笑う顔。話す言葉。
自分が狙われているかもしれないと知ったときの、硬い表情。
昨日廃屋で見せた、自分しか持たない異能を知ったときの困惑。マクシミリアンに追及されて怯える様子。
どれもがユーサーには真実に見えた。偽りだとは思えなかった。――――思いたくない。
セシルを信じていいのかどうかもわからず、逃げた黒づくめの者たちの行方も不明のまま。捜査は行き詰っている。どうすればこの状況を打破できるのか、ユーサーにはまったくわからない。
こんなときは一人で剣を振るうか遠駆けでもしたいところだが、できない。こうして机に縛りつけられていることがまた、ユーサーの心を重くしていた。
鬱々とした心境でユーサーは何とか書類の処理を終えると、会議に必要な資料を探しに資料室へ向かうべく、席を立つ。ちょうどそのとき、扉が叩かれた。
「ユーサー、入るぞ」
応えを求めない声がするや扉は開かれ、騎士団長と黒髪のきつい顔立ちの女――デュジャルダンが運営する私設魔術研究所の所長であるヴェロニクが、ユーサーの執務室へ入ってくる。
二人の表情とまとう空気からただごとならない様子を察し、ユーサーは自然と顔を引き締めた。
「副団長殿、副官殿はどちらに?」
ヴェロニクがユーサーに尋ねてくる表情には、強い焦りが浮かんでいる。ユーサーは困惑して団長にちらりと目をやり、彼が頷くのを見てから口を開いた。
「そちらが要請した件で、昨夜捕らえた者たちを尋問しに行ったが……」
「捕らえて。彼は、あの石を盗んだ男の一味よ」
ヴェロニクはそう命令し、断言した。
ユーサーは一瞬、その意味を理解しかねた。だが理解すれば、親しい部下が売国奴と断定された怒りが燃える。
「……ヴェロニク殿、それは一体どういうことだ。何を根拠に、私の部下を売国奴と断じる」
ユーサーは静かに、しかし怒りを抑えきれない声と表情で問う。
ヴェロニクは痩身の一見普通の女性であるにも関わらず、屈強な武人の視線にまったく動じなかった。
「宝石が盗まれた直後から欠勤が続いている職員がいたから、その男の家を訪ねたのよ。でも職員はいなくて……家の中を調べたら、ラディスタでは流通していないエルデバラン製の術具が発見されたの」
「……!」
ユーサーは目を見開いた。
エルデバラン。二年戦争の際、ラディスタが同盟を結んで共に東大陸へ侵攻した隣国だ。敗戦後、東大陸諸国の代表団と交わした和平条約によって同盟は解消され、今はただの隣国同士として必要最低限の付き合いをしている程度だったはず。
マクシミリアンがそんな、ラディスタと共に戦火を招いた隣国からの刺客だというのか。
追い打ちをかけるように、それだけではない、と騎士団長は沈痛な面持ちで続ける。
「王立魔術研究所が数日前、大通りの肉屋が殺された事件の捜査に協力したことは知っているだろう。その調査報告だ」
そう言って騎士団長は、ユーサーに一枚の書類を見せた。
「……」
書類には、事件で収集した証拠品の一つである、現場周辺で保護された子犬の記憶についての調査結果が記されていた。優れた魔術師の中には、気絶した者や亡骸から記憶を探る魔術を行使できる者がいるのだ。目撃者のいない事件では、特に頼りになる存在なのだった。
その魔術でもって明らかになったのは、揃いのプローチをつけた五人の男たちが宝石商デュジャルダンの私設魔術研究所を襲撃し、画廊から移されていた黒い宝石を盗む算段をしていた事実だった。その五人の中には、私設魔術研究所の職員や、青薔薇騎士団副団長の副官の姿もあったのだという。また、彼らを殺したのが、三人の黒づくめの者たちであることも判明した。
書類を読んで、ユーサーは言葉を発することができなかった。一体何をどう考えればいいのかわからない。
いつでも陽気で華やかで、田舎貴族出身のたたき上げ。真面目すぎると言われがちな、名門コルブラント家出身のユーサーとは、まるで正反対の男。優秀で、慇懃無礼で、人を振り回す部下だ。
――――――――そのはずなのだ。
「……っ」
葛藤しているところに衝撃的な事実を叩きつけられたユーサーの思考回路は、ついに考えることをやめた。書類を机の上に叩きつけ、騎士団長とヴェロニクの制止に構わず部屋を出ると、団員たちが目を丸くして振り向くのも無視して、半ば走る速さで廊下を突き進む。
牢へ駆け込むようにして足を運んだユーサーは、驚き顔の小柄な看守に詰め寄った。
「マクシミリアンは?」
「副団長の副官ですか? あの方なら少し前に、昨夜連行してきた奴らを連れてここを出られましたが」
「……! 昨夜連行してきた者たちを牢から出したのか?」
「え、ええ」
看守は困惑した様子で答える。マクシミリアンに言い含められている様子はない。
ユーサーは愕然とした。
もし本当にマクシミリアンがエルデバランの間者であるのなら、彼らはもう本部にはいないだろう。連行したと見せかけて仲間を逃がし、ユーサーに今日仕事を押しつけたのは、自分たちで何かをしたいからに他ならない。
ならば、行き先は一つしかない。
セシルの実家だ。
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