第四章 昔話

第17話 私は誰?

 桶をひっくり返したようなという表現がぴたりとくる雨が降り続く昼下がり。大広間の中央に置いたソファに腰を下ろし、セシルは小説を読んでいた。


 セシルが一人静かに読書に励んでいるここは、隠れ家にしている廃墟の大広間だ。定期的に掃除をする部屋の窓側には一切の調度がなく、舞台の代わりに稽古ができるようにしてある。残りの部分にはテーブルなどの調度が配置され、今までやってきた演目の原作や時代背景について触れた本だけでなく、お菓子を入れた箱やティーセットが棚に整然と並ぶ。さらにはシガが持ち込んだ冷暖房用の術具もあり、内装こそみすぼらしくあるものの、実に快適な空間に生まれ変わっていた。


 しかし、今のセシルはそんな空間の快適さも小説の内容も大して味わうことはできない。視線を動かしても、文が情景や情感を伴ってこないのだ。感情移入ができないまま、表面をなぞるように文字を追っていく。


 仕方ない。昨日の夕方――――この廃墟の前でユーサーとマクシミリアンに会ってから、セシルの胸中はずっとこんな状態だった。眠ればましになるかと思ったけれど、気分は全然晴れない。少し気を抜くだけで黒い宝石のことや闇の中で聞いた声が頭をよぎり、それにつられて後悔や不安、恐怖もまたセシルを襲う。そのせいで昨夜は大して眠ることはできず、今もセシルの身体の端々には、眠気とだるさが重しのようにのしかかっていた。


 今までセシルは、己が魔術師に目をつけられやすいのは、強い魔術師の才を持っているからだと思っていた。セシルが知る魔術師は母の元傭兵仲間くらいだし、そもそも常人にとって魔術師は神秘と畏怖の存在だ。どういう能力を持っているかなんて、わかるはずもない。

 けれどもしこの身に備わった才が、一般人が思い浮かべるような魔術師のものではないのなら。魔術師さえ持たず、欲しがるような異能であるなら。

 そんな能力を持っている自分は、一体何者なのだろうか――――――――


 ――――振り返ってはならぬ。


 遠くに光を抱えた闇の中、背後から聞こえた声が耳によみがえる。むせかえるほどに濃厚な血のにおいが鼻腔をくすぐり、赤に溶けゆく白が目に映る。

 セシルはそれらが、忘れようのない現実の幻だと知っている。だから叫びもせず、ただぎゅっと目を瞑った。胸の中でたゆたう数多の記憶と感情から逃れるように、強く視界を閉ざす。

 そうだ、振り返ってはならない。思い出してはいけない。何も、思い出しては――――――――


 そうセシルが自分に強く言い聞かせていたとき。何の前触れもなく、物が震える音がした。

 突然扉を叩かれると逃げ場がないからと、シガがリヴィイールに入団する前にセシルとカイルが二人で金を出しあって買った術具だ。玄関に設置した術具と連動して、誰かが玄関から入ってきたことを知らせる仕組みになっている。


「……」


 セシルは本をテーブルに置くと、窓際近くに置かれた棚の引き出しから短剣を取り出し、構えた。扉から目を離さず、来訪者を待つ。

 雨の音だけが聞こえる沈黙が続いてしばらくして、大広間の扉を律儀に叩く音がした。


「セシル、いるかい?」

「シガ?」


 扉の外からかかった声に、セシルは思わず目を丸くした。拍子抜けして、構えていた身体から力が抜ける。

 セシルの声は扉の外にも聞こえたようで、シガはすぐ部屋に入ってきた。引き出しに短剣を戻すセシルに、にっこりと笑いかけてくる。


「やっぱりここにいたんだ。ねえセシル、ちょっと遊びに行かない?」

「この大雨の中、どこへ行くっていうんだよ。どの店も開いてないだろ。まさかあんた、本気であたしを誘うためにここへ来たのか?」

「まあ、半分くらいは本気かな。昨日、君が揃いの恰好をした男たちに追いかけられてるのを見たって人から聞いたから、怖がってるんじゃないかと思ってね」

「! もうそんな話が出回ってるのかよ」


 噂になるの早すぎだろ、とセシルは心の中でうんざりした。またこれで、からかいのネタが増えてしまう。


「……セシル、どうかした?」

「……ん……」


 セシルに続いて一人分の空間を空けてソファに座るシガに問われ、セシルは視線をさまよわせた。昨日感じた魔力のことが頭をよぎる。


「……そんなに危険だったのかい?」

「うん……まあ、危険と言えば危険だったというか…………」


 問われ、セシルは曖昧に頷く。シガの無言の催促を拒むことはできず、揃いの身なりをした男に黒い宝石の行方を問いつめられてからのことを語った。

 聞き終えると、シガは一つ頷いた。


「副官殿か……確か先日、副団長殿と一緒に君の楽屋へ来たんだっけ? リースから聞いたけど」

「うん。ユーサーさんと一緒に来たんだ。デュジャルダン氏の画廊とかシエラ劇場とかで会ったときは、やたらとよくしゃべる賑やかな人だと思ったんだけど……」

「それは表の顔なんだろう。陽気で楽しい人物が相手なら、大抵の人間は気が緩んで、つい口を滑らせてしまうものだから。シエラ劇場へ来たのも、君を疑ってたからかもしれないね」

「だよな……」


 昨夜浮かんだ考えを肯定され、セシルはへこむ。肩書からしてマクシミリアンは自分を探る側の人間だというのに警戒しなかった、自分の能天気さを心底愚かしく思った。


「でも、変な話だよな。あの夜あたしに魔術で炎を放ってきた黒づくめのやつが、昨日はあたしを助けたんだぞ? しかも、あたしには何もしてこなくてさ。ユーサーさんたちが来てたからかもしれないけど……」

「そうだね……でもまあ、助けてくれた上に何もしてこなかったってことは、君は無関係だって納得したのかもしれないよ」

「だったらいいんだけど……」


 というか、そうであってほしい。暗殺者に狙われていることを最近は忙しくて時々忘れそうになってはきていたが、やはり追いかけてくるのは贔屓筋の人たちだけで充分だ。

 それにしても、とシガはこめかみを指でとんとんと叩いた。


「宝石の中に鎖ね……俺も、あの黒い宝石にそんなものは見えなかったよ。でも、一流の魔術師ならわかるけど、君は魔術師の素質があるだけで、魔術を使う訓練すらしてないんだろう?」

「…………うん。そのはずなんだけど」

「……はず? なんでそんなに曖昧なんだい」


 視線を落としたセシルの曖昧な答えに、シガは眉をひそめる。

 その反応でセシルは、そういえばまだ話してなかった、と思い至った。カイルもあれで口が堅いから、話してなかったのだろう。

 こんなによく話すし、とんでもないことに巻き込み巻き込まれてしまっているのに、ある意味肝心な部分はお互いにまったく話したことがないなんて。セシルは今更ながら不思議でおかしなことだと思い、苦く笑った。


「あたし、戦争孤児なんだよ。しかも、八年前より前の記憶がないんだ」

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