第16話 それは、彼女だけ
危機から解放されその場に突っ立っていると、ほどなくして、路地を駆ける足音が二つ、セシルのほうに近づいてきた。セシルはばっと顔を上げ、そちらを向く。
「セシル殿!」
そうセシルを呼びながら駆けてきたのは、ユーサーだった。セシルに駆け寄り、両腕を掴む。
「ユーサーさん?」
「ああ、私だ。セシル殿、無事か」
言いながらユーサーは、痛ましそうに眉をひそめてセシルの頬に視線を移した。剣を握る者特有の硬い指先がセシルの頬に一瞬触れ、すぐ離される。
「他に怪我は?」
「ないです。このくらい平気ですよ」
緩く首を振り、セシルは頬の傷を荒っぽく擦る。そしてユーサーを見上げた。
「なんで、ユーサーさんがここに?」
「町を巡回している途中、この男たちが誰かを追いかけているのを見かけたのだ。貴女はあの黒い宝石の発見者だから、もしや追われているのではと思い……だが途中で見失ってしまい、駆けつけるのが遅れた」
すまない、とユーサーは謝る。セシルは慌てて首を振った。
「いえそんな、来てくれただけで充分ですよ。助かりました」
と、セシルは命の恩人に頭を下げた。
実際に危機を助けてくれたのは姿を見せない人物だが、セシルはユーサーの姿を視認した今になって、ようやく自分はもう安全なのだと理解した。安堵が全身に広がり、強張っていた身体が緩々と緊張を解いていく。反射的に答えを返すだけだった思考に、ゆっくりと熱が戻ってくる。
そこにまた一つ、足音が聞こえた。セシルが振り向くと、青薔薇騎士団副団長の副官マクシミリアンがセシルたちのほうへやってくるところだった。
「ユーサー、君、足速いよ……と、セシル君?」
マクシミリアンは目を瞬かせると、地面に倒れる三人を見回し、それからセシルに視線を向けた。
「セシル君、この男たちは、君を追いかけてた奴らだよね?」
「はい。殺された男の人の仲間みたいですよ。なんか、あたしが黒い宝石持ってるって思い込んでて……あんまりしつこいから逃げようとしたんですけど、そしたら追いかけてきて……」
「なるほどね。でも、それでここへ逃げたのはまずいんじゃないかな。ここ、‘幽霊区’だろう? こいつらの手下がいるかもしれないよ?」
変えられた話題に乗ってセシルが答えると、マクシミリアンは両腕を組み、呆れともつかない息をつく。
確かに、普通に考えれば、ここは逃げる先として相応しくないだろう。だがセシルは、ところがそうでもないんですよ、とへらりと笑った。
「実はこの廃墟、あたしの隠れ家なんです。稽古のために幼馴染みのカイルと、シガも一緒に使ってて。ヤバいのが来ないよう、防犯の術具もばっちりつけてるんですよ。だからこの人たちの仲間がいても、なんとかなると思ったんです」
「へえ、一応は考えてたんだ。それなら納得だね」
「だが、こんな場所に隠れ家を作るというのは感心しない。いくら青薔薇騎士団の取り締まりがあり、防犯用術具を整えていると言っても、‘幽霊区’はならず者がたむろする場所だ。防御用の術具を壊す違法な術具を持っていてもおかしくない」
だからあまり通わないほうがいいと、一応は考えて逃げ込んだのだと主張するセシルに対してユーサーは忠告する。マクシミリアンはふむふむと感心してくれているのだが、やはり生真面目なユーサーには看過できないらしい。
いつでも自由に使える稽古場が欲しいセシルは、その老婆心を聞き流すしかない。だが、彼が本気でセシルの身を案じてくれているのは伝わってくるので、無碍にすることはできない。自分が選べる手段の中では最善ではあっても最良とは言えないことは、セシルもわかっている。セシルは神妙な顔で頷かなければならなかった。
セシルが一応反省したのを見てか、ユーサーはそれ以上言い募らず、短く息をついた。
「貴女の様子からすると、そこの男たちを貴女が倒したようには見えないのだが……」
「はい、でも、あたしもよくわかんないんですよ。ここへ逃げ込んで、裏口からこっそり逃げようとしてたら、突然この人たちが倒れたんで……」
「……突然倒れた?」
「なんか嫌な感じがして、そこの窓からあの人たちを見てみたら、痙攣しながら倒れてて……多分、魔術だと思います」
眉をひそめるユーサーに、セシルは曖昧な表情で頷いた。
「で、その魔術を放ったのは誰だい?」
「いえ、姿を見せませんでしたから……でも」
「?」
「……あの夜に襲ってきた、黒づくめの人たちの一人だと思います」
少しだけ躊躇い、セシルは二人に打ち明けた。
先ほどセシルが困惑したのは、そのためだ。一度感知したきりでもそれは一ヶ月足らず前のことだし、一瞬前までいた場所のそばが燃えたのである。そう簡単に忘れられるものではない。
ふむ、とマクシミリアンはひとつ頷いた。
「つまり、黒づくめの連中も君に狙いをつけてて、でも僕たちが邪魔しそうだから退いた……ということかな」
「だろうな」
「だよねえ。まったく、デュジャルダン氏の魔術研究所の情報は外部に駄々漏れのようだね。この男たちに、セシル君たちが見たっていう黒づくめの一味。少なくても二組から狙われてる。これじゃ、大事な魔術研究が盗まれ放題だ。あの所長さん、ものすごく怒るだろうね」
ユーサーが推測に同意すると、一体何が面白いのか、マクシミリアンはくすくす笑って肯定する。いや笑ってる場合じゃないんじゃ、とセシルは心の中でつっこみ、呆れた。青薔薇騎士団員なら、窃盗犯の拿捕は職務のうちだろう。――――あたしとシガは例外にしてほしいけど、とセシルは思わずにいられないが。
ユーサーにじろりと睨まれたマクシミリアンは肩をすくめ、倒れた男たちを見下ろした。
「とりあえず、こいつらは取り調べる必要ありだね」
「あ、それならあたしが青薔薇騎士団の人を呼んできましょうか? この近くに騎士団の詰所がありますし、ひとっ走りしてきますよ」
「いいね、頼めるかい?」
「もちろん」
尋ねられ、セシルはマクシミリアンに大きく頷いてみせる。ユーサーが心配そうな目を向けてきたが、大丈夫ですよと笑って流す。そう、近くの詰所へ行くだけなのだ。セシルを囲んだ男たちは三人とも、ここに倒れている。怖がることはない。
「じゃ、行ってきますね」
「ああセシル君、ちょっと待って」
「へ? ――――っ」
一体何の用だろう。すでに身をひるがえし走りだしかけていたセシルは、疑問で目を丸くしながら振り返り――――――――マクシミリアンの表情を見た瞬間、硬直した。
一応は、先ほどまでと変わらない陽気さだ。しかし、目が笑っていない。鋭く、セシルの心根の奥底まで見通そうとするかのようだ。空気もまた冷たく硬く、セシルを刺すかのように変化している。人懐こい派手な外見の犬が獲物を狙う大きな狼へと一呼吸で姿を変えたかのような、激しすぎる変化だった。
全速力で逃げていたときの勢いが少しましになった程度だったセシルの心臓は、また早鐘を打ちだした。これはやばい、と本能が危険を察知して、セシルの全身は強張る。
「君……本当に、黒い宝石がどこにいったのか知らないの? 実はあの東大陸から来た友達がくすねてて、それを黙ってたりしてない?」
「まさか。あたしもシガも、宝石になんて興味ないですもん。ましてやあんな、鎖が見える術具の宝石なんて要りませんって」
内心の動揺を隠し、セシルはへらりと笑ってみせた。
そう、あんな奇妙な宝石に関わったばかりに、セシルは宝石泥棒の片棒を担がされ、正体不明の者たちに身を狙われてしまっているのだ。欲しいなんて思うものか。
だが、目を瞬かせたマクシミリアンは首を傾げた。薄く笑みすらして。
セシルは、その微笑みにぞっとした。
「……不思議なことを言うね、君。僕たちに捜索を依頼した魔術研究所の所長は、黒い宝石の中に鎖が見えるなんて一言も言ってなかったんだけど」
「……………………え?」
ますます鋭くなった空気と共に放たれた一言に、セシルは目を大きく見開いた。心臓が一つ、強く脈打つ。
「僕もユーサーも、青薔薇騎士団の本部で所長から黒い宝石の特徴を聞いたんだよ。あれほど回収に熱心な所長が、目的の宝石だと一目でわかる特徴を言わないはずがない。でも、所長も他の魔術師も、黒い宝石の中に鎖が見えるなんて言わなかったよ。そんなものはないとばかりにね」
「……」
「本気で宝石を回収したいはずの彼らが、どうして宝石のわかりやすい特徴を口にしなかったのか。考えられる答えは二つ。一つは、君のでたらめ。もう一つは、あの術具には所長たちが隠したいもしくは彼女たちさえ知らない秘密がある。……魔術の素質っていうのはたまに奇妙な体質も伴うものだそうだし、君は嘘が苦手みたいだし……後者の可能性はあるよね?」
問うマクシミリアンの声にも表情にも、もはや笑みはない。あるのは確信めいた疑いだけ。冷え冷えとしていて、青薔薇騎士団副団長の陽気な副官の影は見当たらない。
だが、セシルは確かにこの目で鎖を黒い宝石の中に見たのだ。あんな普通ではない内包物を見落としたり、他の内包物と見間違えるなんてありえない。常人より多少ある程度の視力と魔力しか持ち合わせていないセシルが見えたのだから、私設魔術研究所に所属する魔術師たちの目にも見えるはずだ。
なのに、私設魔術研究所の所長は一言も口にしなかったのだという。そういえばシガも、難解な術がかかっているとは言っていたけれど、鎖が見えるとは言わなかったのではなかったか。
もし本当に、シガや魔術師たちにあの鎖が見えていないのなら。結論は一つしかない。
セシルにしか、あの鎖は見えないのだ。
――――振り返ってはならぬ。
「――――っ」
セシルが絶句していると、ユーサーが二人の間に割り込んできた。
「やめろマクシミリアン。私たちが探しているのは黒い宝石だろう。彼女が宝石を持っていないなら、他のことを追及する必要はない」
「……まあ確かに、僕らの任務は宝石の回収だし、君と僕が知ってればいい話だけど。でも、デュジャルダン氏の私設魔術研究所の所長たちはどう思うだろうね? 彼らは魔術師の卵を常時募集中みたいだよ? ましてや、特殊な目持ちとなれば……」
「……!」
「マクシミリアン」
セシルがびくりと身体を揺らすと、ユーサーはきつい声音で制止した。全身から放たれる怒りの空気が、彼の心情を如実に示している。
しかし、マクシミリアンは首をすくめるだけだ。へらりとした顔で、さて、と話題を戻した。
「もう一度聞くけど、セシル君。……僕らに隠し事はない?」
マクシミリアンは首を傾け、ユーサーの背に隠れるセシルに繰り返して尋ねる。その目は鋭く、セシルの心の揺れをわずかも見逃すまいとしているような力があった。
先ほどより増した威圧感に気圧され、セシルは息を飲んだ。
陽気さにすっかり騙されていたが、マクシミリアンは危険な男なのだと、セシルは認識を改めざるをえなかった。軽薄な態度は上っ面だけで、この鋭さこそが彼の本質なのだ。
拳をぎゅっと握ると、セシルはユーサーの背から出た。
こういうときこそ、動揺に引きずられて声を震わせてはならない。そう、舞台の上だっていつ不測の事態が起きるかわからないのである。そんなときでも、培った演技力で観客に一切悟られることなく、想定外の事態をも脚本に組み込んで冷静に対処するのが一流の役者だ。
こわがるな、とセシルは己に言い聞かせた。
「……ないです。黒い宝石がどこにあるかなんて知りませんし……あたしは魔術師じゃありません」
マクシミリアンの目を見返し、セシルは声を震わせずはっきりと答える。女優としての意地、そして、この二つの顔を持つ男の追及から逃れたい一心だった。
意思を探ろうとする目をセシルがはねのける時間は、わずかだった。
「マクシミリアン、もういいだろう。お前はこの場を頼む。私は彼女を家へ送る。……セシル殿、行こう」
「大丈夫です。家、すぐ近くですし。騎士団の人たちを呼んできます」
「だが」
「大丈夫ですよ、ユーサーさん」
渋るユーサーに、セシルは無理やり笑みを浮かべてやんわりと断る。今は彼らから離れ、一人になりたかった。
セシルの心中を慮ったのか、ユーサーはそれ以上強く言ってこなかった。
「……わかった。だが家まで近いとはいえ、あの宝石を追う者はまだいる。くれぐれも気をつけてくれ」
「はい。……失礼します」
ユーサーに念を押されたセシルは頷き、一応頭を下げてからその場を離れた。
セシルは、マクシミリアンの目を見ることができなかった。背中に突き刺さるマクシミリアンの目から逃れるように、‘幽霊区’の隠れ家から離れる。
青薔薇騎士団の詰所で事情を話してから家に帰ると、娘の帰宅に気づいたセシルの母が家の奥から現れた。
「おかえりセシル。……おや、またどこかで暴れてきたのか。今度はどんな馬鹿を見つけたんだ?」
娘の顔を見るなり、セシルの母は眉を軽く上げる。セシルが顔に怪我をして帰宅するのはしょっちゅうだったから、この程度で一々驚きはしない。そもそも傭兵稼業では、こんなのは傷の一つにも入らないのだ。
だから、うんまあ、とセシルも曖昧に笑ってごまかした。
「父さんはまだ工房?」
「ああ。だから私たちで先に食べよう。……まったく、いくら深くないとはいえ、女優が顔に傷を作っては駄目だろう。父さんに小言を言われるぞ。夕食はもうすぐできるから、その傷を手当てしてから来い」
「わかった」
しょうがない子だな、というふうに息をつき、母はセシルの頭を撫でる。セシルは苦笑し、母の愛情表現を甘受した。
それでも、セシルは足元がぐらぐらとして不安定であるような錯覚を覚えていた。少しでも力を入れればそのままずぶりと足が沈み、戻れなくなりそうな気すらする。
そしてそれを後押しするかのように、目には真っ赤に染まった床の幻が見え、漆黒に塗りつぶされるのだ。
声が、セシルの耳元でまた繰り返される。
――――振り返ってはならぬ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます