第18話 海で目覚めた子供
目を開けると、そこは赤く染め上げられていた。
廃墟の広い一室だった。天井のほとんどが崩落し、真っ白な雪が野外と変わりない室内へ降り落ちている。吐く息は白く、風は冷たい。風の向きのせいか、むせかえるような臭いが鼻につく。
そう、むせかえるような臭い。鉄に似た臭い。――――――――赤の臭い。
セシルの視界に見えるのは、血の海だった。そこに沈んでいるのは、十人以上の人だ。鎧を着ていないから、戦士ではないのだろう。村人なのかもしれない。
セシルはその景色を怖いと思わなかったし、それを不思議と思わなかった。たくさんの人が死んでいる、そう理解しただけだ。セシルにとって、光景は野山の風景と同じだった。
辺りを見回したセシルは、折り重なって倒れる男女のすぐそばに黒光りする宝石が転がっているのを見つけ、血の海に足を踏み入れて黒い宝石を拾った。黒い宝石から何か、肌に馴染んで落ち着く気配が漂ってきているような気がしたのだ。
黒い宝石の奥に見える鎖にセシルが見入っていると、広間、というより建物の外が騒がしくなった。たくさんの馬が走る足音と人の声だ。馬の足音が止むと、人の声は一層騒がしくなる。
「……は……、…………せ!」
一際大きな声とそれに応じる声がした後、がちゃがちゃ、ばたばたと多くの人々が走る音がした。四散しているから、何かを探しにあちこちへ散らばっているのだろう。
「……」
セシルは、手にしたままの黒い宝石を見下ろした。
もしかしたら、これを探しているのだろうか。だがここに転がっていたのだから、これを持っていたのはきっと、黒い宝石のそばに倒れている男女のどちらかだ。侵入者たちのものではない。
「……」
悩んだ末、セシルは崩落した壁から外へ逃げだした。
辺りは一面の銀世界で、積もった雪に誰かの足跡はまったく見当たらなかった。いくつも転がっている死体は、居間にあるものとは違って戦士だ。きっと彼らも今来たばかりの者たちのように、この黒い宝石を狙って人々を襲ったに違いない。
やはり、逃げなければならない。確信して、セシルは雪原へ逃げた。
誰も踏んだことがないのだろう雪を踏みわけ、セシルは眼前に見える森へひた走る。どこをどう行けば彼らから逃げられるのかわからなかったが、逃げなければという使命感に突き動かされていた。あるいは、生存本能だったのかもしれない。
そう――――――――振り返ってはならぬ。
「――――おい! 待て!」
野太い男の声が聞こえ、セシルは思わず肩を震わせた。振り返ると、がっしりした体格の男がセシルを見つけて追いかけてきている。腰に剣を佩いていて、外で死んでいた者たちとは違う所属ではあるものの、彼らと同じく兵士の類だとわかる。
「子供だ! ――――逃げるな! 何もしない!」
次に聞こえてきたのは、女の低い声だ。けれどセシルは耳を貸さず、がむしゃらに森の中を走る。待てと言われても、彼らが悪い人たちにしか思えないのに立ち止まれるわけがない。
「――――っ」
不意に足を雪にとられ、一瞬の浮遊感をそうと認識する間もなく、セシルは転んだ。しかし、さして痛くはない。衝撃で舞った雪がセシルの首筋や頬に落ち、溶ける。
「おい、大丈夫か坊主!」
追いかけてきていた男は膝をつくとセシルを抱え起こし、そう問いかけてきた。しかしセシルは答えず、黒い宝石を片手に男の腕から逃げだそうともがく。これは誰にも渡してはならないものなのだ。セシルは固くそう信じていた。
「おい、こら、暴れるなって……ってぇ!」
男が大きな手で抑えつけにきたので、セシルはとっさに男の手に噛みついた。男が悲鳴を上げた隙に逃げようとするのだが、しかし男のほうが素早くセシルを片手で抱え上げる。こうなれば、噛みつくこともできない。手足をじたばたさせても腕をひっかいても、男の太い腕は小揺るぎもしないのだ。
「坊主、頼むから大人しくしてくれよ。何もとって食うわけじゃねえんだ」
「何をしているんだ、ブノワ」
セシルが暴れていると、革鎧をまとった女が駆けつけてきた。先ほど声をあげた女だ。波打つ金髪に縁取られた、唇の赤が鮮やかな容貌は凛々しく美しい。甲冑をまとっていることといい、まるで銀世界に舞い降りた戦女神だ。
男――ブノワは困り果てたとばかり、女に助けを求めた。
「どうにかしてくれよルネ。この坊主、暴れやがるんだよ。さっきも噛みついてきやがって……まるでけだものだぞ」
「当たり前だろう。熊男が追いかけてくるんだ。しかも、自分は宝石を持っている。誰だって逃げたくなるに決まっているさ。……ましてや、この状況ではな」
痛みをこらえるように唇をゆがめ、女――ルネは瞳を揺らした。ブノワもそうだな、と暗い声をセシルの頭上からこぼす。
ルネは数拍の間瞑目すると、再び目を開けた。優しい光を目に称えた優しい表情で、ブノワに囚われたままのセシルを見下ろす。
「手荒に扱ってすまないな。私はルネで、その熊男はブノワという。この村の生きている者を探していたから、つい追いかけてしまったんだ。ブノワにはよく言って聞かせるし、その宝石も取り上げたりしない。お前が持っていればいい。だから、大人しくしてくれないか?」
「……」
セシルはまだ何も答えない。表情通りの穏やかな声音で頼んでくるルネを睨みつけながら、しかしめまぐるしく頭を回転させていた。
この二人を信用したわけではない。が、少なくてもルネは、まだ話を聞いてくれそうな気がした。先ほどの揺れた瞳を見て、セシルはそう思えたのだ。
セシルは、ルネに対して少しだけ敵意と警戒を解いた。それを空気で感じとったのか、ルネはほっと表情を緩ませる。ブノワに目で合図をして、セシルを下ろさせた。
血まみれのセシルを一目見たルネはまた、痛ましそうな表情をした。
「痛いところはないか?」
問われ、セシルは首を振る。痛みどころか、寒さもほとんど感じていないのだ。冬の身なりではあっても上着はなく、吐く息は白いというのに。肌がひんやりするな、としか思えない。
「……聞きにくいことだが、両親はどうした」
「……?」
両親。その質問に、セシルは首を傾けた。
宝石のそばに倒れていた男の死体がふと思い浮かんだが、セシルはどういうわけか、確信が持てなかった。血の海に倒れていた、他の人々の顔を思い出してみても確証はない。彼らが誰なのかも、セシルはわからない。
そもそも、何故自分はあそこにいたのだろう。記憶を探ってみるが少しも思い出せず、セシルは眉をしかめた。
血の海の中で目を開くその少し前から、自分が何をしていたのかまったく思い出せない。記憶の断片も脳裏をかすめないのだ。自分の名前さえ、わからない。
いや―――――――覚えていることがある。
自分は一度、闇の中で目覚めたのだ。自分の姿さえもわからない闇は穏やかで居心地が良くて、セシルはとても満ち足りていた。だが頭の上から声が聞こえてきて、唯一の光が差すほうへ向かうようセシルに促したのだ。セシルは出ていきたくなかったのに、声は悲しそうな響きで繰り返した。
『振り返ってはならぬ』
と――――――――
「おい坊主、黙ってちゃわかんねえぞ」
セシルが黙っていることに焦れたのか、ブノワはセシルに催促する。どうやら彼は短気らしい。
それに不快感を覚えたわけではないが口を開いたセシルは、声が出ないことに気づいて目を丸くした。口を動かしているのに、音にならないのだ。
ブノワとルネの表情が強張った。
「お前…………もしかして、しゃべれねえのか?」
「……」
さらに試してみても声は出ず、セシルは頷く。すると、二人は哀れみで顔を染めた。もういい、すまないと、ルネは問いの答えを得ることを諦める。
代わりにルネは、鎧が汚れるのも構わず、セシルを抱きしめた。革と汗のにおいや、ルネの体温がセシルを包む。
「もう大丈夫だ。もう怖いものはない。……よく頑張ったな」
両親の手の代わりに黒い宝石だけを手にしたセシルを安心させるように、ルネはささやく。押しつけられた首筋越しに彼女の脈動を感じ、やっぱり優しい人なのだ、とセシルはようやく安心した。
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