第9話 劇場の愉快な仲間たち

 夜とは違ってがらんとした裏口からシエラ劇場へ到着したセシルが楽屋に荷物を置き、廊下にたむろする職員や劇団の者たちに挨拶をしながら舞台へ向かうと、全体練習の開始時刻の前だというのにすでに稽古は始まっていた。


「――まあ、指輪?」

「そうです。私の想いの証です。どうか受け取ってください」

「ああ、なんて嬉しい……! ええ、ええ、もちろん受け取りますわ! 私は貴方を愛しているもの……!」


 舞台の上で、シガ扮する芸術家の青年と人気女優カルロッタ演じる貴族令嬢がひしと抱きあう。身分違いの二人が四阿で秘めた想いをやっと告げ愛を誓いあう、演目の見せ場のひとつだ。


 この後すぐ、二人は互いの実家の思惑によって引き裂かれ会うこともままならなくなるだけに、より二人の幸せの絶頂として際立つ場面である。今は書割や大道具が雑然と置かれている舞台の上も、偽物の蔦を絡ませた白い四阿や劇団付きの画家による背景によって美しい庭園となり、劇場付き楽団と共に場面を盛り上げるのだ。


 しかし、二人の演技にそんな小細工は必要ないようだった。甘い表情や雰囲気、指先の動き。二人の演技を構成する何もかもが、この先に訪れる苦難を知らない幸福な恋人たちそのものだ。まだ整えられていない舞台の上が、本番どころか本物の庭園の一隅であるかのようにすら錯覚してしまう。


 本物の恋人たちと何ら遜色ない甘やかな空気を醸し出す二人の見事な演技に、観客席にいる俳優たちや清掃係は皆見入っている。目に浮かぶ羨望は俳優としてだけではなく、どちらかに自分を重ねてのものも混じっているに違いない。出身を見る者の頭から追い出す演技力の持ち主であるシガだけでなく、眩い金髪が豪奢な印象を与えるカルロッタもまた、その容姿や立ち居振る舞い、演技力から多くの者たちの憧れの的なのだ。


 とはいえ、色恋沙汰にまったく興味がないセシルにとっては、二人の演技力に感心するだけである。それも、趣味嗜好に合わない一幕を見たむずかゆさや恥ずかしさが混じったものだから、他の俳優たちのような反応なんてできない。セシルは扉近くの壁際でやや視線をずらし気味にして、場面が終わるのを見守った。


 ようやく演技に一区切りがついたところで、俳優たちや清掃係が拍手喝采をシガとカルロッタに送る中、少し離れたところで緩慢に拍手をしているカイルにそっと近寄った。


「よおセシル」

「おはよカイル。稽古、もう始めてたんだな」

「ああ。カルロッタさんがシガを誘ったんだよ」


 だろうなあ、とセシルは心の中で相槌を打つ。カルロッタはその派手な外見とは裏腹に、真面目な根っからの女優なのだ。かつては敵国だった東大陸出身だろうと、シガの演技力を認めている。彼を誘って自主的に稽古をするのは、自然な流れだ。


「さすがシガとカルロッタさん。上手いよな」

「ホントに。でもああいう甘ったるい場面、あたし苦手なんだよな。上手いのはわかるけど、自分ではやりたくない……」


 と、セシルは大げさに肩を落としてみせる。甘い役も場面も、本当に苦手なのだ。できるなら一生やりたくないとすら思っている。

 他人事のカイルは、くつくつと笑った。


「けど、喜劇でやらされるかもしれねえぞ?」

「まあそーなんだけどさー。でもあたしが得意なのはこんなのじゃなくて、爽やか系か元気系なのに。新作で殺陣やれるからいいけどさー」

「……皮肉に気づいてるくせに流すなよ。つかお前の場合、殺陣は役じゃないだろ――――っ」


 問答無用で鉄拳制裁。セシルの拳は狙いあやまたず、カイルの顎を直撃した。


「お前、俳優の顎殴る奴がいるか!」

「頑丈なんだから、このくらい平気だろ」

「俺は石じゃねえよ、この男女!」

「うっさい。あんたこそ、このくらい避けられなくて第二幕ができると思ってんのかよ。手元狂ってシガの顔に傷のひとつでもつけたら、後が怖いぞ」


 と、がなるカイルにセシルは鼻で笑ってやる。もっともシガの場合、暗殺者かもしれない黒づくめの者たちの攻撃を避けられるのだから、セシルより弱いカイルが手元を狂わせたところでどうということはないだろうが。

 悔しそうに歯噛みしていたカイルだったが、一体何を思いついたのか急ににんまりしだした。


「ところでセシル。このあいだ、シガにメシおごってもらったよなお前? もしかしなくても、何かあったんじゃねえのか?」

「! べ、別に何も……! ちょっと乱闘に巻き込まれただけだって!」


 言いかけ、あの夜のことが頭によみがえってきて、セシルは絶句する。

 あの夜にあったことといえば、宝石泥棒をうっかり庇ってしまっての大立ち回り。ユーサーとの再会。


 ――――だけだったらよかったのに。


 たちまち頬が赤くなったセシルを見て、カイルはにやりと笑う。


「やーっぱり、メシおごってもらったときに何かあったんだな? そりゃそーだよなー、シガはお前と仲良いもんなー」

「だ、だからあの日は何でもなかったって! ご飯一緒に食べて、帰りにちょっと乱闘に巻き込まれただけで! シガが、ジュリアスさんみたいなことするわけないだろ!」

「ほう、誰が誰みたいだって?」

「げっ」


 横から割り込んできた甘い声に、セシルは振り向くと同時に呻いてしまった。慌てて手で口を押さえるも、もう遅い。緩く波打つ金髪に青い瞳、精悍な顔立ちの、リヴィイールでも五指に入る人気俳優の耳に、セシルの無礼な声は聞こえてしまっている。

 男らしい容姿と甘い声で女性客を魅了するリヴィイールきっての色男は、色気の滴る笑みを浮かべた。


「カイル、セシルは何を言ったんだ?」

「カイル!」


 おしゃべりな悪友の口をふさごうと拳を振るったが、遅かった。セシルの一撃をかわすと、ジュリアスのもとへ注進に走る。


「ほら、このあいだの公演の後、セシルがシガにメシおごってもらってたって俺、言ったじゃないですか。そのとき何かあったんじゃねえのーって俺が勘ぐったら、『シガが、ジュリアスさんみたいなことするわけないだろ』と」

「ほほう……俺みたいなことというのは、何のことだセシル?」

「人様に言えないようなことですよ! ジュリアスさんが十日前に、アルゼイド公爵令嬢にやらしいことしたって噂、聞いてるんですから!」

「やらしい、ねえ……例えばこういう?」


 甘い声と笑みがひらめくや、ジュリアスはセシルの腰をぐいと抱き寄せた。そしてセシルの顎を指で持ち上げる。

 吐息が感じられるほど顔が近づく。視界に見えるのは、彼の顔だけだ。

 瞬間、セシルの全身が総毛立った。


「っ!」


 セシルの正拳突きが見事に決まり、ジュリアスは腹を抱えて呻いた。手加減なしにやったので、かなり痛いらしい。周囲の面白がる声と悲鳴が、大笑やら何やらに変わる。

 セシルは真っ赤な顔でわめく。


「なっ何すんですかいきなり!」

「それは俺の科白だぞっ……!」

「ジュリアスさんがするからでしょうが!」

「いや俺も、過剰防衛だと思う」


 ジュリアスとセシルが言いあう横で、カイルが冷静につっこむ。その傍観者ぶりが気に障り、セシルは彼をぎっと睨みつけた。

 痛みに顔をしかめながら、それでもジュリアスはにやりと笑う。情けない恰好なのにどこかさまになるのは、顔が良いからに違いない。


「ま、お前みたいな男女に手を出すほど、あいつも飢えちゃいないだろうがな」

「ですよねえ」

「……」


 気の合う先輩後輩による連続攻撃である。どこまでもセシルを貶すつもりらしい。セシルは無言で拳を震わせた。

 男並みに背は高いし声は高くないし、女の子らしい思考や趣味、好みもない。正直言ってドレスは着たくないし、女扱いされるのは苦手である。シガやジュリアスだって、セシルをからかうために口説く真似事をしているだけだ。

 それでもこういう言い方をされると、やはり癇に障る。相手は人気絶頂の俳優だが、もう一発お見舞いしてやろうか。ついでにカイルも。顔じゃなければきっと許される。

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