第8話 血なまぐさい出勤風景
「おやまあ、セシル。今日も稽古かい?」
「うん。いってきますクレアさん」
劇場での全体練習に参加するため家を出てほどなくして、小さい頃はよくお菓子をくれていた花屋の老婆に声をかけられたセシルは、足を止めないまま挨拶を返して小路を駆けていった。
「セシルねーちゃん、今日は遅刻ー?」
「んなわけないだろ。あんたこそ、母さんの護身術教室に遅れるなよ」
老婆に続いて、栗色の髪と鳶色の目をした十歳前後の少年にからかわれ、セシルはじとりとねめつける。そんなふうに、道行く人に声をかけられてはセシルも挨拶を返していく。
この辺りは下町だけあって、人々のつながりは濃厚だ。夫婦喧嘩をすれば近所に筒抜けだし、子供たちも学校での成績が友達の親に知られていたりする。仕事が急に入って赤子を家に置いていかなければならなくなってしまっても、隣近所の人に頼んでおけばいい。時には鬱陶しくも頼もしくもなる、人々の強い結びつきがこの下町のそこかしこに満ちている。
やがて通りへ出ると、下町の者とは別の賑わいがセシルを包んだ。
けして狭くはない通りなのだが、露店が軒を連ねているため、歩ける道幅は限られてしまっている。そこを大勢の人々が行き交い、時に露店の前で足を止めて品定めをしているのだ。それを尻目に、みすぼらしい身なりをした何人もの子供が道行く大人、それも見るからに裕福そうな者たちに声をかけているのも見受けられる。金を恵んでくれ、新聞を買ってくれ、靴を磨かせてくれ。どうにかその日を生き抜こうとする、たくましくも哀れな姿だ。
十年前、ラディスタは隣国と手を組み、東大陸へ侵攻した。当時子供だったセシルはよく知らないが、最初こそ連合軍の優勢であったがたちまち劣勢となり、二年後、連合軍が和平という名の敗北を認めたことで終結したらしい。二年戦争、と今では呼ばれている大陸間の戦争である。
町をたむろする浮浪児たちの多くは、この二年戦争によって親を亡くし、住む家を追われた者たちだ。富裕層が行き交うシエラ劇場周辺の賑わいとは根本から何かが違う、下町そのものの雑然とした空気を珍しがって見物しに訪れた、能天気な富裕層なんて格好の獲物でしかない。現に、いかにも抜け目なさそうな少年が小太りの富豪を見つめている。しばらくすれば、あの富豪は太い指にはめてあったはずのエメラルドの指輪がないとわめくことだろう。
そんな誰も彼もが何かに夢中になっている通りだから、いつもの男装に加えて帽子を目深に被っているセシルなど、誰も気に留めはしないのだ。ここでは、ラディスタ一の劇団で人気急上昇中の若手女優という肩書は大した意味を持たない。普段の自分のまま歩くことができる気楽さを、セシルはこよなく愛していた。
慣れた足取りでシエラ劇場へ向かっていると、感覚に引っかかるものがあって、セシルは立ち止まった。
セシルが首を巡らせると、赤煉瓦の一軒家の周囲に人だかりができていた。なんだろうと思って近づくと、立ち入りを制限する黄色い帯の術具が周囲に張り巡らされ、見慣れた制服姿の男が玄関扉の前に立っている。
セシルは近くにいた、野次馬の中年女性に尋ねることにした。
「すみません、ここで何があったんですか?」
「ああ、人殺しがあったみたいだよ。そこの肉屋の店主と、その同居人が殺されてたんだって。飼ってた犬まで殺されたらしいよ」
犬もだなんて可哀想にねえ、と女性は頬に手を当て、人間のつまらない争いの巻き添えを食ったに違いない犬を哀れむ。そうですね、と適当に相槌を打ち、セシルは内心でげんなりした。
殺人事件があった家を見つけてしまうなんて、運が悪すぎる。先日のことといい不吉だし早く行こう、とセシルは身を翻した。
そのとき、唐突に野次馬がざわめいた。王立魔術研究所の魔術師だ、と誰かが声をあげる。
セシルがぎょっとしてそちらを見れば、確かに白いローブを着た男女の姿が野次馬の合間から見えた。赤い縁取りや刺繍のある白いローブは、王立魔術研究所に所属する魔術師の制服だ。そんな華やかな制服の上、赤い化粧を手の甲や顔に施しているから、嫌でも目につく。
彼らが出てくるということは、殺人に加えて魔術も絡んだ事件なのだろう。普通の事件はユーサーたち青薔薇騎士団の管轄だが、魔術が絡むと王立魔術研究所の魔術師に協力を要請することがあるのだ。だからセシルたち一般庶民でも、日夜研究所に籠って魔術を研究している国家公務員の制服姿を知っているのである。
青薔薇騎士団員の呼びかけに応じて、セシルの近くの人垣が割れた。そこを、魔術師たちが通りすぎていく。人々の注目を集めているのに、どちらも周囲に目を向けたりしない。こういう仕事だから、庶民に注目されるのは慣れているのだろう。
目を逸らしたりその場を離れたりする野次馬に混じって、セシルも今度こそ逃げようとした。
――――が。
セシルの近くまで来ていた、魔術師の白いローブの女が不意に目を大きく見開いた。足を止めるやセシルのほうを向き、つかつかと早足で近づいてくる。
「ちょっと、そこの帽子の人。そう、茶色い帽子の貴方」
白いローブの女はそう、セシルがいるほうへ声を投げてくる。視線といい示した容姿といい、彼女が指名しているのは、明らかにセシルだ。
「ちょっとこっちへ来てくれないかしら?」
言いながら、白いローブの女はセシルのほうへつかつかと歩いてくる。野次馬たちはざわつき、ざっとその場から退いた。人垣が割れ、二人の間を遮るものがなくなる。
まずい。セシルは帽子が落ちないよう掴むや身を翻し、人垣に逃げ込んだ。呼び止める声を無視して走る。
もう大丈夫かと思えるところまで走って、セシルはようやく後ろを振り返った。白いローブの姿が見えないことに安堵してようやく足を緩め、怪しすぎる行動をとってしまった自分に呆れる。
しかし、仕方ないのだ。ここ数年、王立魔術研究所は魔術師の卵の勧誘に躍起になっていて、それこそ強引な手段に出る場合もあるらしく、魔術師の才能を有した戦争孤児が連れ去られただの、研究所見学へ行った下級貴族の少女は一年経っても家に戻っていないらしいだのといった物騒な噂がまことしやかに流れている。もちろんセシルはそんな噂のすべてが本当だと思っているわけではないが、王立魔術研究所所属でないにしろ、魔術師に連れ去られそうになったことがセシルにはある。だからありえない話ではないとも思っていたし、さっきもとっさに逃げたのだった。
そんなセシルの横を、若い女性たちが通り過ぎていく。
「魔術研究所の人を見かけたから思わず逃げちゃったけど、あっちで何かあったのかしら」
「さっき聞こえた話だと、肉屋の店主と魔術師が殺されたんだって。飼ってた犬も殺されたらしいよ。犬まで殺すことないのにね」
「あの魔術師の女の人が、現場の前にいた人たちをじっと見てたのも気にならない? 魔術師の卵でも見つけたのかしら。だったらその人、可哀想」
その目をつけられた可哀想な人が聞いているのに気づかず、若い女たちはささやきあう。他の者たちも似たようなことを連れあいと話しているのが、セシルの耳に入る。
セシルは立ち止まり俯くと、ぎゅっと両手を握りしめた。
セシルは魔術師やその助手になるつもりなんてない。自分は女優なのだ。できる限り、魔術師には関わりたくない。
あの暗闇の中の声と、約束したのだから。
――――振り返ってはならぬ。
だからセシルは背後を振り返ることなく、改めてシエラ劇場を目指した。
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