第3話 きらめく呼び声・2
セシル自身の心に響く声が、宝石へ意識が向くのを許さないのだ。警告とも注意ともつかない感覚への干渉は、まだ収まっていなかった。強まったり弱まったりを繰り返しながら、絶えずセシルに何かを訴えている。おかげでセシルは、場違いな場所にいるからという以上に居心地が悪くて仕方がない。
元々宝石に対した興味もないし、こんな居心地の悪さを感じていては、美しいものでも素直に感動できない。バイヤール夫人に合わせて歩きながら、セシルが早く終わらないかな、と内心でため息をついていたときだった。
退屈から何気なく周囲へ向けた目に、明かりに照らされた黒が見えた。
瞬間、それまでセシルの耳に聞こえていたあらゆる音声が消えた。視界に映るものさえも失せて、セシルの意識は宝石に吸い込まれる。世界に自分一人になる。
そして、行く手を閉ざす何本もの鎖が見えた。
「――――っ」
「セシル? セシル、どうしたの?」
セシルがその場に硬直し、鎖を凝視していると、誰かがセシルの名を呼んだ。その声と揺さぶりで、漆黒の世界は霧散する。
世界が純白に染まった後、数拍置いてぼんやりと現実世界――――心配そうな顔でセシルを見上げるバイヤール夫人の顔を映しだした。
「バイヤール夫人……?」
「セシル、どうしたの? 急にぼうっとして。しかも貴女、顔色が悪いわよ?」
「ええ、ちょっと……バイヤール夫人、すみませんが、先に外へ出ていいですか?」
「そうね……私も一緒に出るわ。なんだか頭がぼうっとしてきたし。興奮しすぎたのかしら。歳ね」
バイヤール夫人も気だるそうに息をついて言う。夫人をどうしようかと悩んでいたセシルはほっとして、二人で部屋を出た。
部屋の外に出るや、セシルは深呼吸した。うなじで暴れるものが部屋から離れるほどに薄らぎ、部屋の中で溜めてしまった悪いものが身体の中から吐き出されていく気がする。セシルはそれに安堵を覚え、何度も深呼吸を繰り返した。
二人して先ほど座っていた長椅子にまた腰を下ろし、セシルの挙動を見つめていたバイヤール夫人は、心配そうな顔をした。
「大丈夫? どこか休める部屋を用意してもらいましょうか?」
「いえ、このくらいなら平気ですよ。もうましになってきましたし。座ってれば充分です」
「ならいいのだけど……」
バイヤール夫人はまだどこか心配そうにしながら、一つ頷いた。
「もう帰りましょう。馬車を呼んでくるから、貴女はもう少しここで休んでなさい」
「すみません……」
「謝ることはないわ。宝石はもう充分見たし、元々話のネタを仕入れに来ただけだもの」
小首を傾げて笑ったバイヤール夫人はそう軽やかに笑うと、従業員に馬車の手配をしてもらうために席を立った。
その背を見送り、セシルが長々と息をついたときだった。
「おや、君、気分が悪いのかい?」
「っ?」
気を抜いていたところで声をかけられたものだから、セシルは思わず身体をびくつかせた。周囲を見回すと、明るい金髪と青い瞳の青年がセシルを背後から見下ろしている。
青年は苦笑した。
「ああ、ごめんごめん。驚かせてしまったようだね。具合が悪そうだったから声をかけたんだけど」
「そうですか、ありがとうございます。でももう大丈夫ですから……」
へらりと愛想笑いを浮かべ、セシルはどうか構ってくれるなと暗に示した。
なんというか、この青年にもう関わらないほうがよさそうだと思ったのだ。雰囲気が軽そうというか、強引そうというか。巻き毛と甘い顔立ちだからというわけではないが、今すぐ彼と距離を置いておきたい、いや逃げたい気にさせられる。きっと、セシルが人気を得ていく中で積むしかなかった経験から培われた感覚のせいだろう。
セシルの勘はまったくの正解で、青年は断りもなくセシルの隣に座った。
「ねえ君、もしかしてセシル・カロンかい? リヴィイール一座の」
「はい、そうですけど……」
やばい、と内心では焦りつつもセシルは頷く。ものすごく覚えのある展開だ。そう、喫茶店などで何度か遭遇した場面のような。
青年は、やっぱり、と顔をほころばせた。それはセシルのほうこそ言いたい科白だった。
「君の舞台は、前のを見たことがあるよ。『妖しきチャダレイ婦人』の、猟師役。いやあ、ほんとにすごかったよ。無愛想だけど勇敢な青年そのものでさ。婦人に誘惑されても惑わされない意志の強さの表現と言ったら……君が十七の女の子だって聞いたときは、信じられなかったよ」
「あ、ありがとうございます……」
「ここで休んでるってことは、もう帰るのかな? だったら家まで送ろうか?」
「いえ、人を待ってますから……」
顔をひきつらせながら、セシルはなんとか青年の誘いを断ろうとする。バイヤール夫人が馬車を手配してくれているのだ。それまで粘らねば。
しかし、青年はしつこく食い下がってくる。やや体調不良かつそれほど気が長くないセシルの限界がくるのは早く、セシルは身分の差も忘れていい加減怒鳴りたくなってきた。
――――が。
「――――あら、青薔薇騎士団の副官さんではないかしら。わたくしの連れが何か?」
セシルの物騒な思考を打ち消すような、笑み含みの声がした。つい先ほどまでかたわらで聞こえていた、容姿に相応しい華やかさと落ち着きを備えた声。
振り仰いでバイヤール夫人の姿を認め、セシルは救いの女神様と心の中で手を合わせたくなった。
青年は悪びれた様子もなく、からりと笑った。
「これはバイヤール夫人、お久しぶりです。彼女は貴女の同伴者だったんですか」
「ええ。これから二人で帰るつもりよ。彼女は少し具合が悪いそうだから、構わないであげてちょうだい?」
一見柔らかな、しかし拒否を許さない笑みでバイヤール夫人は青年を牽制する。セシルが今まで何度か見たことがある、言うならば貴族らしい、命令し慣れた者の表情と声音だ。
人の話を聞かない青年も、公爵夫人にはさすがに逆らえないらしい。そうですね、と肩をそびやかして立ち上がった。
「二人に揃って断られては、仕方ありません。――ではセシル殿、これで失礼するよ。また会えると嬉しいな」
「あはは……」
できればもう会いたくないですとは言えるはずもなく、セシルは笑って流した。またこんな疲れるやりとりをするなんて、冗談じゃない。
青年がいなくなり、セシルはまた心底長息をついた。大分気分がよくなってきたところなのに、体力がごっそりと持っていかれた気がする。
「よく頑張ったわね、セシル。一人にしてごめんなさいね」
「いえ……それよりさっき、青薔薇騎士団の副官さんって言ってましたけど……」
セシルが問うと、バイヤール夫人はええ、と微妙そうな顔をした。
「社交界ではそれなりに有名な人よ。田舎出身のたたき上げだそうけど、副団長の副官であの容姿と性格だから、夢中になってしまう若い子が多いの。うちの下の娘も一時熱を上げて、大変だったわ」
「そ、それは大変でしたね……」
セシルは迷惑としか思えなかったのだが、確かに外見だけなら、あの青年はリヴィイールの見目麗しい俳優たちにひけをとらないのである。しかも積極的で、女慣れしていそうな振る舞いだった。世の夢見る乙女であれば、ぼうっとなってもおかしくはない。
それにしても、あれが青薔薇騎士団の副団長の副官とは。その青薔薇騎士団に所属する知人の日々を想像し、大変だろうなあ、とセシルは心底同情した。
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