第2話 高校一年四月1
弘樹と出掛けたその日の夜、自室で明日の入学式の準備に不備がないかを確認し終えると、奈緒はふぅっと大きく息を吐き出しゆっくりとベッドに腰掛けた。
だがすぐに立ち上がり、何となく窓へと向かう。
しかしその所為で、またか、と目を逸らし溜息を吐く羽目になってしまった。
何気なくカーテンを開けた窓の向こう、視界の端に飛び込んできたそれを苦々しく思うのは、今月に入ってから一体何度目だろうか。
元々幼い頃から、肉体を持たぬ者の気配を察知したり姿を目にすることはあったが、それにしても最近度が過ぎている。
先月までは時々であったのが、今月に入ってからは毎日、それも日に何度も、ということも珍しくない。
流石にこれは、いくらなんでも異常だ。
明日から始まる高校生活が平穏無事であってくれればいいが、と思わず願ってしまう程に。
今のところ、こちらに危害がないだけでもマシと言ったところだろうか。
奈緒は俯き気味にゆっくり頭を振ると、カーテンを閉めようとした。
だがそれより先に、向かい側の窓からカーテンを引く音がし、続けて窓が開けられ、今の憂鬱な気分を吹き飛ばすような明るい、能天気と言っても差し支えないような笑顔が現れる。
家が隣で部屋も向かい側である弘樹の姿を視認すると、奈緒はカーテンを閉めるのを止めゆっくりと窓を開けた。
「また視たのか?」
奈緒の表情に気付いた弘樹がすぐさま笑顔を消し、心配そうに、いつもより低い声で問い掛ける。
それに対し、誤魔化しきれなかった奈緒は苦笑するしかない。
何故こうもこの幼馴染は、こういう時に限って勘が良いのだろうか。
「すぐいなくなったけどね」
笑いながらそう言っても、あまり効果はない。
いつになく真剣な眼差しで奈緒を真っ直ぐ見詰めたまま、弘樹は軽く眉を顰めた。
「すぐいなくなったって言っても、最近、てか今月入ってからずっとだろ。今日の昼間も視たよな?」
やっぱり気付いていたかと奈緒は肩を竦める。
ばれないように気を付けたつもりだったが、やはり無駄だったようだ。
「なんか、おかしくないか? まさか、お前の高校生活が波乱万丈になるって前兆とかじゃないよな?」
「縁起でもないこと言わないでよ……」
真面目に奈緒のことを心配しているかと思えば茶化しているようにも聞こえる弘樹の物言いに、思わず脱力しそうになる。
生まれた時からの付き合いと言っても過言ではない相手ゆえ、こうしたところは重々承知しているつもりだが、それでもつい頭を抱えたくなってしまう。
「いや、俺、本気で心配してるんだけど……。まあよく分かんねえけど、一応気を付けろよ?」
「うん、ありがと……」
先程とは違う意味で苦笑してしまったが心配してくれているのは事実なので、素直に嬉しく思う。
しかし弘樹の次の一言で、結局奈緒は頭を抱えることになってしまった。
「それにしても明日は入学式かあ。また同じクラスになるかな?」
「バカね、普通科のあんたと特進科のあたしが同じクラスになるわけないでしょ……。これで九年間続いた腐れ縁も終わりね」
「あっ……、そっか……」
どうやら本気でそのことを忘れていたらしく弘樹が呆然としている。
普通に考えれば当然のことなのだが、ある意味弘樹らしいと言えば弘樹らしいと、奈緒は深々と溜息を吐いた。
ただ弘樹にしてみれば単なる現実逃避で、それを綺麗さっぱり頭から消していただけであったのだが。
暫く目の焦点が合っていない状態で呆然としていた弘樹だったが、深く溜息を吐くと気が抜けたように窓枠に寄り掛かった。
「初めて奈緒と違うクラスか…、今までずっと同じクラスだったのにな」
「それに関してはあたしも不安だわ。あんたがバカなことやろうとした時、誰がそれを止めるのかしらね」
「お前なあ……」
弘樹が情けない顔でがっくりと肩を落とす。
奈緒としては、当然の不安を口にしただけなのであるが。
奈緒と弘樹が通う学園は、中等部と高等部が併設されており、二人とも中等部の頃から在籍している。
毎年、ある程度外部の高校へ進学する者がいるが、二人はこの春から高等部へ内部進学することになっている。
本来弘樹は地元の公立中学校に進学する予定だったのだが、小学六年の夏に奈緒が私立校を受験することを知った途端、自分も受験すると言い出し見事に合格を果たした。
何故弘樹が突然そんなことを言い出したのかは、未だに分からない。
だが、知っている者がいない学校へ進学するのはやはり不安も大きかったので、ずっと一緒だった弘樹が同じ学校に進学するということは、正直心強く感じたのをはっきりと憶えている。
因みに、弘樹が合格出来たのは奇跡だと未だに言われ続けている。
そして奈緒も、そう言っている内の一人だ。
だからこそ余計に、二人が九年間同じクラスだった偶然には、当人達だけではなく友人達も驚いていた。
そのことに対し、涼川弘樹がおバカな意味での面倒を起こさない為には佐倉奈緒を同じクラスにしておくのが一番だと教師達が考えたという、実しやかな憶測が流れていたりしたのだ。
勿論弘樹自身もそのことは知っていて、いじけまくっていたのは言うまでもない。
ただ実際に、弘樹がバカなことをしようとする度に奈緒が必死で止めていたのだから、仕方がないことだとも言えるだろう。
「それにしても、弘樹が高等部に進学するとは思わなかったわ。てっきり外部に行くと思ってたのに」
「何だよいきなり? てか何でそうなるんだよ…」
何気なく口にすると、弘樹が露骨に嫌そうな顔をして唇を尖らせる。
そんなつもりは一切なかった弘樹がどこか不機嫌になるのも仕方がないことだろう。
ただ、奈緒としては勿体ないなと思わずにはいられなかった。
「だって、サッカーで勧誘来てたじゃない。それも県代表争うようなとこから何校かあったでしょ?」
「別に俺、全国行きたいとかそういうのないし、サッカー中心の生活したいとも思わないしさ。それに、俺が好きでサッカー部に入ってたんじゃないことくらい知ってるだろ?」
「そう言えばそうだったわね…。気付いたら強制的に入部させられてたのよね?」
「そうだよ。俺は部活自体やるつもりなかったのに、無理矢理引き摺り込まれて引退するまで辞めさせてもらえなかったしさ」
「でも、あんたが得意なのってスポーツだけだし、それ以外はただのバカじゃない」
「ただのバカ……」
「本当のことでしょ?」
再び弘樹が、がっくりと肩を落とす。
いつものことではあるが、奈緒は弘樹に対して容赦がない。
弘樹が相手だからこそ、でもあるのだが。
弘樹にしてみれば、外部の高校へ進学しなかったのはサッカーよりも重要なことがあったからなのだが、奈緒はそのことを知らない。
それを伝えるにはまず先に言わなければならないことがあるのだが、家族に聞かれてもおかしくはないこの状況でそれを言うのはまずいと理解している。
そんなことをすればそのこと自体を怒られて、肝心の内容に関しては彼方へと飛ばされてしまう可能性が高いからだ。
ただ実際のところ、それに関しては弘樹の家族も奈緒の家族も既に知っていることなので、聞かれたとしても全く問題はない。
恐らく、漸く言ったのかと思う程度だろう。
知らないのは、奈緒本人だけだ。
(奈緒の奴、俺の気持ちにはこれっぽっちも気付いてないからなあ……)
物心つく前から弘樹がずっと抱き続けている気持ちを、奈緒だけが知らない。
周囲の者達の殆どが気付いているにも拘らずだ。
それに関しては、奈緒は異常なまでの鈍さを発揮している。
だから知ってもらうには伝えるしかないのだが、その伝えるタイミングが掴めず、ずっと焦りを感じているというのが現状だ。
それだけでも弘樹にとってはしんどい状況であるのは間違いない。
そして、奈緒は自分達が違う学校に通うことになっても何とも思わないのかなとぼんやりと考え、溜息を吐き項垂れたのだった。
そんな弘樹の姿に、バカだと言うのはいつものことなのに大袈裟な、と奈緒は呆れた目を向ける。
弘樹がショックを受けているのは別の理由だということに、奈緒は全く気付いていなかった。
「それじゃ、あたし、そろそろ寝るから」
時間を確認し、そう言って窓を閉めようとすると、弘樹がもう一度真剣な眼差しを向けてきた。
「さっきのことだけどさ、冗談抜きで一応気を付けろよ?」
「うん、分かってるよ。それじゃあ、お休み」
「……お休み」
窓を閉めて鍵を掛け、カーテンを閉める。
その直前、弘樹が心配そうな顔でまだこちらを見ているのが見えた。
最近のことを考えれば、弘樹が心配するのも分からなくもない。
用心するに越したことはないのかもしれない。
それが杞憂に終わるかどうかに関係なく。
だがしかし、本当に奈緒にとって波乱の日々が始まろうとしていることを、この時の奈緒と弘樹には、知る由もなかった――。
時の彼方 水沢樹理 @kiri-mizusawa
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