時の彼方
水沢樹理
第1話 プロローグ
三月三十日午後十一時五十分、少年は、静かにその時を待っていた。
日付が変わる瞬間に、再び幕を開けるその時を。
悲愴とも言える、揺るぎない確固たる決意をその胸に宿して――。
◇◇◇
彼がそれと遭遇したのは、高校の入学式を数日後に控えた四月五日の夕方のことだった。
中学の同級生で同じ高校に進学することになっている恋人とのデートの後、いつものように彼女を家まで送り、のんびりと歩きながら自宅へと帰る途中、それは突然現れた。
何処から現れたのか、気付けば十メートル程先にいたそれは、どう見ても異様でしかなかった。
化け物――、咄嗟にその言葉が脳裏に浮かぶ。
逃げなければ、と思うのに、恐怖で脚が凍り付いたように動かない。
それはゆっくりと身体ごと彼に向き直ると、明確な敵意を持って凄まじいスピードで襲い掛かってきた。
彼は、悲鳴を上げることも逃げることも出来ず、恐怖に怯えたまま、反射的に両腕で顔を覆い、ぎゅっと目を瞑ったのだった――。
◇◇◇
心地よい風が吹き抜けるよく晴れた昼下がり、街中を行き交う人々の騒めきが一際大きくなった。
その中心にいるのは滅多に出会えないというより、こんなにも美しい者がこの世に存在するのかと驚嘆するほどの美しさを持つ一人の少女だ。
彼女にとって注目を集めるのはいつものことだからか全く気にも留めておらず、その視線の意味には恐らく気付いてはいない。
正確には、注目を集めることが当たり前になり過ぎて、注目を集めていること自体気付いていないと言った方がいいのかもしれないが。
スポーツ専門店の自動扉が反応しない程度に入口から離れスマートフォンの画面を眺めている少女の美しさに、溜息を漏らす者、只々見惚れる者とそれぞれ反応は様々だが、中には当然の如く欲望に忠実な邪な視線を送る者も複数いる。
大抵は、美しすぎる少女に気後れしてそれだけで終わるのだが、この時は下卑た笑みを浮かべたまま近付こうとする者がいた。
だが少女がその視線の不快さに気付く前に、彼女の右肩にポン、と軽く触れる手があった。
「悪い、待たせた」
少女の肩に手を置いたまま、すまなそうな顔でそう言う爽やかな雰囲気の少年は、少女に負けず劣らず美しい顔立ちをしている。
その二人の姿に、少女に近付こうとしていた男は舌打ちして離れて行き、その男同様、邪な視線を送っていた者達は落胆し肩を落とした。
その一方で少女に見惚れていた者達は、二人を恋人同士だと思い込み、お似合いだの、目の保養だなどと呟いている。
実際にはそうではないのだが、この二人の醸し出す空気を感じればそう思うのも仕方がないことだろう。
傍目には、恋人同士特有の甘い空気にしか思えないのだから。
「別にそんなに待ってないよ」
「どうせなら、店内で待ってればよかったのに…」
「別に外でも大して離れてないんだから、そう変わらないでしょ?」
「そうだけどさあ…」
そんな周囲の状況にも、彼が本当に言いたいことにも全く気付いていないその少女、
その隙に弘樹が、周囲に警戒するような、威嚇するような視線を向けているが、当然それにも気付いていない。
「買物はこれで終わり?」
「ああ」
「それにしても入学式前日に何をやっているのかしらね……」
駅の方へと向かって歩きながら奈緒が呆れた目を向けると、弘樹は気まずそうに視線を逸らした。
「俺だって、急にペンケースが壊れると思わなかったんだよ……」
「だからって、なんであたしまで……。それも態々電車で天神までなんて」
「いいじゃん、折角だからついでに色々買いたかったしさ。約束どおり、パフェでもケーキでも奢るから」
「あたしだって天神に来るのは久しぶりだから、色々見て回りたいんだけど…。雑貨屋さんとか、地下街とかも行きたいし」
「そっちも付き合うから」
昼食が終わってすぐ、ペンケースが壊れたから買物に付き合えと連れ出され、そんなに時間が掛かっていないとはいえ、あちこち連れ回されたのだ。
二人の自宅から福岡市中央区の天神地区までは電車で約三十分、お陰で今日の午後の予定が変更になってしまった。
とは言っても、のんびりと過ごすつもりだったのが慌しくなってしまっただけのことだが。
恨めしそうな視線を向けるも、誤魔化すように笑う弘樹に奈緒は深く溜息を吐き、いつものことかと無理矢理自分を納得させた。
だが弘樹から視線を逸らした瞬間、視界の端に飛び込んできた黒い影に、思わず顔を強張らせてしまう。
「どうした?」
奈緒の異変に敏感に気付き、心配そうに顔を覗き込んでくる弘樹に、奈緒は気のせいだと思うことにし、何でもないと笑って首を横に振ったのだった――。
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