日野橋の下、川は流れる

上松 煌(うえまつ あきら)

日野橋の下、川は流れる



 キッ、キキッギギギシィ~イッ。

けたたましいブレーキ音。

「あっ、ごめっ」

聞き慣れた小野田の声が後ろでして、ドンッと前輪がぶつかってきた。

「イテッ、バカ。気をつけろ」

「ホント、悪い悪い。おまえが角曲がるのが見えたんでさ、とっさにダッシュ。したらガキが飛び出してきてさ。ったく、今の小坊ってどこに目えつけてんだ?」

「って、おれにぶつけることねぇだろ」

「ごめ。チャリは視線の方向に進むってほんとだな」

「今さら、なに感心してんだよ」

小野田のとぼけた返事には思わず笑ってしまう。

本気で大真面目に言ってるからよけいに笑えるのだ。


 「あれ?おまえ、その傷テープなんだよ?」

彼の顔を振り返って見て、ちょっとびっくりする。

左頬に15センチくらいのでかい絆創膏だ。

小野田は顔をゆがめて声を低く落とした。

「これ?金井だよ。アイツ、折り畳みナイフ持ってる。昔、キムタクがドラマで使ってたアレ」

「あぶねぇな。理由は?」

「うん…。まぁ…その」

言いにくそうに言葉を濁す。

「カツアゲ?ガンツケ?ヤツの虫の居所が悪かったとか?」

「いや、八十村(やそむら)、おまえだよ。おまえに言っとけって、いきなり切りつけやがった。愛理(あいり)に手ぇ出すなって」

「ひでっ。そんなことでお前に怪我させたのかよ。ちくしょう、小野田には関係ないのに」

「大したことないから、おれは別にい~よ。それより気いつけろ。金井、本気だぜ。少年のうちになんかでかいことしてぇって言ってた」

「ふっ、日本銀行でインゴットでも強奪すりゃいい。ど~せ口だけだよ。ホント、ごめん。痛いだろ、おれのせいで」

申し訳なさに、自然に頭が下がる。

「へ~き。引っかかれただけ。ヘマして人んちの生け垣に突っ込んで枝で切ったって親に言ったら、モロ信じてたもん。おれ、信用あるからさ」

小野田は軽く笑ってくれた。

中学のころからの親友で、高校が違ってしまった今でも時々、連絡を取り合ってつるむ仲だ。

問題の金井裕也(かないゆうや)はたまたまクラスが同じだっただけのワルで、ほとんど接点がないのに、いきなりこの御挨拶だ。

「ったく、視聴率とれねえドラマかよ。金井、アタマ湧いてんな。アイツ、今でもモテねぇんだな」

「いや、気違いに刃物だから、愛ちゃんのことマジで考えたほうがいいよ。おまえ、自分に自信ありすぎ。1対1なら楽勝でも、アイツ、頭数で来るから。だって、言い草も893まがいでさ、え~と、そう、おれのシマの女だって言ってた」

思わず、噴いてしまった。

「はいはい。いまどきチンピラ893でも言わねえよ。そんなセリフ」

「だから、ズレてるヤツにはかかわんなってこと。な、頼むよ、八十村(やそむら)。おれ、塾だから行くけど、おまえは鼻っぱし強いから怖いよ。な、友達を失うことにはなりたくないから」

ちょっとマジで言って、小野田は去って行った。


 なんとなくイラつく気分で立ち尽くす。

愛理(あいり)はほんの1年前、ガソリンスタンドで働いているのを見染めたひとつ年下の16歳の娘(こ)だ。

真面目で気配りのある優しい接客が好印象で、運転席の親父すら、「ああ、いい子が入ったね」と言ったくらいだ。

最初はフツーの応対だったが、何度か給油するうちに以心伝心というのだろうか、なんとなく彼女も好意をもってくれている気がして、思い切って閉園で話題の豊島園に誘ってみた。

愛理(あいり)はにこっとして、「うん…」とうなづいてくれたのだ。


 本当に楽しいいち日だった。

彼女は特にカルーセル・エルドラドが気に入っていて、

「子供のころ、お祖母ちゃんと来た時とおんなじ。華やかできれい。ほんっと、懐かしい。…ありがとう」

少し上気した顔でお礼を言ってくれた時、八十村(やそむら)は幸福でとろけそうな気分になったのだ。

2人で子供のようにはしゃぎながら、木馬をいろいろ取り換えて繰り返し乗った。

その日は最後に回転木馬のキーホルダーを買い、背にお互いの名前を入れてもらった。

「やそむらそうし」

「かねこあいり」

そして、それを秘密の宝物でもあるかのようにそっと交換し合ったのだ。

「翔志(そうし)くんって、男っぽいいい名前だね。颯爽として雄大な感じがするもの」

「そう?おれも実は気に入ってる。空を翔(か)けるような颯々とした志を持てって、両親がつけたんだ。きみの愛理(あいり)もいいよ。道理とかを愛せってことかな」

「うん、そう。理知や倫理を愛せる人間にって、お祖母ちゃんがつけてくれたの」

「ふ~ん、きみのお祖母ちゃん、教養あるんだね。ほんといいよ」

彼らはお互いの名前をほめながら笑いあった。

まだまだぎこちなかったけど、そっと寄り添いながらいっしょに見たラストのイルミネーション点灯は、今でも目に焼き付いている。


               *     *


 古い木造モルタルの2階建てアパートが目の前に見えていた。

時の忘れもののような鉄製の階段を上がって、2Fの東のドアをノックする。

「いらっしゃい」

いつものように愛理がにこにこ顔を出した。

家具らしい家具の見当たらない、古畳の狭い6畳に小さなキッチンが付いている。

トイレは共同で、廊下の向こうだ。

こんなレトロ・テーマパークにでもありそうな安アパートに、彼女は父親と一緒に住んでいる。

父は健康体なのに生活保護をもらっていて車とパチンコ、賭け事に数百万をつぎ込む暮らしだという。

それなら、もっとマシな住居がありそうなものだが、家には全く関心がないようで、彼女の子供のころからのここを動こうとしないらしい。


 「あたし、小学校以来、友達を呼んだことがないの。こういうおうちだし、お父ちゃんが昼間っからお酒飲んでゴロゴロしているときがあるから…」

「えっ、じゃ、あんまり遊びに来ちゃまずいな。鉢合わせになったら、親父さん絶対いい顔しない。娘を持ってる父親って、男には敵対的だから」

「今は大丈夫。お父ちゃん、どっかのママさんに入れ込んでて、お金が入るとそこに入り浸り。騙されているんだと思うけど言っても聞かないし。でも、いいの。1人のほうが気楽。だから、翔志(そうし)くんは遠慮なく来て。1人はやっぱ寂しいし」

(いや、おれも寂しいよ)

心が即座に返事したが、これは言葉にはならなかった。


 彼女が紅茶と菓子を出してくれた。

手造りのパン・ケーキだ。

小さなバターのかけらとガムシロップが垂らしてあるだけで、ホイップした生クリームもフルーツもバニラ・エッセンスもカラメルソースすらなかった。

それでも舌に染み通るように美味かった。

「お。美味いよ。へ~、シンプルでいいじゃん。ホント、美味いうまい」

ほめると愛理はうれしそうに、はにかんでほほ笑む。

その素直な反応がたまらなく愛しい。

「あっ、そうだ。愛理は金井裕也(かないゆうや)って知ってる?なんか向こうは知ってるみたいなんだけど」

さりげなく言いながら、なんとなく探る視線になってしまう。

「え?金井裕也(かないゆうや)?」彼女はちょっとびっくりした顔をする「うん、知ってる。っていうか、あたしの働いてるガソリンスタンドのオーナーさんの息子。あたしが面接受けた時たまたまいて、ずっと窓際に立って威張った感じでタバコ吸ってた。なんか、態度悪い人だな~って、なるべく目を合わさないようにしてたの。あとで店長さんがこっそり、かかわらないほうがいいよって忠告してくれたんだけど、なにか、あたしのこと言ってた?」

「あ、いや。別に…。おれの中学時代の同級でさ。ちょっと愛理の話が出たんで知り合いかな~と…」

彼女には心配させたくないから、とっさに言葉を濁してしまう。

「そう?縦の関係よ。雲の上の上司と底辺の部下みたいな感じかな?スタンド、10件も持ってる大金持ちだもん。あたしには関係ないヒトよ」

彼女が無邪気に笑ったので、その話はエンドになった。


 「ね、今年の仲秋の銘月は来月なんだよね。10月1日。上新粉を練って沸騰したお湯に落として、よくお祖母ちゃんが作ってくれた。思い出すわぁ。手作りの月見団子は一晩飾って、次の日に甘辛にして食べるの。あたし作るから食べに来てくれる?」

「もっちろん。おれ、がっつきだもん。絶対来るっ」

勢い込んだ返事に愛理はまたコロコロと笑った。

彼女に母はいない。

7歳になった夏に失踪してしまったのだ。

父にはDVの性癖があり、彼女の記憶にある母はいつも叩かれていて、それを祖母が必死に阻止する。

思えば、愛理もどれだけぶたれたことだろう。

家庭内暴力や幼児虐待がちっとも不思議ではない毎日。

そんな一般家庭にはない修羅場が日常だった。

母がすべてを捨てて去ってからのちは、祖母が母代りに本当に慈しんで育ててくれた。

無償の愛にはぐくまれて、愛理は考え深くて思いやりのある、それでもちょっと影のある少女に育っていったのだ。


               *     *


 「愛ちゃん、ちょっと」

スタンドの店長が彼女に箒と塵取りを渡す。

「昨日の台風で枯れ葉とゴミがすごいんでさ、店の敷地内から歩道までちょっと掃いといて」

従業員の中で女性は彼女ひとりだから、こういった仕事はいつも彼女だ。

「はい。じゃ、あと暇を見て店内もやっときますね。ついでですから」

やる気十分の返事に店長も笑顔になる。

「うん、頼むよ」


 客の車の出入りに気をつけながら、中央から端に向かって手早く掃いていく。

大方、掃除を終わって、最後は洗車機の陰になった。

やりづらいので残してあったのだ。

かがんでゴミを塵取りに取ろうとした時、

「いいケツしてんな」

声とともにだれかが彼女のそこをぬっぺりと触った。

なでまわす感触を楽しむような執拗な手つきがゾッとするほと気色悪い。

「なにするんですかっ」

気色ばんで振り向く彼女に、ソイツが「キェヘヘヘッ」というような奇声で応じる。

こんな人間はこのガソリンスタンドの従業員にはいない。

まじまじと顔を見た愛理は瞬間的に目をそらしていた。

面接の時のあの顔、見たくもない顔だ。

「いいケツだって、ホメてんだよぅ」

言いながら、ジリッとにじり寄る。

男は金井裕也だった。


 「やめてくださいっ。仕事中ですっ」

言い捨てて逃れる。

「なんだよっ。その態度は?あ?」

ドスの利いた声が追いすがって上着をつかむ。

そのままモミモミと胸に手を回してきた。

傍若無人というか、なんという図々しさだろう。

「いやっ。誰かっ。店長~。いやぁ~っ。だれか早くっ」

助けを呼ぶ声は必然的に高くなった。

給油客もいる手前、本当はもっと大人の対応をしなければいけなかったけれど、おぞましさが先に立っていた。

緊迫した声に、接客をしていない仲間が駆けつけてくる。

悪びれない金井はニヤニヤしながら抱きすくめたままだ。

「金子くんが悪い」事務所から飛び出してきた店長が、金井の顔色をうかがいながら愛理を諭すフリをする「仕事中に変な声は厳禁だ。お客様が不審に思うだろ。きみは早番だったね?もういいから、今日は帰りなさい、早く」

金井裕也に見えないよう、しきりに目配せしながら間に割って入る。

愛理は金井を突き飛ばすように離れようとした。

「おっとぉ。い~いじゃん。ちょっとお話しするんだから。な?ケヘッ、この女借りるぜ」

言うなり、グイッと首に手を回された。

そのようすは犯罪者が人質を取ったまま車に移動するシーンに見えなくもない。


 「ちょっと、警察にTELしましょうか?」

第三者の声に金井がギクッとする。

一番端の給油機の客だった。

そこから彼らの動きが見えたらしい。

「あ、いや、その、この子、ちょっと変な声出す癖があるんで。止めようとしてこうなったんで…心配いりません」

店長のとっさの声に金井裕也がしゃぁしゃぁと便乗する。

「そう。ちょっとアタマ変なんじゃないかな。かわいい顔なのに可哀そ~だよね~」

愛理はいたたまれなくなって顔を覆った。

そのまま金井を振り払って、転げるようにスタンドを後にしていた。

惨めで情けなかった。


 こみ上げてくる熱くて痛いものをこらえながら、アパートの階段を駆け上がる。

父親は今日もいない。

それにちょっと安心する。

「お祖母ちゃん、お祖母ちゃ~んっ」

亡くなっていないのはわかっているのに声に出して呼んでいた。

昔のようにしわだらけの温かい手が頭をなでてくれる気がして、涙がどっとあふれた。

「お祖母ちゃん、あたし、悪くないの。被害者なの。それなのにアタマ変だって…悔しい」

彼女にも、あの場合は彼女を悪者にしなければ収まらないのは分かっている。

うっかり金井裕也に説教などしようものなら、激昂して手がつけられなくなる。

それを知っている店長の冷静な判断だった。


 「わかってる、なにもかもわかっているのに。それでもあたし、涙出ちゃうんだよ、お祖母ちゃん」

子供のように訴えながら、彼女はひとしきり泣いた。

それで気が晴れる気がするからだ。

金井の人を小馬鹿にした態度は確かに言語道断だが、接客業の従業員としては周りに客のいる限りは穏便に済ますのが基本だ。

自分でも過剰とも思える彼女の反応は、実は子供のころの記憶に由来している。

泣きすぎてちょっと頭が痛くなったころ、階段を上がってくる足音がした。


 (あっ、いけない。もう、そんな時間?)

今日は八十村翔志(やそむらそうし)が来る日だ。

月見団子をいっしょに食べる約束を彼女のほうからしたのだ。

部屋には姿見がないので、小さな手鏡で自分を整える。

泣きはらした目はどうしようもないから、できるだけ明るい声を出して平静を装った。

「いらっしゃい、あたし、今帰ってきたばかり。すぐ、支度するね」

忙しそうなフリですぐに顔をそむける。

わざとらしい態度だけれど、彼女にはこれでせいいっぱいだ。

「あ、うん…」

彼が少し戸惑うのがわかる。

「花買ってきたけど…。なんかあった?」

遠慮がちに言いながら、顔を覗き込んでくる。

「別に、なにも」

一旦は知らんふりをしようとしたけれど、白い胡蝶蘭の切り花を見た途端、目じりは彼女を裏切って涙をあふれさせた。


 「なんかあったんだね…」

そっと肩に掛けられた手を、反射的に力いっぱい振り払っていた。

「いやっ。さわらないでっ」

自分でもびっくりするほどの金切り声が出た。

金井裕也の手の感触がよみがえって全身が総毛立ち、それが父親の手に変わった気がして、胡蝶蘭の花束を翔志(そうし)に叩きつけていた。

茫然とされるままになっている彼を感じながら、愛理は自分でも止められないままにこんな言葉を口にしていた。

「翔志(そうし)くん、ごめんね。お花も可哀そう。…でも、怒らないで。わけがあるの」

それでも心はおびえる。

(こんな話をしたら、あたし、彼に嫌われちゃう?ヤバイって去ってしまうんじゃ?)


               *     *


 「朝鮮人の父親はね、みんな娘をレイプするんだって。それが愛情なんだって。お父ちゃんが言ってた。でも、それは違うと思う。あたし、すごくいやな気がしたもの。あたし、それで身体に触られるのってダメなの」

職場での出来事を包み隠さず話した後、愛理はだれにも言ったことのない秘密を打ち明けたのだ。

「聞きたくないよっ、そんな話」

思った通り、彼は嫌悪で拳を固め、激しく顔をゆがめる。

このまま嫌われてしまうのなら、あまりにも悲しい。

急いで言葉をつなぐ。


「ううん、違う、違うよ。お父ちゃんがその気になるたびに、お祖母ちゃんが止めてくれた。ここは日本だ、日本人はそんなことしないって。お祖母ちゃんは日本人なの。だから、お父ちゃんは未遂。本当よ。ホントに本当なの」

目に真実を込めて彼を見つめる。

「そう…。よかった。一瞬、きみの親父さんをどうしてくれようって思った」

短い沈黙の後で、彼の心から安堵した視線が祖母の眼差しに重なって、彼女を包む。

それが震えるほどうれしい。

心のわだかまりをみんな打ち明けてしまいたい。

彼なら、きっと聞いてくれるのでは?


 「あたし、もう、…みんな話しちゃうね。誰にも言わないできたけど翔志(そうし)くんには聞いて欲しいの」

「うん、いいよ。なんでも言って」

彼の静かな言葉が温かく彼女を促す。

「うん。あのね…もう、何十年も前だけど、若かったお祖父ちゃんは朝鮮戦争の時、ひいおじいちゃんたちと自分の国を捨てて日本に逃げたの。ひいじいちゃんは日本が戦争に負ける前に韓国にあった日本人の会社にいて日本語ができたから。それでお祖父ちゃんはお祖母ちゃんと結婚したの。日本は戦争で男の人がたくさん死んでしまって結婚難で、お祖母ちゃんは騙されたみたい。お祖母ちゃんちの財産をお祖父ちゃんはみんな巻き上げて使っちゃった」

「ああ…。形は違うけど、おれんちもやられてる。空襲で都内にあった家を留守にして疎開しているうちに、焼跡の土地を朝鮮人に乗っ取られた。役所はみんな空襲で灰燼に帰しているし、証拠の登記簿も焼けてしまったから。中には何とか自分の土地を取り戻そうとして、ひそかに朝鮮人に殺されてしまった日本人も少なくないって。うちも曾祖父が話してくれたよ」

「そう…乗っ取りだよね。人殺しなんてすっごく悪いことだわ。本当に…ごめんね」


 口ごもる愛理に彼は首を振る。

「きみがやったわけじゃないし。ただ、語り継いでいかなければいけないね、事実は事実だから。事実が隠蔽される世の中であってはいけないから」

彼女もうなづく。

「そうね。本当にあったことをなかったことにするような、間違ってる世の中にしてはいけないよね。すべてを認識し合って、そこから理解が始まるの。隠すことは対話の拒否で不誠実すぎるもの」

「うん、きみが自分のことを話してくれてうれしいよ。おれたちはなんでも話せる仲になろう」

おずおずと握られた手を愛理が引っ込めることはなかった。


「でも、やっぱり、あたしももっと大人にならなきゃ」しばらくして、彼女がそっとつぶやく「翔志くんは特別の人だって思ってるのに…」

「いいよ。急がなくて。おれ、あんまりベタベタすんの好きじゃないし。心ってさ、触んなくてもそばにいるだけで通じるんだよね。それが本物だって思うしね」

「うん。あたしもそう思う」

「じゃ、いいじゃん。無理すんな。おれさぁ、なにかあったら全力で守るよ。今、決心したんだ。愛理にはお祖母ちゃんしか味方がいなかったんだ。そのお祖母ちゃんが亡くなっちゃった今、おれが守る。絶対にきみに嫌な思いや悲しい思いをさせない。だから、おれを信じて頼って。ホント、おれ、がんばるから」

10代らしい、真摯で純真な決意だった。

言葉や声の調子には多少のテレが含まれていたけど、それだけに真実を表明して嘘偽りがなかった。

彼の真心が心にしみわたる気がして、愛理は不意に顔を覆った。

「…泣いちゃって…ごめんね。あたし、うれしい。そんなこと言ってもらったの…初めて。変だよね、…うれしくても…涙が…出ちゃうんだね」

言いながら泣き笑いになる。

「うん、みんなそんなもんだよ」

うなづきながら翔志がそっと、本当にそっと肩に手を回す。

彼女はちょっと身体を固くしたけど笑顔が消えることはなかった。


  おもむろに2人は一緒に、散らばってしまった切り花を集めた。

「胡蝶蘭は案外、丈夫だね。傷がついたけど、大丈夫。ほら、大したことないよ」

「よかったぁ。お花さん、乱暴しちゃって…ごめんね。もうしないからきれいに咲いてね」

詫びならそっと水切りをして、一番いいコップに飾る。

白い花の反射だろうか、そこだけポッと明るい気がして彼らは満足の笑みを交わしあった。

それから月見団子を甘辛にして、肩を寄せ合って食べた。

幸せが心にしみるような、静かで平穏なひと時だった。


          *     *


 気ぜわしい夕方、彼女は駅前のスーパーで買い物をしていた。

もう、1か月も父親は帰ってこないけれど、女性に貢いでいた金が尽きたり、パチンコや競輪で負けが込んだりすると不意にやってくる。

そして、彼女がこつこつと貯めておいた貯蓄のほとんどをかすめ取って行く。

その時はヘラヘラ機嫌がいいのに、もし酒やつまみが切れていたりすると一転して、ものも言わずに手近な物を投げつけてくる。

そんな暴挙をなんとも思わない父の心根が悲しくて、愛理はいつも酒に合いそうな煮魚や焼き鳥、揚げ物などの準備をしておく。

もちろん、父親が帰らなければ、それらは数日間の彼女のおかずになるのだ。

今日はちょっと重いけど、大和煮やオイル・サーディンなどの缶詰を買った。

わがままな父は目先の変わったものを好むから、いつも同じようなものでは機嫌が悪くなるのだ。

ついでに2.5リットルの焼酎も買い込んだ。

まだ、30代後半の父は浴びるように酒を飲む。

幸いに祖母が亡くなる前後から欲情して愛理に手を出すことはなくなったが、彼女がうっかりしていて途中で酒が切れると、発狂したように暴力に走るのは昔と変わらない。


 大通りから裏路地に入り、ずっしりと重いエコ・バックを下げていく。

後ろから来た車のために愛理が道を開けようとした途端、なぜかその車が行く手をさえぎるように前に回る。

(え?)

とまどう彼女に声が投げられた。

「キヘヘヘッ、乗ってけよ。かぁのじょ~。ドライブ連れてってやるよ」

例の声に鳥肌が立つ気がした。

重い荷物にじゃまされながらも、必死にすり抜ける。

「けっこうですっ。もう、父が帰ってきますからっ」

「はぁ?おやっさん?そんなもん帰ってこねえよぉ~。話(なし)つけて金出して買ったんだよ。おめえの親父、おめえをど~にでもしてくれってさ」

「嘘ですっ」

反発しながらも、背筋が寒くなる気がした。

金をつかまされたら、父はためらいもなく娘を売るだろう。

嫁や娘は家長の所有物で人権はないと思っているからだ。


 乱暴に掴まれた荷物を振り棄てて走る。

いくらも行かないうちに追いつかれた彼女のほおがバシンッと鳴った。

はっと硬直する目の前で、金井裕也ののっぺりした顔がニタリと嗤う。

そのまま髪をつかまれて車に引きずり込まれた。

「い~い子にしてねえと、お仕置きだよ~ん」

「いきなり暴力なんて、どうかしてるわっ」

必死の抗議も裕也にはどこ吹く風だ。

「うっせぇ。『女は3日殴らねえと狐になる』んだよっ」

それにもゾッとした。

これは朝鮮のことわざで、彼女の父親も母を殴るときによく言っていたからだ。

また、なにかで機嫌の悪い時には『衛門で頬を打たれたら帰ってから女房を殴る』とも言っていた。

どちらも理不尽な弱い者いじめを肯定する、卑怯で醜悪な心根を表したものだ。


 「あなた、18歳じゃないでしょっ?免許あるのっ」

ロックされたドアを絶望的にまさぐりながら、とっさに口走っていた。

八十村翔志の同級だったという言葉がよみがえったからだ。

「なにぃ~?」

案の定、意表を突かれたらしい。

ちょっとひるんだが、次の瞬間にはダッシュボードからなにかをひったくって彼女の眼前に突きつける。

「これが免許だよ。見ろよぉ。あ?おらおらおらぁっ」

ペチペチと顔に叩きつけてくる。

これではかえって見えないのに、まぁ、最初から見せる気はないのだろう。

「ここは日本よっ。こんなことしていいと思ってんのっ?」

祖母がいつも言っていた言葉が口を突いていた。

これは拉致だ。

いくら父親が金を受け取ったからといって、これは犯罪なのだ。

「だから、ど~だってんだ?あ?日本風(にほんかぜ)吹かせるなよ、バ~カ。おめえのかあちゃんだって朝鮮人だろがっ」


 「え…?」

硬直した。

「嘘…。ウソだわ」

「ウソなもんか。おめえのかあちゃん、30超えたババアのくせに、まだ風俗やってんぜ。イェヘヘヘ。会せてやろ~か?」

反応を楽しむかのような金井の声に、

「嘘よ…」

茫然とつぶやくしかない。

「ババアだから客付かなくてよぉ。貧乏してんぜ。ツヤツヤ、ピッチピチが五万といるからな。かわいそ~だから買ってやってんだぜ。てめえも買ったから親子丼だワぁ。イヒャヒャヒャ」

金井の頬がパチンと鳴った。

あまりの言い草に愛理が力いっぱい叩いたのだ。

彼は叩かれたことなどないらしく、一瞬、正気にかえったような眼をしたが、すぐに獲物を見下ろす陰湿な表情にもどる。


 「痛ってぇなぁ~。ケケッ。まぁいい。ねぇ~、愛理ちゃ~ん、シートベルトしてくれる?しねぇと違反だろぉ?ここは日本ですぅ~」

「………」

これから、どこに連れ去られるのだろう?

ためらう彼女に金井裕也の怒声が瞬時に襲う。

「早くしろっ。ぶっ飛ばされてぇかっ、グォラァッ」

車の中なのに、道路の通行人が振り向くほどの胴間声だ。

硬直した手を夢遊病者のように動かしてベルトを締める。

「ウヒョヒョ、けっこういい子じゃ~ん」

勝ち誇った声の割には車の発進はぎこちない。

おそらく無免許なのだ。 


               *     *


 金井裕也の家庭はどう考えてもカタギではない気がする。

同じ町内の高級住宅地の一角を占める威圧的な擁壁に囲まれたその家は、複数の防犯カメラがあたりを睥睨する異様な雰囲気だ。

10件以上のガソリン・スタンドのオーナーという顔はたぶん表向きで、裏の家業は人には言えないものなのだ。

「お帰りなさい、坊ちゃん」

門番兼、近所の動向を探るための若い者なのだろう、アプローチにたむろしていた数人がニヤニヤと2人を迎えた。

裕也がガッシリと腕をつかんだままだから、彼らの関係が友人や恋人でないことはすぐわかる。

中には愛理の頭から足先まで、舐めるように露骨に視線を走らせる不心得者もいて、彼女は鳥肌立つ思いがした。


 豪奢な大理石張りの玄関を抜け、エレベータで2階に連れ込まれた。

舎弟や組員のウロウロする階下と違って、ここはプライベート空間らしかった。

いくつかのドアのひとつを開け、だだっ広い部屋に入った。

様子から見て、ここが彼の自室らしいが、フィギアやDVD、エロ・コミックや脱ぎ散らかした服、食べ物の残骸で足の踏み場もない。

その間に大量のちり紙。

体臭と腐敗したごみ臭の入り混じった異様な臭気に、ちょっと足がすくむ。

片隅には簡易なキッチンとトイレも付いていて、完全に独立した空間だ。

拉致監禁にはぴったりの部屋だった。


 「おめえはこっちだ」

突き飛ばされて、さらに小部屋に押し込まれた。

ウォークイン・クローゼット、つまり納戸だ。

金井裕也は意外に用心深い。

ここならだれかが部屋に闖入したとしても人目に付かないし、声も届きにくい。

鉄格子のはまった小さな明かり取りがあるだけの6畳ほどの板の間には、古いオーディオやファミコンの山、家電や室内筋トレ器具などの雑多な物が山積みされていて、愛理は一番奥の壁際に小さく縮こまった。

これからどうなるのだろう?

「ね、これは悪いことよ。こんなことしないで早くわたしを家に帰してっ」

言っても無駄と思いながらも哀願してしまう。

父親から彼女を買うからには、裕也の目的はひとつしか考えられない。

好きでもない男との行為は耐え難いけれど、この状態では愛理にはどうすることもできないのだ。


(翔志くん、助けて)

思わず声に出して呟いてしまった言葉に、裕也が強く反応した。

「てめえっ、翔志がなんだってんだよっ、あ?」

耳のそばで、大声を執拗に繰り返しながら、髪をつかんで引きずり回す。

「痛い痛い、なんでもないのっ。ただの友達。やめてっ。ねっ、ねっ、ホントなのっ」

必死の声が出た。


 「翔志にはな、とっくにおめえと付き合うなって言ってあんだよっ。それを無視ったぁ、いい根性してんじゃねえか。どこまでヤッたんだ?ああっ?」

「してない、なんにもしてない。あたし、友達がいないから、翔志くんにお願いして友達になってもらっただけ。あたしがいけないの。ね?わかって。翔志くんは関係ないの」

とっさにかばう言葉が出る。

裕也と翔志が中学時代のクラスメイトなら、裕也のこの行動は単純な嫉妬で、彼女の体を思い通りにして2人の中を裂きたいのかもしれなかった。

短絡的な裕也の考え付きそうなことだ。


 「はあぁぁ~?」

人を馬鹿にしきった突拍子もない声を出した彼が、ニタニタと嗤う。

「そ~ぉかい?じゃ、スマホ貸せ」

いきなり、グイッと手を突き出してくる。

「いやっ」

身をよじってポーチを隠したが、男の強い力で手首をわしづかみにされると、彼女の力ではそこを引っ掻くだけだ。

「へっ、ガラケーかよ。おまえ、遅れてんなぁ。ビンボー人。今から面白いもの見せてやるぜ」

侮蔑しながらヘラヘラと電話する。

(出ないで。お願い…出ないで)

必死に祈っても、こういう時はいつも神は不在なのだ。


 「あ、八十村?おれ、おれだよ。わかる?そー、おれ。あのさぁ、おまえのスケ、今、おれと一緒なんだよ。あ?そんなに驚くことでもね~だろ。おれの部屋にいるんだぜ。イヒェッ。そんでさぁ、おまえ来るか?おれんち。あ~、いや、今から多摩川の日野橋来いよ。イェッへへッ、仲間集めとく。おれが付き合うなって言ってやってんのにさ、お前は俺の顔つぶしたんだよぉ。だから、おまえの女さらったんだ。あ?証拠ぉ?じゃ、代わるワ」

突き出された携帯に愛理は飛びつく。

「翔志くん、あたしは大丈夫。だから、コイツの言うことなんか聞かないでっ。ねっ、来ないでっ。きっと取り返しのつかないことになる…コイツ、普通のおうちのヒトじゃないのよっ」

「ウゼエッ」

裕也が荒々しく彼女を蹴倒してひったくる。

「ケッ、女はおしゃべりだぜぇ。で、来るんだろぉ?来ねえと、そ~だな、この女、廻しちゃうかもよお。イヒェヒェヒェ。おれはやると言ったらやるんだぜ。でも、フヘへェ~。おめえは来ねえよな。怖いもんなぁ?おれが人数そろえて待ってんだぜ。あ~、怖い怖い。片道切符だ。わかるだろ~?この意味。来たら最後帰れね~ってコト。あ、それから愛理は日野橋には連れてかね~よ。卑怯なおまえがお巡りとつるんで来ちゃ、まじいもんなぁ。おまえが来て勝ったら、おれの部屋から女は解放してやるよ。ケケケケ」


 愛理はいまさらながらに、裕也の本性を知る気がした。

金子裕也のこの行動は嫉妬でも意趣返しでもなんでもない。

もっと陰湿で病的な快感に根ざした、他人を理不尽に虐げたいというゆがんだ欲望だ。

「来ないで。翔志くん、来ちゃダメッ。あたしは平気だからっ」

力いっぱいむしゃぶりついていた。

渾身の力を振り絞っても、もどかしいくらい非力だ。

悪魔のような腕が彼女を突き飛ばし、頬を殴り、馬乗りになって首を絞めてくる。

「シェシェシェシェ。おめえのカノ、おれの下にいるぜぇ。ヤッちゃおうかなぁ?あ?それでもおまえは逃げるんだろ?あ~、弱い弱いっ。いいか、お巡りには絶対言うな。言ったらど~なるか、わかってんよな」


               *     *


 いきなりの着信になぜかドキッとする。

こういう予感は当たるのだ。

八十村はコンビニの前にチャリを止めて対応する。

愛理からなのに、響いてきた声はどこかで聞いたような癇に障る甲高い声だ。

「なんだ、金井か?なに?は?ええっ?ざけんなよ、てめえっ。犯罪だぜ。日野橋ぃ?どこでも行くから、ホザいてねえで愛理がいるって証拠出せ、バカッ」

裕也の「代わるワ」の声に、緊迫した彼女の声が被る。

「もしもし、翔志くん、あたしは大丈夫…コイツの言うことなんか聞かないでっ。ねっ、来ないでっ」

今のところは無事らしい。

だが、金井のやることにいつまでの保証はない。

親友の小野田にもいきなり切りつけたように、突然、とんでもない行動に走るのだ。

その現実に不安と怒りが交錯する。

「ひどいめに合ったね。心配しないで。裕也もおれやきみをどうこうするほどバカじゃな…っ金井っ、愛理に手ぇだすなっ」

受話器の向こうで彼女の押し殺した悲鳴と、争う物音がする。

イェッへへという小馬鹿にした嗤いとともに、

「で、来るんだろぉ?来ねえと、そ~だな、この女、廻しちゃうかもよお。イヒェヒェヒェ。おれはやると言ったらやるんだぜ。でも、フヘへェ~。おめえは来ねえよな…」

憎々しい声が侮蔑してくる。

こういう神経の逆なでの仕方に慣れているらしく、声も言い方も胴に入っている。

「なんだとっ、金井、廻せるもんなら廻してみろっ、おれがおまえの仲間ごときを恐れると思うか?行ってやるから安心しろ。そのかわり、てめーも道連れだ。覚悟しとけっ」

怒りで声が震えた。

再び愛理が抵抗する物音と気配がして、

「シェシェシェシェ。おめえのカノ、おれの下にいるぜぇ。ヤッちゃおうかなぁ?あ?それでもおまえは逃げるんだろ?あ~、弱い弱いっ。お巡りには言うな。言ったらど~なるか…」

揶揄とも脅しともつかない声とともに、一方的に切れた。

それにしても通報を牽制するところをみると、やはり警察に知られてはやっかいなのだろう。


 ならば当然、通報すべきだ。

裕也は警察を疎ましく思っている。

その痛いところを突くのは有効な手段だ。

だが、肝心の愛理は金井裕也の手にあるのだ。

うっかり警官などが介入したが最後、裕也は狂乱して何をするかわからなくなる。

基本、裕也のような臆病弱虫はいざとなったら歯止めが利かないだけに危険だ。

おびえて錯乱し、とことん突っ走ってしまう。

最悪の事態を避けるためには言うなりになるしかない。

しだいに冷静になって行く頭が、コトの重大性とじんわりとした恐怖を醸してくる。


 親友の小野田の言葉通り、彼は手勢を集めてくるだろう。

絶対にひとりでは戦わない卑怯者だ。

獲物は模造刀・木刀・鉄パイプなどだろうが、エア・ガンで目を狙ってくるという話も聞いたことがある。

一筋縄ではいかないこういう場合、のこのこ正面から行くバカはいない。

隠密行動には日暮れ間近のこの時を利するしかない。

台風19号で損傷した日野橋の通行止めはとっくに解除されているから、橋桁を通る車の騒音も利用できる。

チャリで密かに接近し、手近なヤツから処理するのだ。

蛇は最初にアタマをつぶすに限るが、橋下の暗がりではあまり接点のなかった裕也を判別しづらいから、無差別にならざるを得ない。


 冷静に勝算をシミュレートする。

チャリで轢き倒せるのが2~3人、それで気付かれてあとは接近戦だ。

獲物は相手のものをひったくるだけで十分だから、手足を狙って叩きのめす。

こっちは殺人は避けたいのだ。

戦闘能力を失わせたり、逃げ腰にさせればそれでいい。

それでも轢き倒しと合わせても9~10人程度か。

背後を取られないために川面や橋桁を背にするようになれば、こちらの動きは制限され、相手方は肝の据わったケンカ慣れしたヤツが冷静に数を頼んでくる。

映画やドラマではないのだから、そうなった時が正念場だ。

痛いだけじゃすまなくなり、親や友達や、特に愛理を泣かせるような事態が現実的に視野に入ってくるのだ。


 (勝てないな)

ふと思う。

金井裕也はめいっぱい仲間を集めてくるだろう。

こっちに対する精一杯の脅しと、金井自身の恐怖を払拭するためにだ。

15人か、20人か?

勝てる人数ではない。

(逃げたい)

背中がゾワゾワするような悪寒と臆病風が吹きつけてくる。


 そう、やつらをまともに相手にしてはいけない。

こっちの命を危険にさらしてまで対処すべき輩ではないのだ。

裕也の自室の拉致監禁の事実と、日野橋下で凶器準備集合の計画があることを警察に通報し、後の処理は任せればいい。

そのために警察があるのではないか。

言い訳めいた考えが翔志自身を安全圏に置こうとする。


 だが、愛理は?

彼女はどうなる?

発狂した金井裕也は、彼女にどのような手段をとるだろう?

ただでは済ませないはずだ。

監禁被害者や人質救出に慣れていない警官たちが手間取るのは目に見えている。

危険すぎる。

警察に頼るなどという安易で臆病で穏便な方法は、この場合、事態を悪化させるだけだ。


 不意に胡蝶蘭の白い花が浮かんだ。

そうだ、あの日、八十村翔志は心から誓ったのだ。

『おれさぁ、なにかあったら全力で守るよ。今、決心したんだ。愛理にはお祖母ちゃんしか味方がいなかったんだ。そのお祖母ちゃんが亡くなっちゃった今、おれが守る。絶対にきみに嫌な思いや悲しい思いをさせない。だから、おれを信じて頼って。ホント、おれ、がんばるから』

その自分の声が今でも耳朶に残るのに、脆弱にも彼自身は事態から目をそらそうとしている。

想いというのは目に見えない。

心には形がないのだ。

だとしたら、それを顕すのは言葉ではなく、行動だ。

真摯で誠実で確実で、そして安心と慈愛と喜びを与える利他の実践と履行だ。

それでこそ胸を張って愛理を愛すると言えるのだ。


 彼女は今、自分がどうなるかわからない不安と恐れに精一杯立ち向かっているだろう。

口では『来ないで』と言いながら、心のどこかできっと翔志を待ちわびている。

来てくれるのでは?という淡い希望を胸に、愛理は気丈に自らを支えているに違いない。

その彼女の気持ちを裏切ってはいけないのだ。

親友の小野田の顔が目の前にちらつく。

連絡しようか?

怖気づいた弱い心が、ご都合主義の誘惑をささやく。

ひとりよりも2人のほうが心強いし、戦力も違ってくる。

だが、それはすなわち無関係な彼を争いに巻き込み、危険に陥れることになるのだ。

友人としてすべきではない。


               *     *


 空いっぱいに華やいだ夕焼けが広がっていた。

混雑する車道を巧みに縫って、夜へと移行する立川の街を多摩川に向かって下る。

街路灯で、まるでクリスマス・イルミネーションのように飾られた白い橋が、黒々とした多摩川を越えるのが見えてきた。

屈託のない父の笑いと、物柔らかな母の笑顔が浮かぶ。

(大丈夫。おれ、負けないから心配ないよ)

心でささやいて、おびえて里心のついた気持ちを戦闘態勢へと変える。

正直言って膝が震えるほど怖いのだ。

それでも身体は前へと進んでいく。

そばの市営グラウンド駐車場にはすでに乗用車3台、バイク5台が止まっている。

車1台に4~5人、2輪に1~2人というところか。

大体、予測したとおりだ。


 (やってやろうじゃないか)

ビビリはまだ完全に払拭できたわけではないが、やるしかないのだ。

影の濃い暗がりに目を慣らす。

深呼吸して逸(はや)る気持ちを抑え、肩を柔らかくしてハンドルの中心から前を見る。

忍び寄った橋のたもとの堤防からは複数の人影がウロウロするのが見下ろせる。

体育座りもけっこういるから、最初のターゲットは動きの鈍いそいつらだ。

その中に金井裕也もいれば面白いことになるのだが…。


 力いっぱい大地を蹴る。

一瞬跳ね上がったチャリは斜面を高速で飛び下る。

八十村翔志は捕食するシャチのように、逃げ散るアザラシの群れを蹂躙する。

動揺し狼狽した悲鳴と怒声。

餌食になった3人ほどが転がる中、ハンドルも車輪も軸フレームすらゆがんだチャリを素早く投げ捨てる。

その時には木刀を2本奪っていた。

手足を狙い、低く素早く動いて、同士討ちを避けたいヤツラを撹乱する。

こっちは周り中が敵だから識別の手間がない。

バラバラッと数人が逃げた。

「バカッ、なにやってんだよおっ」

裏返った声には聞き覚えがある。

「金井ぃっ、逃がさねぇぞっ」

追いすがると、裕也は引きつった荒い息を吐きながらも向き直った。

(おかしい)

警戒の勘が働いて自分の目をガードする。

途端にビシビシと無数の細かな礫(つぶて)だ。

エア・ガンで眼潰しをくらわせるというウワサは嘘ではなかったのだ。


 こっちがひるむのを見て、残り10人ほどは嵩にかかってくるから、かなり面倒だ。

しだいに川面に追い詰められる。

間合いをとり、周りに人を置かないために自ら、ひざ下程度の浅瀬に入る。

川水に足を取られる上に足元は流れで見えないから、摺り足て転倒を防ぎながらの神経を使う戦いになった。

それでも乱闘を防げるのは幸いだ。

陸上の動物の人間は本能的に夜の黒々した水を恐れ、底の見えない水中に踏み込むのを厭(いと)うからだ。

1人2人づつなら、勝算はあるのではないか?

息が切れ、身体が重くなり、汗がこめかみを伝って流れるのがわかる。

飛び散るのを見て、黒く色の付いているのを知った。

自分もかなりやられているのに初めて気づく。

ズキズキした強い痛みとジ~ンとしたしびれが身体のあちこちから襲ってきた。 


               *     *


 いつの間にか、周りがやけに静かになっていた。

夜だから相変わらず暗いが、人の気配がない。

そう言えば走り逃げる後ろ姿を見た気が…。

(そうだ…勝った。おれは勝ったんだ)

今さらのように勝利を確信できた。

高揚と安堵がひたひたと寄せる上げ潮のように全身を満たしていくのがわかる。

深い息をついて、しばし自らの栄光に酔う。

「目が覚めた?よく寝てたけど、なんか夢見てたみたいよ」

不意の声に(え?夢?)と我に帰る。

コスモスだろうか、周り一面の花畑の向こうで愛理がクスクスと笑っている。

たぶん、昭和記念公園だ。

もう、11月も4週目なのに、やわらかな小春日和の日差しにうっかり寝入ったしまったらしい。

テレかくしにちょっと笑って八十村翔志は空の彼方に目をやった。


 フッと目の前に影が差した気がして、愛理は目を上げる。

何も見えないけれど、なんとなく親しいものに見守られているような優しい安堵感に、おびえてささくれ立っていた心が落ち着く。

鍵のかかるクローゼットに閉じ込められてしはらくは、ドアを叩いて助けを呼んでみたり、鉄格子のついた明かり取りの窓に鉄アレイを叩きつけてみたりした。

鉄筋で、たぶん防音仕様の部屋はそんなことではラチが開かないのはわかっている。

それでもジッとしてはいられず、祈る気持ちで繰り返さざるを得なかった。

声が枯れ、手が真っ赤になって腫れあがり、皮膚も所々擦り切れたころ、やっと彼女は空しい努力をやめたのだ。

(大丈夫。わたしはひとりじゃないもの)

自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた言葉を、見えない誰かが肯定してくれるような気がして希望がよみがえる。

(わたしには翔志くんもいるし、警察だってきっと動いてくれる。怖がってはだめ。冷静に待つのよ)

なにかがそっと、震えるような危機感をぬぐい、物柔らかなしばしの平安をもたらしてくれる。

肩を抱かれるような親しい感覚があって、それを受け入れると不意に子供のように甘えた涙が出た。

彼女は夢見るように目を閉じて、見えない気配にしばしの間、抱(いだ)かれ続けた。


 多摩川の宇久の流れが黒々と続いていた。

水にぬれて白くなった腕はもう力を失っていたが、見開かれてまだ生き生きとした瞳は、暗い橋桁を越えてどこか遠くを見ていた。

顔は半ば水につかって、指は立ち上がろうとする姿勢のまま岸をつかんでいた。

「っちゃぁ、ラストまでイッちゃったな。ケヘッ。ここまでヤッちゃ、うちの親父でももみ消せねえ。おい、ヒロ。身代り頼むぜ」

金子裕也のだみ声に、ひとりが興奮したまま答える。

「もちっス。で、祭りのついでにあの女、廻しちまいますか?」

「イヒャヒャッ。あんまりそそるスケでもねえしなぁ。ま、のこのこツラぁ出したバカに免じてほっとくか。量刑は犯情によって重くなるしな。殺人は検察起訴確定だからおめえは少年刑務所行きだ。なら、短いほうがいいぜ」

「まぁ、自分は反省したフリなら超得意だし、人権派弁護士なんてチョロいすけどね。でも、箔さえつきゃいいんで。長いのはちょっと」

「だろ。ウヘヘッ。おまえはおれの罪被ったってことでうちの親父も恩にきるぜぇ。仲間うちじゃ英雄だ。ま、損はねえよ」

「ありやとっス」

勢い込んで頭を下げるのを、大物ぶって見下ろす。

「だが、たったひとりにこれだけ病院送りってのも締まらねえな。立川災害医療センターが満杯だろ~ぜ」

「いや、コイツ、けっこう戦い方知ってて不意打ちで来たんで。そんでも、まぁ、おとなしくさせたんで御の字ってことで」

「バカにしてはよくやったってかぁ。キヘヘヘヘ」


 車の往来もまばらになった深夜の橋下に八十村翔志はそのまま横たわっていた。

愛理はまだそれを知らず、警官が駆けつけてくるにもまだ間があった。

ヒロは金井裕也の身代わりとして自首し、刑法42条の減刑事由対象となる作戦に出て、すでにその場を去っていたからだ。

どこまでも罪の意識のない彼らはまるで遊びの延長のように、基本、性善説の日本の司法を翻弄するのだ。

翔志の命をかけた愛理への思いを、今となってはだれが知ることができるだろう?

事件のほんの表面だけを知った世間がつかの間、断ち切られた彼の未来を想い悼んだとしても、時はやがてすべてを忘れ去る。

被害者らの無念の涙を、いったいだれが乾かせるというのか?


 多くの矛盾と非情を含んだ世の中に目を閉じたまま、人は今日も生きるしかない。

その姿にも似た川は、日野橋の下を明日も変わらず流れ続けるのだろう。

湿った水の匂いを含んだ風がさりげなく吹きすぎて行った。


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日野橋の下、川は流れる 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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