63「ルーチェ様とお会いしました」②
「お気持ちは大変嬉しいのですが……俺にはあなたに会ったときの記憶がありません」
「――え?」
サムの言葉に、ルーチェは驚いたように目を丸くした。
「あなたは昔の俺のことを知っているようなのでお伝えしておきます。俺は、九歳の頃、マニオンに殺されかけたことがきっかけで記憶を失いました。そういう意味では、死んだのでしょう」
人格が入れ替わったとは言わない。そんなことを言えば、彼女が困惑するだろう。
なので、記憶を失ったと言ったほうが理解しやすいと思い、そう告げた。
実際、サムはルーチェと会った記憶を知らない。
そもそも、記憶そのものにも問題がある。おぼろげながら記憶はあるが、あくまでも他人の記憶を本かなにかで読んでいるような感覚なため、自分の記憶ではないという自覚があるのだ。
「――そんな」
「以後、俺は新しい人生を生きています。あなたの会ったことのあるサミュエル・ラインバッハではなく、今の俺はサミュエル・シャイトなのです」
「あの、では、本当にわたくしのと出会いを」
「覚えていません」
「……サミュエル様は、ラインバッハ男爵家を訪れたわたくしが、好奇心から屋敷の中を散策したせいで迷子になり、泣いているところを助けてくださったのです。涙を流すわたくしにハンカチを差し出し、優しげな笑顔であやしてくれました。それをすべて、覚えていないのですか?」
「申し訳ありません」
少女の瞳から、一筋の涙が溢れる。
「あのとき、いただいたハンカチはわたくしの宝物なのです。またお会いできる日をずっと楽しみにしていたのに……最初、サミュエル様と結婚できると知り、わたくしがどれだけ喜んだか」
「それだけ思ってくださったことに感謝します。きっと、以前のサミュエルも喜ぶでしょう」
「……マニオンが悪いのですね。あの男は、サミュエル様を押し除け、わたくしの婚約者となりました。会うたびに、横柄で気持ちの悪い言動に不快を覚えていました。サミュエル様を馬鹿にするようなことも言っていましたが、家のためだとずっと我慢していたのです。なのに、あの男のせいで、サミュエル様はわたくしとの出会いさえ忘れてしまったのですか? 許せない、許せません! あんな男がどうして、どうして、わたくしが、サミュエル様がなにをしたと言うのですか!」
ルーチェが嗚咽とともに、怒りと悲しみの込められた声を出す。
サムは、彼女を慰めることも、抱きしめることもせず、落ち着くのをじっと待つ。
(この子が慕っているのは俺じゃなくて、前のサムだ。だけど、彼はもういない。なら、ここで彼女の想いに終止符を打ってあげないといけない。前に進むために、俺たちのことなど忘れて、幸せになってほしい)
かつてのサムは、ルーチェのことをどう思っていたのだろうか、と疑問を抱く。
彼女と同じく、淡い想いを抱いていたのか、それともまだ子供だったため、そこまでの感情をいだけていなかったのか。
サムの中に残っている記憶の中に、かつてのサムの感情は残されていなかった。
「ルーチェ様、俺はあなたが慕ってくださったサミュエルではありません」
「――はい」
「ただ、あなたが以前の俺のことを思ってくださっていたことはわかっているつもりです。ですから、お伝えしたいことがあります」
「おっしゃってください」
「――お幸せになってください」
サムは心からルーチェの幸せを願い、そう告げた。
「それが、きっとあなたが出会い、慕ってくださったサミュエルも願っていることだと思います」
ルーチェの瞳から、ボロボロ涙が溢れてくる。
頬を濡らし、目を赤くする少女には伝わったはずだ。
ここで、サムとルーチェの縁が終わるということに。
「俺もあなたの幸せを心から祈っています」
これが正解だったかわからない。
いや、きっと正解などないのだろう。
この答えた、良い選択だったかどうかわかるのは、彼女が幸せになるか不幸せになるかで判断できると思う。
できることなら、新しい一歩を踏み出し、幸せになってくれることを願う。
「……ありがとう、ございます」
ルーチェはそれ以上言わなかった。
ただ、サムに顔を見せないように、腰を折って頭を深く下げるだけ。
彼女の感謝の言葉に、どれだけの気持ちが込められているのか、想像もできなかった。
「それでは、俺はこれで失礼します」
返事はなかった。
だが、背を向けたサムの背後から、嗚咽が聞こえてきた。
それでも振り返ることなく、足を進めていく。
サムは、ルーチェの幸せを願いながら、中庭を後にしたのだった。
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