第5話 鬼の〇〇

 ——バシュンッ! 


「ひぃっ!」


 鬼塚おにづかの放った音をも置き去りにする一撃は、俺の右頬をかすめる。

 張られたネットの向こうでは、鬼塚がトントンとラケットで自らの肩のりをほぐしていた。


「何やってんのよ! そろそろちゃんと返しなさい!」

「待て鬼塚! 銃はしまえ! 公平にやろう? な?」


 懇願こんがんするかのようにそう叫ぶと、『この陰キャ何言ってんの?』、みたいな露骨に嫌そうな顔をされた。

 もちろん比喩だ。実際に鬼塚が俺に向けていかついデザートイーグルの引き金を引いているわけではない。がしかしこの一撃だ。当人は先ほどから涼しい顔色のままこれを『サーブ』と称しているが、それこそ比喩なのではないかと疑いたくなるレベル。一説によると、鬼というのは人知の域を遥かに超えた身体能力をその身に秘めているのだとか。説立証かな?


「頼むからもっと優しくやってくれ! ほら、こんなふうに」

 言いながら、俺は至って普通の人間レベルのサーブを打ち返す。


「こんなのちっとも盛り上がらないじゃない、の!」


 ——バシュゥンッ!


「ひぃぃ!」

「もう、またぁ?」


 なぜ一往復目でジャンピングスマッシュを放った。いや確かにそこそこ高く上げたけど。俺はお前のスマッシュの練習に付き合っているわけじゃないぞ。放課後のデートならいくらでも付き合うんだが。


「お前には少しはラリーを続けようという気が無いのか! 人間の素人相手にいちいち本気を出すな! 死人が出るぞ!」


「あんたさっきから何言ってんの? いいから早く返しなさい!」


 ちくしょう鬼め、しかしそういう顔も可愛いからなんとも言えんなぁ。あと声も可愛いし。ちょっと汗かいてるのえっちだし。


「ったく、今度こそ優しくだぞ! 頼むぞ!」

 俺は再び、軽めのサーブで返す。


 しかし案の定、鬼塚は軽めに助走をつけたかと思うと、体育館の床をバシンと豪快に蹴り上げて。


 ——バシュゥンッ‼

「ひぃいいいい!」


 今日一番の豪快なジャンピングスマッシュ。顔面に喰らったらマジで頭蓋のどこかが陥没かんぼつしそうだな。

 ということで、やはり鬼に人語は通じないようだった。


 こうなれば俺も、俺なりのやり方をとらせてもらうとしよう。


「……なんだ鬼塚、その程度か!」

 突然の挑発に、赤鬼の双眸はギラリと光る。額の角は、まだ現れない。


「はぁ? あんたろくに取れてないくせに何言ってんの?」


 ——取れてない? それは違うぞ鬼塚。つーかそもそもお前取らせる気毛頭ないよね。


「アホかお前、あんなの返せるわけねーだろ。だからルール変更」


「ちょ、は? ほんとさっきから何言ってんのあんた。気持ち悪いし意味わかんないんだけど」


 気持ち悪いは言い過ぎだよね。


「この授業終わるまでに俺に一発でもスマッシュ当てたら、あとでジュース奢ってやるよ」


「いやいらないんだけど」

「…………。」


 急募、楽しいバドミントンのやり方。


「ま、まぁ聞け鬼塚よ」

「その言い方うざい」

「…………。」


 急募、同級生との会話の仕方。


「と、とにかくだ! もしも俺に一発も当てられないまま授業が終わったら、どうなるかわかるか?」


「……ちょ! 何その目、キッモ! 気持ち悪い!」


 ——説明しよう! 女子が一度『キモイ』と言った後の『気持ち悪い』はかなりガチのやつなのである! 

 とまぁそれは置いておいて、おっと涙が。

 コートの上では泣いちゃだめ。長男だからね。


「き、昨日のことばらすからな! そのほかにも、風紀委員なのに毎日猫の餌をバッグに……」


「うわわわわわわっ! ちょ、ちょっと! なななななんで知ってんのよ! っていうか昨日も思ったけどあんた一体どっから見てたわけ⁉ ほんっっっっっとに気持ち悪いんですけど! 最悪! 最低! 変態! 死ね! ゴミ! ゴミ虫!」


 誰か! 救急車を呼んでくれ! 二年C組の影山樹が出血多量でショック死寸前だ! 事態は一刻を争う!


「ゴミとゴミ虫を二回続けて言うな! 傷つくだろうが! お前の血は何色だ!」

 叫びながら、俺はふわりと高めのサーブを放つ。


 ここまで俺の算段通り。奴はまんまと挑発に乗って、今まさに頭上にあるシャトル一点に意識を集中させている。


 細く白い首筋は露になり、少し体をらせてラケットを振りかぶる。

 先ほどから見せるこの体勢に、俺、影山樹かげやまいつきは気づいていたのだ。

 目を細めて、俺は意識の全てを鬼塚の強調された胸元に注ぐ……これぞ全〇中っ‼

 鬼塚が力強く床を蹴り上げると、その胸元はさらに強調される……!

 よって、それはしっかりと浮き彫りになるのだ!

 あれは——花柄のレース‼ そしてその下……んんん見えたぁ‼ 


「はっ!」


 ——バシュゥゥゥゥゥン‼

 ドリルのような回転で空を切りながら、鬼塚の放ったシャトルが一閃。


「うごぉお‼」

 俺の腹部にジャストミート。マジで救急車を呼んでほしい。


「ぷっ、ばっかみたい! あんなに啖呵切っといてまんまと当たってるじゃない! いい気味ね!」


 ちょ、ちょっと笑ってる! 鬼塚がちょっと笑ってる! 可愛い!


「……ニヤニヤしながら床を転がるのやめてもらえる? 毛虫みたいで気持ち悪い」


 こうして床に這いつくばってその顔を見上げてしまうと、なんというか、あれだな。新しい扉が開きそうだな。人はそれを始祖の楽園エデンと呼ぶのだけれど。開眼かいがんともいうだろうか。


 がしかし、もとより俺は鬼塚のスマッシュを避けるつもりなど毛頭なかったのだから、この痛みと快楽は想定範囲内だ……後者は聞かなかったことにしてもらえると助かる。


 そう、俺の真の狙いは鬼塚の身体にあった。

 痛みを恐れて避けることに専念してしまうと、かろうじてブラの柄は何となく捉えられてももう一つの方にはなかなか届かなかった。

 なので短気な鬼塚をあらかじめ思いっきり煽っておき、スマッシュを打つことだけに意識を集中させ、俺もいさぎよく被弾を喰らうことでその大罪に手を伸ばすことが可能となるのだ。


 朦朧もうろうとする意識の中立ち上がり、俺は鬼塚の傍まで歩み寄る。


「な、なに? そんなに痛かったの?」


 ——少し気持ちよかった。

 そうしてぼそり、吐き捨てるように俺は告げた。


「——鬼塚、可愛いおへそしてるな」


 すると鬼塚の可愛い顔は耳の先まで一気に赤く染まり、目尻にうっすらと涙を溜めて俺に殴りかかってくる。あろうことかラケットで。


「……ささ、最っ低! 本気で死ね!」


 最後の力を振り絞って、俺は全速力で体育館を駆ける。

 本物の鬼と交わす鬼ごっこというものは、生きた心地がしないものだ。

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