第4話 『はい、二人組作って~』


 鬼塚解体事件おにづかかいたいじけん(正しくは廃ビル解体工事に鬼塚と猫巻き込まれ事件)の翌朝。

 意気揚々いきようようと教室のドアを開け、決戦の火蓋が切って落とされた。


「おはよう鬼塚!」


 昨日一ダウン取っている俺はこの通り、いつもより少し強めなジャブを放ってみせる。どうだ鬼塚、今のお前にはかわせるか? 

 少し間を置いて、鬼塚は読んでいた文庫本をパタリと閉じると、ちらりと俺を見上げた。

 長い睫毛まつげに縁どられたツリ目がちな双眸そうぼうは宝石玉のように美しく、澄んでいる。息をみ、俺はいつかの夕焼け空を幻視する。

 少し肩に力が入ったような印象が見受けられたが、その声音は柔らかいもので。


「——お、おはよう……影山君」


 寂寥せきりょうに満ちた悠久の暗夜には、一筋の光が差し込んだ。


 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‼


 ついに! ついにだ! 


 俺はついに! あの鬼塚に『おはよう』と言わせたぞ!

 なんだろうこの感覚。あれ、おかしいな、涙で前が見えないよ。


 俺はきっと、この喜びを噛みしめるためだけにこの世に生を受けたのかもしれない。


 お父さん、お母さん、産んでくれてありがとう。出会ってくれてありがとう。

 ——俺は今日、一人の鬼の子に『おはよう』を教えたよ。


「あの、ずっとそこにいられると迷惑なんだけど。早く自分の席に着いたら……?」


 ドーパミンだくだくで大歓喜していると、鬼塚のそんな冷淡な口調が、氷点下の冷気を纏った魔の一矢の如く飛んでくる。


「へ? あ、おう。今日も頑張ろうな」

「……? そうね」


 鬼塚はぽつり、そう小さく呟いて再び文庫本を手に取る。

 そして俺は、挫けない。


「それ、いっつも何読んでんの?」


 鬼塚が持つ文庫本を指さしながら、俺は訊く。


「——別になんでもいいじゃない」


 答えてはくれるが、赤面はしない。

 心無しかさっきよりも、超絶めちゃくちゃ可愛い表情がめちゃくちゃ可愛い表情へと変わっている気がする。え? 変わってないじゃんって? いやいや、百億点が九十九億点に下がるのはかなり痛いだろ。ちなみに放課後のあの笑顔は七千億点ぐらいだろうか。要するに鬼塚は何をしても可愛いし奇麗だってこと。これ、そのまんま言ったらデレるかな。いや厳しいか。昨日初めて人間の優しさに触れた鬼の子は、たった今『おはよう』を覚えたばかりだもんな。次に教えるのは何だろう、こんにちは? おやすみ? いただきます? 


 ——いやはや果てしないな。気が遠くなるほどに先が長い。


 ひとまず今日はここで引き上げるとしよう。朝からいいスパーリングができて嬉しい限り。一日のスタートが好調だと全てにおいて上手くいく気がする。

 俺はそのまま自分の席に着き、以下略。


   ***


 そうして迎えた、昼休み前の体育の時間。


 この世で苦手なものランキングトップ三のまさに三位、熱血体育会系教師(元球児、現在野球部顧問)の魔の一言は唐突に放たれた。


『はい、じゃあ二人組作ってー!』


 ——俺毎回思うんだけど、これおかしくない? 生徒の誰もが気兼ねなくクラス内で二人組を作れる程度に良好な人間関係及び学生生活を築いているのは当然だ、という固定観念かんねんの押し付けにも程がある。俺からしたら果てしなく迷惑だ。その一言さえなければ俺みたいなやつが往々おうおうに生き恥を晒すような事態にもおちいらなくて済むというのに。

 そうだな、仮に俺が教職をやるとしたら、こういった場面では生徒たちに選択肢を提供したい。例を挙げるとすれば、『複数人でやりたい人は適当にグループを作るのもよし、一人が良い場合は一人でもよし、体調の悪いものは無理をせずに、本日も自由に体を動かしてくれ。以上!(ここでタバコを取り出しながら外に出る)』みたいな感じになるだろう。


 なんて一人妄想にふけっていたが、俺がいまするべきことは避難一択。

 今日の理由は何にしようかな。お腹痛い、頭痛い、うんちしたい、なんでもいいか。というかうんちしたいとお腹痛いは一緒か。一緒だよな?


「……影山君、ペアいないでしょ?」


 不意にそんな失礼極まりない、最早罵倒とも言えそうな発言が耳について、後ろを振り返る。他人に言われるとむかつくのは人間の真理と言えよう。


「あれ、鬼塚じゃん」


 そこにいたのは鬼の風紀委員長赤鬼——鬼塚紅音おにづかあかね。つまるところ、拙者せっしゃの推しである。


「ペア、いないでしょ?」


 ——二回言うな二回。泣くぞ。喚くぞ。


「いないけど」


 悲しきかな、反論はできないのが現実であり現状だ。しかしあれだ、急に何の用だ。奇麗な手足だな。あと、体育着だとその、いつもよりけしからんね。どこがとはえて言わないが。


「じゃ、じゃあその……一緒にやらない? これ」


 なんだその、『今日一杯どうかね』みたいなジェスチャーは。普通に言えよ。『かっこよくて優しいいつきくんとバドミントンで無限ラリーしたい』って。このラケットと思い出は墓場まで持っていくって。


 がしかし、ここでひとつ疑問が生じる。


「あれ、鬼塚っていつも一緒にやってる人いるんじゃないのか?」


 そう、俺が頻繁に仮病を使っている裏では、基本鬼塚は懸命に授業に励んでいるわけで、いつもは俺以外の誰かとこのペア強要イベントを乗り切っているはずなのだ。


 ここで一つ、掃除当番の件を思い出していただきたい。大体皆、ひと月に一度のペースで掃除当番が回ってくる。要するに一クラスの人数はどこもおおよそ三十人弱ということになる。

 ちなみにうちのクラスは三十一人。俺がいつもはったりをかますことにより、このペアイベントは奇麗に十五組のペアに分裂することができるのだ。

 いぶかるような眼差しで立ち尽くす俺に、鬼塚はその理由を説明してくれた。


HRホームルームの時聞いてなかったの? 今日一人風邪で休んでるじゃない。だから影山君がいつもみたいにサボったら私が暇になるのよ」


「なるほど……。ってかサボってないから」


 サボってるけどな。

 にしても、そうか。そういうことか。ならば仕方あるまい。それにこの状況、願ったり叶ったりだろう。今こそ一気に距離を詰めて人類の大躍進を飾るときだ。


「じゃああっちのコート取ってるから、早くラケットとか持って来なさいよ」


「お、おう」


 とりあえずと、俺はやや急ぎ足で倉庫にラケットを取りに向かった。

 そういえば体育館倉庫に入るの、これが初めてだな。




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