第三十五話 何者か、問う
体育館中に広がる、紫色の煙。それを見た悪魔たちは直ちに後退を始めて絶対に近付こうとはしない。それを好機とばかりに身体中に発疹を浮かばせた青白い顔で迫る死体のような者たちと、雄叫びを上げながら前進する盗賊。
【パンドラの箱に封じられるのは、どれも世界を殺すための悪ばかり。パンドラ神を下ろした人間とやらは今世でもそれに多くの悪を封じてきたらしいね】
チャリオットの上で寝転がりながら、前線を見守るベリアル。たまに襲い掛かる災厄の一部を指一本動かすだけで、その身を粉砕させる実力者であるベリアルは……その作業と化した流れが大層退屈らしく俺たちに話し掛けたり会話もしてくれるようになった。
『すみません、ベリアル……様? あの紫色の煙はなんですか』
【ああ。あれ? あれは毒。世の中に流れ落ちた人災による毒の数々。
お前たちも聞いたことくらいあるでしょ。井戸に毒を投げて人を殺したり、川に毒を流して命を穢すとか。そういう悪意ある猛毒がああして形になってるの、勿論吸ったら死ぬかそれに近いことになるんじゃない?】
パンドラ神が持つ、パンドラの破壺から溢れ出した災厄の数々。それらに阻まれてソロモン72柱の精鋭たちは中々本命であるモレク神に辿り着けずにいた。
後退を繰り返す中、戦況が動いたのはある悪魔たちが前に出た時だった。周りの悪魔たちが彼らを見て騒ぎ出し、歓声を上げる。
【おー。こりゃ勝ったね】
【流石、アタクシたちを使役する方。よく特性を覚えたものです】
黒一色を纏うライオンに乗り、その上に天使と見紛うような男性の悪魔を従えたたゆたが前に出たのだ。最前線を駆けるライオンがあらゆるビーストをすり抜けて、目的の場に向けて颯爽と走るすぐ後ろで灰色の翼を持つ悪魔が弓矢を使って邪魔なビーストのみを倒していく。
たゆたが灰色の翼を持つ悪魔に指示を出すと、それに右手で丸を作り盗賊たちの方に一直線。
『おい、たゆたの前っ……!』
千之助が指差す、たゆたの前を覆い尽くす紫色の煙……猛毒。しかしそれを前にしたたゆたは、ポーチから取り出した何かを投げ付けたのだ。
クルクルと回転しながら毒の煙へと投げられたのは、よく理科の授業で見た試験管だった。封をされたそれに向かって、黒いライオンが咆哮を一つ上げればあまりの威力に試験管は割れて中身が飛び散った……黄金の液体を受けた煙は、まるで幻覚だったのかと思わせるほど呆気なく消えた。
【はっ?】
これにはベリアルも驚きの声を上げて身を起こす。その時、少し前まで前線よりも少し後ろでたゆたの側に仕えていた者たちが嬉しそうに歓声を上げていたのだ。
それを見たフォラスがなるほど、と興味深そうに深く唸りながら答えを得たらしい。
そして、毒の煙を抜けたたゆたと黒いライオンは再び駆け出すと更に前進する。彼らが次に目的としていたのは、疫病を宿した朽ちた人間たちだった。全身の皮膚を
【我が名はバルバス。序列5を背負う我が名は、バルバスである。
疫病の始祖たる者たちよ。我がバルバスの主人が安らかな眠りを許した。眠りを許す。
“
バルバスの足元から展開される黒い魔法陣が広がり、疫病たちの元へ届くと黒い光が次々と疫病たちを包んでいく。それが全身に至ると、光は再び魔法陣に戻るように頭からから足元へと隈なく移動してから消えた。
黒い光に包まれた後に残ったのは、もう何にも侵されていない人の姿をした者たちだった。彼らは暫く呆然としていたのに、自分たちの変化に気付くと元通りの自身の姿に誰もが言葉もなくただ……信じられないように何度も自分の体を見つめていたが、それを終えるとなんとも……安心したような顔を浮かべて消滅していった。
【毒は、恐らく……序列67のアムドゥシアスのユニコーンの角を解毒薬として何体かが錬金術で生み出したのでしょうか。あれの頭部はユニコーンです。ユニコーンの角は万能の解毒薬となりますから。音楽好きな方ですから、その辺りの対価と引き換えに角を譲ったのでしょう】
【角なんかまた生えてくるのに、チャッカリした奴だよねー】
大袈裟に肩を落とすハルファスは、鳩の姿にも関わらず表情がわかるほどの動きをしている。やれやれと言いながらハヤブサの短髪を気に入ったらしい彼は、暫くそこを居所と決めたらしい。
『では、あの黒いライオンも病気に関わる悪魔なのか』
【ご名答〜。バルバス君は、疫病を起こす力と治す力の両方を持つ悪魔さ。他にも電子系とかも強いよ】
羽をパタパタと動かすハルファスから落ちる羽を無表情で払うハヤブサ。鼻の上に落ちたそれのせいでくしゃみを放つ彼を見て、ハルファスは可笑しそうに体を揺らして笑う。
【そして、アイツが仕上げってわけだ】
気付けば、既に戦況が大きく傾いていた。たゆたと別れた灰色の翼を持つ悪魔は盗賊たちの頭上でクルクルと旋回を始めていたのだ。それはただの旋回ではない、彼による術が発動していた。
黒い長髪を揺らしながら、なんとお尻にウサギのようなフサフサの丸い尻尾を持った悪魔は楽しそうに歌う。
【たゆたくーん! こちらも完了したよー。序列6を授かりし、このヴァレフールが君の願いを叶えたよ】
長身の、いい歳していそうな大人の男でありながら両手を振って足もバタつかせながら可愛こぶって愛想を振り撒く。
普通ならば、大変痛い大人だが……如何せん、顔が良いイケメンだから不思議と似合っている。しかし周りの悪魔たちも思うところはあるのかあらゆるところから野次や剣まで飛んでくる始末だ。
【はー? 外野煩いよ、脅威の一つをアッサリと丸め込んだこのヴァレフールに敬意を示したまえ】
ふふん、と胸を張るヴァレフールの下にいた盗賊たちは……まるで殺意をどこかに置いてきたように虚空を見つめたまま足を止めている。やがてバタバタと倒れる彼らを、ヴァレフールは満足げに見てから再び宙を飛び始める。
【ヴァレフール……あんな巫山戯た奴だけど、あれには窃盗の
【ですが。その屑の働きで、正念場を迎えられます】
ヴァレフールが機嫌良くたゆたの元まで戻ると、その身に抱きついてそのままバルバスに乗せて自分もその後ろに乗る。駆け出したバルバスの背でたゆたを支えながら、彼は高らかに叫ぶ。
【さぁ!! 毒を制し、疫病を鎮まらせ、盗む者に和解をもたらせば文句はないね!
我こそはと奮起する者たち、見せ付けてやりなよ! 我々の最後の主人とこの戦いを見る人間たちに! ソロモン72柱の恐怖を、どうしようもない強さを!!】
賛同の声が、際限なく上がる。
間違いなく歴史に残るような戦いに、体が慄える。カタカタと揺れる腕を押さえ付けても胸の高鳴りはどうしようもなくて。この瞬間を見ていることが、夢なのか現実なのかさえもわからなくなるような。
【心して、刮目しなさい。あそこにいる人間はただの人だった。悪魔や邪悪なる存在を束ねる人の子は、確かに血筋や器に恵まれた人間でもあった。
しかし、違うのです。アタクシたちがどうしても力を貸したくなったのは、あの人間の果てしない欲望の声を聞いたからです】
【綺麗事ばっかりだったよ。仲間を助けたいとか、死なせたくないだとかねー。
でも。一番刺さったのはさ、あれだよね……“これ以上ここで死なせるのは、許せない”なんてさー。そりゃそうだなーって共感したのが運の尽きって感じかね】
訳の分からない邪神と、その他のどうしようもない者たちの思惑によって俺たちの日常は突如として奪われた。奪われたのは、命でもあった。
共に逆境に挑み、手と手を取り合って歩み出したのに結局は俺たちが生きているせいでこの不幸を呼び出した。絶望して、諦めて、一度は終わった。
その絶望を覆して、何度も何度も挫折して倒れながらも……立ち上がった仲間がいる。どうしようもない運命を壊すために、二度目を手にしてもう一度共に歩き始めた。仲間を増やし、また傷付き、それでもと。
手を伸ばした彼女の手を、悪魔たちが取ったのだ。
【……忌々しい悪魔共。何故、悪魔がここまで協力など……随分と仲が良いことで】
【貴様のお陰だ!! ソロモン72柱である我らも驚いているとも、これほどの共闘は過去にも例がないからな!!】
モレク神に猛進するモラクスを、モレク神の像の手が雁字搦めに拘束する。黄金の剣を構えるモレク神に、ビーストの間から滑り込んで来たたゆたが罪花を構えて真っ直ぐと突き出した。それを回避するためにモレク神が退けば、その隙をライムが逃すことなくステッキを向けてモラクスの拘束を燃やして外す。
ソロモン72柱によってパンドラの破壺から溢れたビーストも徐々に数を減らしていき、一気にこちらが優勢になる。
【此れなる野望をっ……邪魔、するなッ!!】
『……あなたには、涙なんて一生得られないよ。可笑しいね。悪魔でも涙を知っているのに、あなたにはないなんて』
兄弟と慕う人間を失いかけて、涙した悪魔のライム。
自身とは別の存在に混合されて力を奪われ、挑むことすら許されずに利用され涙した悪魔のモラクス。
『あなたには、理解すら出来ない』
【——ッ、黙れ……
知ったような言葉を吐くな!! 人間風情が!!】
刹那。
激昂したモレク神によって、黄金の剣に炎が纏われてそれがたゆたに振るわれた。それを避けようとしたたゆただが、その様子が可笑しい。見れば彼女の足に絡まるのは……緑に輝く拘束具。
あれが、エルピス……!?
『馬鹿な!? まさか、エルピスまでも操れるのか!』
微ちゃんの、信じられないとばかりの表情に他の二人も動揺を隠せずに思わず目を覆う。
一気に周りの悪魔たちがたゆたとモレク神に手を伸ばす……そして。
『ったく……
生徒の力を、我が物面で利用しやがって。ふざけた邪神じゃねーかよ』
遥か上空から降って来た火黒先生が、その右足に炎を纏ってたゆたに迫る剣を蹴り上げたのだ。心なしか、今までよりも炎の色が変化したような気がする……前は純粋な炎だったのに、今彼の右足に宿るのは縁が白い炎……かと思いきや、スッと白い炎がその足から離れてまるで人魂のように浮遊しているのだ。
【兄弟っ……!】
エルピスによってバランスを崩すたゆたを、すぐにライムが抱え上げる。
【アミィ……貴方でしたか。感謝します】
ライムとたゆたの側に寄る炎は、まるで気にするなとばかりに大きく膨れ上がると再び火黒先生の元に移動した。
【召喚者。アミィ、序列58。炎の悪魔。よろしく。
人間。使える。アミィ。使え】
炎の悪魔と、炎に耐性のある火黒先生。どうやらお互いに相性が良いらしくアミィが力を貸しているらしい。しかしそこは火黒先生、悪魔に借りを作るのが嫌なのか顔は大変不服そうだが威力が申し分なかったせいか黙ってアミィを受け入れる。
そんな彼らを見て、誰よりも驚愕するのは……モレク神だった。
【何故。
悪魔と、人間が……。何故。関わり合う? 何故。結び付く? 何故。
何故。何故だ……?】
動揺を隠せないモレク神に、構わず攻撃は続けられる。モラクスが大刀を振り、避けたところで火黒先生がアミィの炎を纏って足技を繰り出す。ライムが魔術でサポートをし、白呪の圧倒的な力で包囲網とする。
【認めない。
認めるものか。まだ、答えは……答えを、得るまでは!! それまで、あの国に足を向けるわけにはいかない!!】
【我が主人の望みのまま、死ぬが良い! 我が半身よ!!】
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