第三十四話 開戦
初めに動きを見せたのは、モレク神だった。両手に抱えた黒い壺。それは先程まで様々な攻撃をも吸い込む不思議なものだった。七十二もの悪魔を前にしても少しも慌てる様子のない邪神……むしろ、その緩やかな動きからは余裕すら窺える。
ステージの上で、俺たちを小馬鹿にするように小さく嗤うモレク神の姿に麗君が声を上げる。
『モレク神が抱える壺は……匣重先輩が持っていたものであるか?』
『……確かに、似ている。しかし先輩は自身の戦闘スタイルを見せることを嫌っていたからな……我はあの壺をよく見たことがない』
微ちゃんが最後に勝命君に壺について聞けば麗君の背後にいた彼が恐る恐るといった様子でモレク神の持つ壺を見る。彼も似ている、と発言してそれを聞いた麗君が暫く思案した後で赤いハンマーを取り出す。
『かなり良くない戦況に変わる危険がある。全員、集まってくれないか。一瞬で全てが終わる危険すらある』
『何よ!? これから更に、一体何が始まるっていうの!』
きぐねを筆頭にした、三組のメンバーもよくわからないまま麗君たちの側に固まる。文句を言いつつも、きちんとすぐ言いつけを守る辺り、俺たちも学習出来ているらしい。
『
匣重先輩は、パンドラ神を宿す者。パンドラの箱と言えばわかるだろうか。世界に災厄をもたらす箱と共に送られた、造られた神である……製作者はヘパイストスであるがな。
問題は、匣重先輩の武器である“パンドラの
未だに嗤う邪神が、壺から手を離す。支えるものが失われた壺は重力に従って素直にそのまま落下する。……それは地に陶器である身を保てるはずもなく、粉々になって壊れてしまった。
『……そして、壺からエルピスさえも出てしまえば二度と壺にビーストを封じることは出来なくなる。
それだけではない、これまで匣重先輩が世界の災厄たると判断されたありとあらゆるものが』
粉々になった壺から、ビーストの群勢が溢れては満ちていき、更には霧状のよくわからない煙が体育館に広がり始める。それだけではない、まるで何か病気に感染したような身体中に紫色の発疹が浮き出た人間……更には目に狂気を秘めたまま進撃する、盗賊団のような輩。
体育館は一瞬にして、世界の災厄を一箇所に押し込められたような空間と化した。
『こうして、目を覚ましてしまうのである』
たゆたの号令を合図に、ソロモン72柱が出撃を開始する。モラクスを筆頭にした前衛が前に出て魔術やサポート重視のものはたゆたの元で指示を仰ぐ。防衛に適したものたちが協力してすぐに災厄を防ぐための防壁を生み出す。
ライムからそれぞれの特性、能力を聞いては配置を変えて召喚者として常にその存在を遺憾無く発揮した。また、彼らも長い時を生きた歴戦の戦士や王、悪魔に魔神たちである。言われなくとも己に出来ることはやり尽くし、未だ幼い召喚者に積極的に声を掛けるものも多かった。
これは、彼らがそこまでして勝ちたい戦いなんだ。
【おっとっと。キミィ、危ないよー】
ハルファスの気の抜けた忠告に慌てて背後を見れば、ビーストに混じってモレク神の像が長い手を伸ばしてこちらに迫っていた。
避けたら、誰かにっ……!
【アタクシたちから目を離すだなんて、失礼な連中ですね】
フォラスが間に入り、拳を一振りするだけで像は崩れ去る。まさかの物理による一撃に唖然としていると、フォラスは右手に何事か呟くとそれを俺たちの足元に振り撒いた。小さな石のようなものが散りばり、それらは黒い光を淡く光らせる。
【オニキスです。古来より魔除けの石とされてきた石ですよ、アタクシたちレベルの魔は祓えませんがね】
『ありがとう、フォラス……助かった』
クスクスと巨体を揺らすフォラスにお礼を言いながら、俺たちはオニキスに守られながら戦いを見守った。どうやらフォラスとハルファスは俺たちの守護を任されているのか、周囲を固めて敵の攻撃を通さずにいる。
三人には、そんな悪魔たちが異質に見えたらしく暫くは自分たちの武器を持って戦闘態勢を解くことなくいた。しかし二人の悪魔が自分たちを守る様子と、全く自分たちの出番がないことから困惑を隠せずにいる。
【あららー? なーんか不穏な気配しちゃってる。応援呼ぶわな】
【……そうですね、前衛から何体か呼び戻した方が良さそうです】
ハルファスとフォラスが尻込みするのは、背後から前進を進めてきた……モレク神の出した像の中で最大の、巨像。歩みは遅かったものの、それは遂に俺たちの元に辿り着いたのだ。溢れるビーストや疫病の数々を倒してモレク神に迫る前衛を呼ぶため、ハルファスが鳩の姿になった時。
体育館の温度が、更に上がったのだ。
【必要ない】
青い炎を纏う、チャリオットの上に立つ美青年。車体を引く馬は首が無く、首の代わりに炎を出している不気味な生き物だ。
紫色の短髪を触り、憂いを秘めた美しい仕草をする青年は刺すように冷たい声を発して青い目を向ける。
【あれはボクが壊す。お前たちはそこから離れないように】
チャリオットから降り立ち、黒を基調としたナポレオンコートを翻しポケットに手を入れたまま巨像の前に立つ。
【誰ですか、よりにもよって彼の方を連れて来たのは。あんな悪の中の悪みたいな方、むしろよく来て下さいましたね】
【いやだって、彼だって72柱だし、いても不思議じゃないでしょ? すっごいレアな気がするけどね、オジサン】
黒いハイヒールをコツリ、と鳴らして彼は眼前の巨像を忌々しげに睨み付ける。フワリと揺れる髪とコートが元の位置に戻る頃にはすでに動き始めていた。
戦いと言う名の、蹂躙。
【モレク神だかなんだか知らないけど、本当に苛つくよ。このボクが。ただで。働かなくちゃいけないだなんて。
召喚者が違ってたら、真っ先に殺してたのに。ああ。苛々する。
ねぇ。
ねぇ?
なに、ボクの前に許可なく立ってるわけ。見下ろして許されるとでも思ってるのかな。気持ち悪くてセンスの欠片だって光らないデザイン。本当……苛々する】
巨像から、青年を飲み込むように炎が漏れて滝のようにその身に迫るが……青年が再度ヒールを鳴らせば足元から青い炎が出現し、あっという間に天に向かって放たれる。
【無礼者。
ボクの名はベリアル。序列68の、最も美しい悪魔は、このボクだよ】
ベリアルがポケットから両手を出せば、両腕に刻まれた刺青が青く輝く。それが強く光れば光るほど、彼の足元の炎もより強く燃え広がる。始終不機嫌な顔をしたベリアルは、赤い炎を忌々しげに見ると開いた両手の掌をグッと握りしめた。
途端、赤い炎に彼の青い炎がぶつかっては激しい衝突を始める。赤い炎と、青い炎が譲らずに押し合う中で巨像の両手がベリアルへと伸びる。
【二度も言わせるなよ、ガラクタ】
二つの炎の拮抗は、間もなく崩壊した。ベリアルの青い炎が巨像の腹から出た赤い炎を全て飲み込んで更に炎の純度を上げて、そのまま巨像の全てに青い炎が走る。
透明に近い、透けるような儚さを持ちながらも決して消えることのない炎はベリアルに迫る両手をも燃やし尽くし、もがき苦しむように暴れるが……それを眺めるベリアルは、どこまでも無表情のまま退屈そうに炎に包まれた巨像を見ていた。
【ボクを見下ろすなんて、許されないよ。消滅だけで済むんだから感謝してほしいくらいだ】
巨像が崩壊を始める。
まるで消えることへの不満を叫ぶように、耳障りな悲鳴を上げながら炎によって崩れ落ちる身を修復しようと手を尽くすが、その手すらもなくなってはどうしようもない。
背後に敵なし。
巨像を葬ったベリアルは、近付くチャリオットを無視して自らの足で俺たちの元まで歩いて来た。近くで見ればその美しい容姿にあてられてしまいそうになるが、それ以上に恐ろしい存在だとわかっているからみんながその目に入らぬようにと固まる。
そんな俺たちを守るように、ハルファスとフォラスが前に出てベリアルに話しかけて行った。
【ベリアル君、助かったよー。オジサンたち後衛寄りだからさ、ヒヤヒヤしちゃった】
お疲れ様でした、と声を掛けるフォラスやお礼を述べるハルファスに応えることなくベリアルはポケットに手を入れたまま前線へと目を向けていた。
【ボクってさ】
こちらを一切見ることなく、小さな声で……
【こんなに強くて美しいのに。なんであの召喚者はボクを使わないんだろうね】
そう呟いた。
【いや、だってベリアル君に命令とかしたら絶対に面倒臭い対価要求するじゃん】
キッとハルファスを睨み付けると、その足元からゆらゆらと青い炎を灯し始めた。悲鳴を上げる俺たちに混じって何故かハルファスまで俺たちの輪に入って悲鳴を上げる。
こっち来んなよ!!
【羽降たゆた様は、ベリアル様にこの方々を守るよう願われたのではないのですか?
いえね。あまりに迅速な援軍だったのでアタクシたち同様に守護を任されたのかと】
早とちりでしたかな、と笑うフォラスの言葉にベリアルが不機嫌そうに眉間に皺を寄せながらもそうだよ、と肯定する。
【でしたら納得です。アタクシたちは後衛、サポート重視の魔術を得意とします。戦闘経験豊富で絶対の力を持つベリアル様のような方がいてこそこのような戦場では本領を発揮出来るというもの。
ご存知ですか? どうやらこちらの人間たちは、アタクシたちの主人たる羽降たゆた様のとても大切な友人たちだそうで。絶対に死守するようにと厳命されるほどですよ】
フォラスとハルファスによって、ベリアルの目についた俺たち。彼はまるで今やっと俺たちを視界に入れたような顔でふーん、と興味なさそうに返事をした後にハッとしたようにフォラスを見ると、フォラスもニッコリと笑って頷く。
【そうです! つまり、この者たちの守護こそがこの地で最も重要な任務! 大切な存在を任せられるのは、それに見合う戦力! これはもしかしたら、前線で敵を葬るよりも余程重い責務かと……アタクシ、そう思うのですよ、ええ】
【へ、へー……そんなにあの召喚者、そこの人間たちが大事なんだ。……後衛で守護をしてほしいなんて言われたものだから、あまり話を聞いていなかったから知らなかったよ】
チラチラとこちらを見るベリアルは、先程よりも心なしか目が輝いていてソワソワした様子が隠し切れないようだ。
つまり、不貞腐れていた。前線で己の力を振るえずこんな後ろに配置されたものだから。
【……仕方ないか。
あのソロモンの指輪が復活して、終わる最後の戦だ。最後くらい大人しくしていてあげる】
チャリオットに戻ろうとしたベリアルが、何かを思い出したようにふと足を止めてこちらを振り向く。
変わらずポケットに手を入れたまま、彼はしっかりと俺たちの方を見て微笑んだ。
【ボクは、ソロモン72柱が一つ。ベリアル。気紛れに人間の呼び声に応えてあげた最も美しい悪魔だ。
召喚者の命に従い、お前たちを守護する者だよ。あまり散らばらないでそうやって固まってな。ボク、守りなんて不得手だから】
よろしくしてあげる、と楽しげに言った後でチャリオットを俺たちの側に止めてその上で大人しく待機するベリアルを……悪魔両名は胸を撫で下ろして静かにハイタッチを交わすのだった。
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