第13話 泣いてしまった


 目の前から母である筈のエルヴィラの姿が小さくなって消えていく。


 追いかけてきた男にウルスラは腕を捕まれ、その場から連れて行く。


 

「おかあさん! お、おか、おかあさ……っ!」



 伸ばした手はくうを切り、何も掴めはしない。

 大きな目を見開いて、見逃さんばかりにエルヴィラのいた場所を見続ける。けれど目が潤んできて、視界がハッキリしなくなってくる。今までにない悲しみが胸を襲って、込み上げてくるものがあって上手く言葉も紡げない。


 そんなウルスラに構うことなく、体の大きな男はさっきの家の中へ行こうとウルスラを引き摺るようにズンズンと歩いていく。


 何度もその手を振り払おうとジタバタするけれど、か弱く痩せた小さな体では、大きな男の力強い腕に敵うわけもなく、自分の意思とは関係なくただズルズルと引き摺られて連れて行かれるのみだった。


 頭を横に何度も振ってイヤだと示すけれど、そんな事は何の障害にはならない。

 その手を離して欲しくって、ウルスラは必死の抵抗とばかりに男の腕に噛みついた。

「痛っ!」

と一言、ギロリとウルスラを睨み付け、その頬を大きな手で殴り付けた。


 そうされて小さな体はぶっ飛んでしまう。


 地面に叩きつけられて、うつ伏せになった状態のウルスラの髪を鷲掴みにし顔を上げ、自分の顔を近づけて威嚇する。



「おい……ふざけてんじゃねぇぞ……ガキでも俺は容赦しねぇぞ……?」


「あ……ぁ……」



 恐ろしくて怖くて、ウルスラはただ抵抗しようと声を出そうとするけれど、それは言葉になんかならなかった。

 そうしていると、別の男が此方にやって来る。



「おい、あんまり傷つけんなって。商品なんだからよ」


「……分かってる……けどあまりにも舐めた真似しやがるからな……」


「まぁ、厳しい教育が必要かもな。俺に任せてくんねぇか?」


「けっ! ロリコンが! 商品だっつってんだろ?!」


「壊しゃしねぇよ。俺は優しいぜ?」


「こんな小さい子によくもまぁ欲情できるなぁ……」


「今から叩き込めばいっぱしの娼婦になれんだろ? これも教育だよ」



 下卑た笑いを浮かべた男がウルスラに向かってくる。


 ここは村で、遠目には女の人や子供の姿も見える。だけどこの状況を見ても誰もウルスラを助けようとはしない。ここではこんな事は日常茶飯事で、新たに連れてこられた哀れな子供だと認識されているのみだった。


 ウルスラの髪を掴んでいる男。厭らしい笑みを浮かべて近寄ってくる男。それに便乗するように数人、男達が此方へとやって来る。


 それはもう恐怖でしかなく、ウルスラはガタガタと震えて動く事が出来なくなった。



「ほらよ。手荒に扱うなよ」


「分かってるって。ほら、俺が可愛がってやるからよ、こっちへ来い」


「う……ぅ、あ、ぁ……」



 お母さんが自分を捨てた。自分を娘じゃないって言った。こんな怖い人達のいる所に、私は一人取り残された。

 

 悲しみと恐怖と絶望と……


 そんな感情が渦巻いて、ウルスラの胸は苦しくなって今まで耐えていたものが吐き出されるように一気に溢れ出てきた。



「うぁぁ……うわぁぁぁぁぁっ! あぁぁーっ!!」



 大きな声を上げて、ウルスラは泣き出してしまった。誰も助けてくれない。自分ではどうにも出来ない。どうすれば良いのか分からない。怖い。悲しい。怖い怖い怖い……っ!


 

「いやぁぁぁぁぁ! あぁぁぁーーっ! うわぁぁぁぁんっ!!」



 涙が溢れて止まらない。体は恐怖で震え、その場に泣き崩れてしまって一歩も動く事が出来ない。



「う、うるさ、い……な、泣く、な……」


「やめ、ろ……あ、ぁ……」


「く、るしいっ! う、ぐっ!」



 ウルスラの周りにいた男達が突然苦しみだした。それは波紋をひろげていくように広がっていき、村中へと響いていった。


 皆が悶え苦しみ、立つことも儘ならなくなっている。


 その様子を恐怖に震えながらもウルスラは見ていた。何が起こっているのか分からない。けれど自分以外の人達が皆、苦しそうに身悶えている。


 恐ろしいモノがうごめくその中で、ウルスラは何も出来ずにその場でただ皆の様子を見るしか出来なかった。


 目の前の体の大きな男は苦しみながら何かに耐えているように感じた。

 次の瞬間、

「あがっ!!」

と言う声とも言いがたい音を出して、男の体は至るところがボコボコと中から何かに占領されるように動きだし、その様相を姿を、今までのモノとは別のモノへと変えていく。


 みるみるうちに人であったその姿は、他の異質なモノへと変わっていく。体が大きくなり、筋骨隆々で耳も尖り、口からは牙が伸び出てきた。

 目は怪しく赤く光り、体は人とは思えない程に大きくなり、肌は土気色へと変わっていく。


 何が起きてそうなっているのか、何故そうなっているのか、訳もわからずにただウルスラはその様子を震えながらただ見ていた。


 他の人達も、同じようにして姿を変えていく。しかし、皆が同じ様な姿ではなく、皮膚が緑色になった者がいたり、髪が全部無くなった者がいたり、目が一つになってしまった者もいた。


 それはこの世界に存在しなかった、魔物というモノだった。


 だが、今はそんなモノはお伽噺の悪者として登場するのみで、実際には存在しないものと思われていた。

 しかし、魔物は実はその昔に存在はしていたのだ。それが何百年、何千年か分からない程の昔に絶滅した。

 その理由は解明されておらず、天変地異が起き、知性に欠けた魔物達は逃げることも防ぐ事も出来ずに絶滅したと文献には記載されている。

 そして知能が高い人間だからこそ生き残る事ができたと言い伝えられているのだ。


 存在しない筈の魔物と呼ばれるモノが、今ウルスラの目の前にいる。それは人であったモノだった。その筈だった。


 苦しそうにうごめいていたそれらは、体の変化が終了すると漸く落ち着いたようで、しかし辺りを見渡してから突然叫びだした。そうしてから突然争い……いや、襲いだしたのだ。

 

 それは体の大きいモノが小さなモノを獲物としているかの如く、理性や知性なんて全くないような、自分の欲望のままに暴れ狂う。

 大きな手で自分より小さなモノの頭を鷲掴みにし、それから首に牙を立てて噛みついていく。そうやって相手の息の根を止めてから貪るように喰らい尽くす。


 辺りに血飛沫が舞う。逃げ惑うモノを追いかけるモノ。そして残虐にその命は奪われ骸となり、食料となっていく。


 それはさながら地獄絵図のようであり、さっきまで人が住まう村であった筈なのに、今では全く別の光景へと変わっていた。


 どうなっているのか分からない。なぜこうなってしまったのかも分からない。どうすれば良いのかも分からないウルスラは、ただ震えてその様子を見ていた。

 しかし一番の弱者である筈のウルスラに、何故か魔物となったモノは襲いかかりはしなかったのだ。


 恐怖で震えながらも、ウルスラはこの場所にいてはいけないと思い何とか立ち上がって、震える脚でゆっくりと後退りながら村から出ていく。


 村を出た後は、闇雲に走ってその場から逃れる為にガムシャラに走り続けた。


 細くて小さなその体では満足に走る事も出来なかったけれど、それでもあの恐ろしい光景が目に焼き付いて、今にも後ろから魔物と化したモノがウルスラをすぐ後ろを追ってきているように思えて、後ろを振り返る事も出来ず、息も絶え絶えに縺れそうになる脚を何度も交差させて走り続ける。


 誰か……助けて……誰か……っ!


 怖くて恐ろしくて、走って息も苦しくて声なんか出ない。


 もとより話す事さえ禁じられていて、上手く言葉を発する事さえ出来なかったウルスラが、エルヴィラを呼ぶ時は声が出たのだ。それも自分でもビックリする程の大きな声。

 

 それは僅かに残ったウルスラの力。


 けれど今はもうその声は出ない。力の限り走り続け、もう声をだす余力なんて何処にも残っていなかったからだ。


 初めてエルヴィラに連れてこられた村だった。あそこが何処なのか分からなくて、村を出てからは闇雲に走ったので、自分が何処にいるのか、どこに向かえば良いのか分からなかった。

 家はどの方面にあるのか。だけど家に帰っても、またエルヴィラは自分を売りに何処かへ連れていくのかも知れない。


 そう考えると家には戻れなかった。


 疲れが溜まったのか脚が縺れて、ウルスラはその場で転んでしまった。

 うつ伏せのまま起き上がれずにいて、でも自分を追って来てはいないかを恐る恐る後ろをゆっくり見ながら確認する。



 誰もいない……


 追って来る人は誰もいない……


 もう……自分には誰もいない……



 不意に今までの事が脳裏に浮かんで、倒れたままの状態でウルスラは堪えていた涙をゆっくりと流した。


 泣いちゃダメなのに……我慢しなくちゃいけないのに……


 声を抑えて、腕に顔を埋めて、涙がこれ以上出ないようにする。


 泣くことさえ許されない。


 微笑むことさえ出来なくなっていく。



 誰か助けて……


 ルー……


 ルーに


 会いたい……



 そのまましばらく、ウルスラはただルーファスを想って動けずにいたのだった。

 


 

 

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