第6話 幸せな日々
今日はお母さんのいない日だ。
ウルスラがその時を心待ちにしたのは初めてだった。
いつもどんなに叱られても殴られても母親がいない日は怖くて、もう帰って来ないのかも知れないと考えるだけで寂しくて仕方がなかったのに。
いつもの家事を済ませ、夕食の下拵えも済ませてから、以前行ったあの小屋まで小走りで向かう。
ルーファスはとても優しい目をしていた。私にウルスラという名前を与えてくれた。微笑んでくれた。会いたいと言ってくれた。
それはほんの一時の出来事で、気づけばいなくなっていたルーファスの言葉を信じるなんて、端から見たら単純で滑稽だと思われる事なんだろう。
だけどウルスラにはあの時の言葉が全てで、例えそれが嘘だったとしても、心が暖かくなったのは揺るぐ事のない真実だったのだ。
あの日から一週間、何度あの時の記憶を手繰り寄せただろう。怒られて悲しい時、殴られて辛い時、疲れて心が弱くなりかけた時、ウルスラはほんの少しの思い出に心を馳せた。
自分に会いたいと言ってくれたルーファスにもうすぐ会えると思うと胸が高鳴った。こんな気持ちは初めてだった。
小屋にたどり着いて辺りを見渡す。そこにルーファスはいなかった。まだ来ていないのか、それとも小屋の中にいるのか。そう思って扉をそっと開けてみる。だけどルーファスの姿は無かった。
中に入って、椅子に座る。
一人で待つのは慣れている。けれどやっぱり一人は心細い。もしかしたら来ないのかも知れない。そう考えるのが普通だ。だけどウルスラは待つことしか出来ない。自分に向けられる笑顔と優しい声が忘れられなかったのだ。
街でも優しくしてもらえているけど、ルーファスとは何かが違う気がする。それが何かは分からない。分からないけどウルスラ自身も会いたいと思ってしまう。だからルーファスを待ち続ける事にする。
暫く待って、でもルーファスは現れないから小屋から出て辺りを見渡す。もしかしたら迷っているのかも知れない。そう思って少しその場を離れて探しにいく。でも自分がいない間に来て、ウルスラがいないと思って帰ってしまったらどうしよう。そんな事を考えて、またすぐに小屋まで戻ってくる。そんな事を何度も何度も繰り返す。
ウルスラがここに来て一時間程経った。それは凄く長い時間のように感じて、もう会えないのかも知れないと小屋の中で一人で佇んでいた時だった。
バァァァンッ!! って音がして、小屋の扉が勢いよく開けられた。
「ウルスラ!」
「ルー……」
「あぁ、良かった! 本当にいた……会えた……!」
「あえ、た」
「そうだね。ごめん、遅くなって……」
来てくれた。急いで来たのか荒い息で、額から汗を流している。自分の為にそうしてくれたのだとしたら、こんなに嬉しい事はない。ウルスラはそう思った。
ルーファスは汗を拭って、それからウルスラに微笑んだ。それを見てウルスラも微笑みを返す。
「ありがとう、来てくれて。良かった、いてくれて」
「うん、よかった」
「あ、そうだ、お昼はまだだったかな? 一緒に食べようと思って持ってきたんだ」
「たべる」
「少しお昼を過ぎちゃったけどね。食べよう」
ルーファスは手に持っていたバスケットからシートを出してテーブルに広げて、その上に持ってきた食事の用意をした。
そこには様々な具が入ったサンドイッチがあって、果物もちゃんと切られていて、すぐ食べられるように用意さていた。サラダもあって、とても彩りよく新鮮な状態で綺麗に盛り付けられてあった。
ウルスラはそれを見ただけでも嬉しくなった。思わず笑顔になってルーファスを見ると、ルーファスも嬉しそうに微笑んでくれる。
こんなに綺麗な物を食べて良いのかとも思ってしまう程に全てが美しく見えて、思わず見惚れてしまう。それを食べるように促してくれて、ルーファスは手にとって食べていく。同じようにウルスラも手にとって食べてみる。
それは今まで食べたどんな物より美味しく感じられて、一口食べた時には驚いてルーファスの顔を見てしまった程だった。
「美味しいかい?」
「うん! おいしい!」
「そうか。良かった。いっぱい食べて! あ、余ったら持って帰っても良いんだよ? これ全部、ウルスラにあげるから」
「ぜんぶ……?」
「そうだよ。これはウルスラのだよ」
「ううん……」
「どうしたの? いらないの?」
「もらったら、だめ。ほどこし、だめ」
「施し……そうじゃないんだけどな……でもそうか。そう思われちゃうんだね。あ、でもここで一緒に食べるのなら良いんだよね?」
「うん。いっしょ、たべる」
「良かった。ならいっぱい食べよう!」
「いっぱい、たべる!」
ルーファスは優しい。ウルスラには無理な事を言わない。それが凄く心地よく感じた。
本当はこうやって誰かに食べ物を食べさせて貰う事自体いけないと言われているのだけれど、それをルーファスに言うことなんてウルスラには出来なかった。これは彼の優しさだ。それを断るなんて出来なかったし、ウルスラも朝から何も食べれていなかったから、こうしてくれた事が本当に嬉しかったのだ。
小さくて痩せているウルスラは、一週間前より傷が増えているようにも見える。それがルーファスの心を痛めていく。
「ねぇ、ウルスラ。森の中でどうやって暮らしているの?」
「おかあさん、いっしょ」
「お母さんと一緒に? 二人だけ?」
「ふたり、だけ」
「そう、か……お母さんに、か……勉強はどうしてるんだい?」
「べんきょー?」
「平民はどうしてるんだろ? 学校とかかな……」
「がっこ?」
「うんとね……文字を読んだり書いたりする事を覚えたり、計算したりするのを教えて貰う所だよ」
「もじ、かく……」
「書けるの?!」
「かけ、ない……かき、たい」
「あ、そうか、そうだよね。あ、じゃあ僕が勉強を教えるよ。また来週の今日、ここに来れるかい? その時に一緒に勉強しないか? ね、どうだろう?」
「したい! する!」
「ハハハ、じゃ、決まりだね」
そうしてウルスラはルーファスから勉強を教えて貰うことになった。週に一度、この場所で二人は束の間のひとときを楽しむように、お互いの時間を共有した。
それはウルスラには神様からのご褒美のように感じて、ルーファスに会うまでの一週間がどんな大変な思いをするような事であったとしても、耐えてゆけるようにも思えたのだ。
ルーファスもまた、この場所に来る事が癒しの時間となっていた。
ルーファスが何者かも分かっていないウルスラは、偏見なく自分になついてくれている。ウルスラの笑顔は、騙し合いや腹の探り合いばかりの人達がいる日々に疲れていた自分に、神様が与えてくれた安らぎの時間だと捉えていた。
少しでも長く一緒にいたい。ただ字や算数を教えているだけだ。けれどこの時間が何よりも大切に思えてならなかった。
目が合うと、ウルスラは必ず微笑んでくれる。その笑顔の前では、ルーファスはただの一人の子供であれるのだ。それが嬉しかった。
そして、ウルスラは物覚えもよく、何でも教えた事はすぐに吸収していく。それが教えている者からしたら楽しくなるのだ。
そうやって二人は時間を重ねていった。幼い子供が隠れた遊び場を見つけたように、二人だけの僅かな時間を大切に分かち合った。
週に一度のその時間は今まで感じた事のない幸せな時間で、それはかけがえのない日々へと変わっていった。
この細やかで幸せだった日々を二人が求め続ける事になるのだと、その時は思いもしなかったのだった。
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