第2話 左足首の輪
外は薄暗く、少しずつ東の空が明るくなろうとする頃、一人の少女が家から手に大きなバケツを持って出てきた。
まだ寒さの残る季節で、口から出る息は白くなった。そんな中、少女は薄着で外を小走りに行く。森の中にひっそりとあるその小屋から、道と呼ぶには程遠い森の中の獣道を駆けて行く。
今日は少し寝坊してしまった。早く行かなきゃお母さんが怒ってしまう。そんな顔をさせちゃダメだ。そんなふうに怒らせちゃダメだ。
そう思いながら歩幅が小さなその足を何度も何度も交互に動かし少女は駆けて行く。
着いた場所は森に流れる川だった。そこで水を汲み、行きよりも格段に重くなったバケツを震える腕で抱えて、来た道を戻って行く。
『やぁ、今日もお水、大変だね』
『こっちにおいでよ。一緒に遊ぼうよ』
『邪魔しちゃダメだろ』
梟達が話し掛けるのを、少女はニコニコ微笑みながら見て聞いている。だけど急いで帰らなくちゃ。吐く息は白く、だけど急いで走っているから体は温かくなってくる。けれどやっぱり手や足の指先は冷たくて、それが足を余計に遅くさせてしまう。
やっとの思いで家までたどり着いた。バケツの水を水瓶に入れて、それからまた水を汲みに川へと向かう。自分の力では一回ではこの水瓶を水でいっぱいには出来ないから、何度も行かなくてはいけないのは仕方がない。自分がもう少し大きくなれば、力があれば、何度も行かなくても良い筈で、それは自分が未熟だから悪いのだ。
そう思って少女は何度も川へと水を汲みに行く。それが毎朝の日課だった。
「いつまでやってんだよ! このノロマ!」
「ご、め……」
「喋るなって言ってるだろ?! お前の声なんか聞きたくないんだよ!」
「…………」
最後の水を水瓶に入れたところで、母親と思われる女から少女は腹を蹴られて転げてしまった。その頃にはすっかり陽が辺りを照らしていて、小鳥の囀ずりが朝の訪れを知らせていた頃だった。
蹴られた場所を手でなぞりながら、少女は何とか立ち上がる。そうしないとまた怒らせてしまうからだ。
「早く朝食を作るんだよ! このグズが!」
「…………」
言われて少女は黙って頷いた。喋るとまた母親は機嫌が悪くなってしまう。だから今日も少女は喋る事が出来なかった。
たどたどしい手つきで卵を焼き、庭で取れた野菜を手で千切り盛り付ける。そこにパンを添えてテーブルへ持って行く。
母親はそれを口にして、料理の不味さと、そんな味にしかできず食材を無駄にした事、そして時間が掛かった事を厳しく叱った。その間、少女は下を向いて立ち尽くすしかなかった。
朝食の後片付けをして、それから部屋を掃除し、庭にある畑に水やりをし、川へ行って洗濯をする。それを家の庭で干してから昼食の用意をする。今日は週に2回の買い出しの日で、近くの街へ買い出しに行くのだが、少女はこの日をいつも心待ちにしていた。
森の中を買い物カゴを持って街へ向かう。足早に歩いていると向こうから小鹿がやって来た。
『ねぇねぇ、どこに行くの?』
『買い物をしに街へ行くんだよ』
『まち? まちって何?』
『人間がいっぱい住んでいる所だよ』
『そんな怖い所にいくの? 危ないよ!』
『私も人間だよ?』
『そうだけど、そうじゃないみたい』
『そうかな?』
『そうだよ』
少女と小鹿がそうやって歩いていると、他にも兎やリスなんかもやって来た。皆と会話をして、森の端まで来てから動物達は少女に別れを言って帰って行った。
森を抜け、暫く行くと街道が表れる。そこから街へ足早に歩く。そうしないと帰る頃には陽が暮れてしまうからだ。
街の入り口には門があって、そこには門番と言われる人がいる。少女を見掛けた門番は
「こんにちは。どうぞお入り」
と言って微笑みながら街へ入れてくれる。少女はニッコリ笑って頭を下げる。
母親の言い付け通り、少女は誰とも口を聞かないように心掛けている。手元には買う物を書いたメモを持っていて、それを店に行って店員に見せるのはいつもの事だった。
「あ、こんにちは。今日は何がいるのかな?」
そう声を掛けてくれたのは精肉店の店主。少女がメモを見せると、
「ベーコンだな。それと鹿肉と兎の肉か」
そう言うと手早く肉を準備した。
「お待たせ。サービスで今日入ってきた猪の肉も少し入れておいたぞ」
店主がそう言うと、少女は満面の笑みを浮かべて何度も頭を下げた。少女のその笑顔が見たくて、店主はいつもサービスしてしまうようだ。
他にもメモにある買い物をする為に店を回っていく。
「嬢ちゃん、元気か? ちゃんと飯食ってるか? これ、食っていけ」
と、魚屋の店主は焼魚を串にさして手渡してくれる。
「このパン、焼きたてだから今のうちに食べなさいね? その間に他のパンを用意しとくから」
パン屋のおかみはそう言ってパンとジュースを差し出した。
「そんなに薄着で風邪をひいちゃうわ! これを羽織りなさい!」
布屋のお姉さんは暖かそうな肩掛けをくれた。
「またこんなに傷作って……この薬を塗ってあげるからそこに座りなさい」
薬屋が少女の手のあかぎれと、腕や脚にある生傷に薬を塗ってくれる。
少女が微笑んで頭を下げると、皆も嬉しそうに微笑んでくれる。話す事は禁じられているけれど、少女に優しく接してくれる人達がいるこの街が大好きなのだ。
買い物を済ませ、それから足早に家まで戻る。帰りも動物達がやって来て話し掛けてくれる。本当はもっとゆっくり話したいけれど、もう陽が傾いてきていて、このままだと夕食の時間に間に合いそうにないから、少女は仕方なく駆け足で家まで戻るのだ。
「遅い! 何処をほっつき歩いてたんだ?! この役立たず!」
「あ、ぅ……っ!」
頬を平手打ちされて、少女はまた横に転げた。そうなるのは、少女は痩せていて体力が乏しい上に、休む間もなく仕事を言い付けられ体が疲れているからだ。
すぐに立ち上がって下を向いたまま頭を下げる。そうしないとまた母親は怒る。
だが、買い物カゴの中身を確認して母親はまた少女を叱りつけた。
「お前はまたこうやって施しを受けたんだね?! それは憐れに思われているって事なんだ! 分からないのかい?! 恥ずかしい事だよ! 情けない!」
「…………」
「あぁ、忌々しい! お前なんか何処かに行ってしまえば良いのに! ウンザリだよ!」
「…………」
「ボーッと突っ立ってないで、早く夕食の用意をするんだよ! 言われないと何も出来ない役立たずが!」
母親は少女を足蹴にした。また少女は転げてしまって、その事にも大袈裟だと母親は怒る。
何をしても怒らせてしまう。少女は母親に笑って欲しいだけなのだ。もうどれくらいその笑顔を見られていないだろうか。少女に向ける母親の表情はいつも険しくて、怒りに満ちているように感じる。
こんな扱いを受けていても、少女は母親が好きだった。大好きだった。母親が笑顔を見せてくれないのは、自分が不甲斐ないからだであって、だからもっと頑張らなければいけないと思っているのだ。
そんな少女の左足首には足輪がつけられてある。
ボロボロの衣服を身に纏った少女の左足首だけがキラリと光っていたのだった。
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