「俺、病気の事は今一良く分かんないけどさ、もし君のことを俺の名前で呼んだんだとしたら、それはただ単に、新しい事が記憶出来なかったから、じゃないのかな? 俺の名前を呼びながら、心では君の名前を呼んでたんじゃないかな?」

「そんな…」


グラグラと揺れる足元に、立っているのがやっとだった。


俺は手で顔を覆い、何度も首を横に振った。


「ねぇ、会って上げなよ? 待ってるよ、翔真が…」


大田先輩が俺の肩を一つ叩いて、


「じゃ、俺はもう行くから…」


そう言って俺の横を通り抜けた時、フワッと甘い香りが鼻先を掠めた。


翔真さんが好んで付けていた、あの香りと同じだった。



ああ、この人はまだ翔真さんの事を…



何故かそう思った。




俺は大田先輩が立ち去った後、墓石の前に胡座をかき、ずっと目の前の墓石を見上げていた。


大田先輩が言った通り、本当に翔真さんは俺を待っていたんだろうか…?



本当に翔真さんは俺の事を…?



頭の中に、いくつもの疑問が、浮かんでは消えて言った。


「あ、そうだ…」


俺は思い出したようにリュックを開けると、中から保温効果のあるポットを取り出した。


中には、少し温めのカフェオレが入っている。


「翔真さんさ、俺の煎れたカフェオレ、美味いって良く言ってたでしょ? だからさ、今日は一緒に飲もうと思って持ってきたんだ」


持ってきた紙コップを二つ並べて、そこにカフェオレを注ぐと、一つを墓石の前に置いた。


「どう、美味しい?」


答えなんて返って来る筈ないのにね…


それでも“美味い”の一言が聞きたくて、墓石に向かって問いかける。


「ごめんね? 本当はもっと早く来ようと思ってたんだけどさ、中々受け止められなくてさ…」


気付けば、翔真さんがこの世を去ってから、三年が過ぎていた。


「あ、俺ね、仕事始めたの。スタンドじゃなくて、新しい仕事ね? なんだと思う?」



当ててみてよ…



「俺ね、今介護施設で働いてんの。まだまだ見習いだけどさ、ちゃんと資格も持ってんだぜ? 凄くない?」


あれだけ介護の呪縛から逃れたいと思ってたのに、おかしいよね…


「爺さん婆さんばっかの施設なんだけどさ、もう大変でさ…。毎日ヘトヘトになるまで働いてるよ…」


俺は自嘲気味に笑って、紙コップのカフェオレを一口啜った。


「あ、マジッ…」


すっかり覚めてしまったカフェオレは、ほんのり線香の香りがした。


「今度来る時はさ、缶のにしようか? それとも俺が煎れたのの方がいい? …ねぇ、翔真さんはどっちがいい?」


何度問いかけてみたとこで、答えなんて返ってくることはないのに、それでも俺は聞かずにはいられなかった。


“缶なんかじゃなくて、


お前が煎れたカフェオレが飲みたい”


って…

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