第10章 貴

翔真さんが正常な状態でないことは、その様子からも見て取れた。

それでも俺は翔真さんには聞かせたくなかった。



たとえ正常でないとしても、現実を受け入れるのは、酷だと思ったから…



だから俺は翔真さんに席を外して貰うように頼んだ。

そんな俺の気持ちを察したのか、二木が翔真さんの手を引いた。


でもその手を解き、翔真さんはトイレへ行くと言って席を立った。


「大丈夫」


翔真さんのその言葉と笑顔に俺も、そして二木も不安を感じながらも、どこかで安心していたのかもしれない。


翔真さんのいなくなったリビングに、酷く重苦しい空気が流れた。



どう切り出したらいい…?



俺の頭の中は、そのことでいっぱいだった。


「ねぇ、遅くない?」


二木が俺の脇を肘で突っつきながら、耳打ちをする。


「確かにな…」


部屋の片隅に置かれたアンティークの時計を見ると、翔真さんが席を外してから、十分以上が経っていた。


「見てきた方がいいかな?」


俺の隣で二木が腰を少し浮かせた瞬間、ノックもなしに、リビングの扉が開き、お手伝いの女性が血相を変えて飛び込んできた。



しまった!



そう思った時にはもう遅かった。


「奥様、坊ちゃんが…、坊ちゃんが…」


瞬間、俺も二木もほぼ同時に天を仰いだ。


足早に先頭を行くお手伝いさんの後に続いて玄関に向かうと、丁度階段の上がり端に着いた時、翔真さんのお母さんが、小さく叫んで口を両手で塞いだ。


そしてオロオロとその場を行ったり来たり…


時折、階段の下で蹲り涙を流す翔真さんを見ては、悲しげに目を伏せた。


「そんな目で俺を見るな!」


翔真さんの叫び声が、広い玄関ホールに響いた。


その声は、悲痛そのもので…


まるで恐怖から逃れるように後ずさる姿を、俺は何も出来ないまま、ただ呆然と見ていた。


「見ないで下さい…。お願いだから…見ないで…」


抱えた膝に顔を埋め、肩を揺らす翔真さんが余りにも憐れで…


それと同時に、自分の無力さが、情けなくなってくる。



こんなにも“助けて”って心が叫んでるのに、俺は何を迷ってるんだ…。

迷う理由なんて、ないのに…



俺はゆっくり足を進め、その揺れる肩を抱きしめた。


「翔真さん、大丈夫だから、ね? 落ち着いて?」


怖がらせないように、そっと囁くように、その耳に声をかける。


翔真さんが俺の声に、涙でグチャグチャになった顔を上げる。


そして俺の襟元を掴むと、俺の身体を乱暴に揺さぶった。


「雅…也…? 雅…、俺どうしちゃったの? なぁ、俺…俺っ…」



ああ…、今の翔真さんは、俺の知ってる翔真さんなんだ…



そう思ったら、不謹慎だけど、少しだけ嬉しくて、俺の襟元を掴んだ手をそっと解いてやると、その手をそっと両手で包んだ。


小刻みに震える指先が、翔真さんに与えたショックの大きさを物語っているような気がした。


「大丈夫。俺がついてるから、ね? ほら、捕まって?」


翔真さんの腕を俺の肩に巻き付け、胸に引き寄せてやる。


「あの、翔真さんの部屋は…」


お手伝いさんを振り返り訪ねると、お手伝いさんが慌てたように階段を指差した。


「あ、は、はい、こちらです…」


翔真さんを抱き上げ、お手伝いさんの案内で階段を、翔真さんの部屋へ向かって昇って行く。


その間も、ずっと翔真さんは目を涙で潤ませたまま、俺を不安げに見上げていた。


「こちらです」


殆ど使われていないと言われたその部屋は、キチンと掃除が行き届いていて…


「あの…、宜しければシャワールームがこちらに…」


流石金持ち、と言うべきだろうか…


俺のアパートよりも広い部屋には、専用のシャワールームまで完備されてて、俺はそこを遠慮なく使わせてもらうことにした。

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