第9章 、

どこを見回してみても、そこは俺の知らない世界で…


「翔真、久しぶりね? 元気にしてた?」


俺の頬を撫でる手だって、誰の物なのかも分からない。


ただ一つ分かるのは、この人は俺を知っている、それだけだった。


その人は俺の手を取ると、革張りのソファーへと促した。


勿論俺だけじゃない、俺と一緒に来た、らしい男も一緒にだ。


三人並んでソファーに座る。


すると目の前で新聞を捲っていた男性が、ゴホンと大袈裟に咳払いをした。


新聞を畳み、テーブルの上にポンと放ると、かけていた銀縁の眼鏡を外し、その上に置いた。


「ほら、翔真、お父さんにご挨拶なさい?」


”お父さん”?

この人が、俺の”父親”?


「あ、あの…えっと、その…」


後に続く言葉が出てこないのは、緊張しているからなんだ…と、そう思っていた。


でも、いくら頭を巡らせてみても、一向に出て来る気配のない言葉に、焦れた苛立ちが込み上げてくる。


「翔真さん…?」


隣りに座った男が、俺の顔を覗き込む。


その目が、


“大丈夫だから、落ち着いて”


そう俺に向かって言っているようで…


俺は顔を上げると、スッと深呼吸をした。


そして、


「お久しぶり…です…、お父…さん…」


咄嗟に思いついた言葉を、そのまま口にした。


「私の顔に泥を縫っておいて、よくもノコノコと帰って来れたもんだ…」


“父親”だと言ったその人は、俺と視線を合わせることもなく、細かい細工の施された銀メッキのケースから、葉巻を一本取り出し、そこに火を付けた。


独特な煙の臭いに、頭が痛くなる。


早くこの場から…この居心地の悪い空間から逃げ出したい。


「あなた、そんな言い方なさらなくても…。翔真だって、きっと何か考えがあってしたことでしょうから…。ね、翔真? お父さんにちゃんと説明なさい?」


何を?

俺は一体何をした?

それすらも分からないのに、何をどう説明すればいい?


頭が割れるように痛い…


どうしたらこの状況を切り抜けられる?


どうしたら…


「あの…、ちょっといいですか?」


堪りかねたように、俺の隣に座った男が口を開いた。


助かった…

そう思った瞬間、全身を襲っていた震えが、嘘のように消えた。


男は姿勢を正すと、”お父さん”に向かって少しだけ身を乗り出した。


「実は、そのことで今日伺ったんです。あの…、翔真さんには席を外して貰っていいですか?」

「翔真がいては出来ないお話なの?」

「…はい」


もう一人の色白の男が席を立ち、俺の手を引いた。


「翔真さん? 俺、翔真さんの部屋見たいな?」


俺の…部屋…?

そんな物がこの家の中にあるんだろうか?


内心訝しみながらも、それでも俺はその誘いを受けることにした。


この空間から抜け出せるなら、理由なんてどうでもよかった。


「わ、分かった。俺の部屋へ…。でも、その前にトイレに…」


俺の手を握った手をそっと外し、俺はソファーから腰を上げた。


「一人で大丈夫ですか?」


不安げな目が俺を見上げる。


「だ、大丈夫だよ。ここ、俺ん家だし」


安心させようと、平静を装って見せるけど、内心では不安ばかりが募って行く。


「待ってますね?」


色白な顔が、少しだけ綻ぶのを見届けて、俺は煙の充満した部屋を飛び出した。


豪華な装飾と、白一色に彩られた廊下に出ると、俺は手当たり次第にドアを開けて回った。

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