その時だった、堪らずといった様子で翔真さんが腰を上げた。


「あの、俺急ぐんで、この辺で…」


そう言った顔に、苛立ちの色が浮かぶ。


「行くよ、智樹君。まったく、付き合ってられないよ」


俺の腕を引き、歩を進めようとする書間さんを、井上先生が引き留めた。


「じゃあ、これで終わりにするので、もう少しだけお付き合いいただけませんか?」


まったく慌てる様子もなく、井上先生が翔真さんの顔を見上げた。


「翔真さん、座ろ?」


井上先生を睨み付けたまま、動こうとしない翔真さんの腕を掴み、もう一度椅子へと引き戻した。


井上先生が俺を見て、小さく頭を下げる。


「桜木さん、さっき僕がここに出した“物”、何だったか言って貰えますか?」


テーブルの上を指差し、井上先生が翔真さんに向かって問いかける。


俺はその時になって漸く、井上先生が何を確かめたいのかに気付いた。


そう言った症状の検査では、良く行われる方法だと何かで見たことがある。


「どうしました? 桜木さん?」


決して急かすわけではく、穏やかな口調で翔真さんに答えを促す。


でも当の翔真さんは…


眉間に皺を寄せたまま、テーブルの上をジッと見つめていて…


膝の上で固く握った両手はプルプルと震えている。


「翔真さん、どうしたの?」


堪らず声をかけた俺を振り向いたその目は、僅かに浮かんだ涙に潤んでいた。


まるで何かに怯えているような、そんな目だった。


「この人おかしいんだ…。おかしなことばっか言って…。最初っから何もなかったのに、あったって…」


その言葉を聞いた瞬間、二木が天を仰いだ。


そして少しだけ長めに息を吐き出すと、徐に席を立った。


「何か喉乾いちゃったな…。翔真さん、一緒に飲み物買いに行きましょうか?」


翔真さんの前に回り込むと、震える両手に自分の手を重ね、そっと声をかけた。


「あの…、さっきのって…」


二人が食堂から出て行くのを見送ってから、俺は口を開いた。


「そうですね…」


俺の言葉の先を読み取ったのか、井上先生が銀縁の眼鏡を指でクイッと押し上げると、結んだ両手をテーブルの上に乗せた。


「お気づきかもしれませんが、今のは所謂”認知症”の検査です」


”認知症”…


もしかして…、とは思っていたけど、実際にその言葉を耳にすると、すんなり受け入れられるわけもなくて…、俺は思わず身を乗り出していた。


「で、でもそれって、高齢者の人がなる病気でしょ? 翔真さんはまだ26歳だし…そんな筈…」



ない…。



そう言いたかった。

でも、この二日間の翔真さんの言動を考えれば、井上先生の診断に間違いはない、とも思えてくる。


「詳しく検査してみないとハッキリとしたことは言えませんが、二木君から聞いた話と、今の簡単なチェックを行った結果、おそらくは”アルツハイマー型“の“若年性認知症”かと…」



嘘、だろ…?



俺は頭の中が真っ白になっていくのを感じていた。


「原因については、やはり詳しい検査が必要になりますが、今の状態だと”中期”の症状だと思われます」


”認知症”


その言葉だけが、頭の中で何度も何度も巡っては消えを繰り返し、井上先生の言葉なんて、何一つ耳には入って来なかった。

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