暫く水を流した後、”雅也”が濡れた俺の手をタオルで拭き取ると、今度はビニールの袋に入れた氷を、赤くなった指先に宛がった。


「大したことはなさそうですけど、ほんと、何やってんすか…」

「何、って…。俺は別に何も…」


そう…、俺は何もしちゃいない。


現に、この真っ赤に腫れた指先だって、どうしてこんなことになっているのか、自分でも不思議で仕方がないんだ。


「俺は一体何を…?」


俺の手に氷を宛がいながら、フーフーと息を吹きかけていた”雅也”が顔を上げる。


「もしかして…覚えてないんですか?」


俺はそれに黙って頷く。


こんなにも赤く腫れあがっているのに、この指先には痛みすら感じない。


そう、まるで全ての感覚が麻痺してしまったような、そんな感覚だった。


「取り敢えずさ、飯済ませちゃいましょうか? 後で薬買ってきますから」


そう言って”雅也”は俺の左手にスプーンを握らせた。



でも…、

これをどう使っていいのか…


分からない。

俺は一体どうしてしまったんだろう…



頭の中にかかった”靄(もや)”は、一向に晴れる気配はない。


それどころか、どんどん広がって行っているとすら思えてくる。


俺が俺でなくなって行くのを、俺は心のどこかで感じていた。


「飯、食わないんですか?」


俺の目の前で、俺を変な目で見て来るコイツは…誰だ?


「翔真さん?」



“翔真”…


それが俺の名前なのか?



「もしかして、腹、減ってないとか? だったら片付けますよ?」


目の前の男が、俺の前から食べ物を奪おうとする。



俺の物なのに…



「やめろ! 俺の物に触るな!」


怒声と共に、俺の目から涙が零れ落ちる。


「やめて下さい。お願いします…」


俺は白米がこんもり盛られた茶碗を、両手でしっかりと握り締めた。


そしてそれを手に、俺は席を立った。


キッチンをウロウロと歩き回り、玄関の上がり端に腰を下ろした。


「翔真…さん? 何やってんですか…?」



えっ…

俺は一体何…を…?


どうして、俺は玄関で…?

茶碗を握りしめて、一体何を…?



「あの、さ…、飯、食うならこっちで食べない? そこ、寒いっしょ?」


言われた途端、コンクリートの冷たさが、素足の爪先から伝わってくる。


「あ、あぁ…、そう、だよ、な…」


ノロノロと腰を上げ、ダイニングチェアに移動した俺の手に、雅也が再びスプーンを握らせた。


「慌てなくてもいいからさ、ゆっくりね? …取ったりしないからさ…」


悲しげに歪む雅也の顔を見ながら、俺はゆっくりとスプーンを口に運び始めた。

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