3
暫く水を流した後、”雅也”が濡れた俺の手をタオルで拭き取ると、今度はビニールの袋に入れた氷を、赤くなった指先に宛がった。
「大したことはなさそうですけど、ほんと、何やってんすか…」
「何、って…。俺は別に何も…」
そう…、俺は何もしちゃいない。
現に、この真っ赤に腫れた指先だって、どうしてこんなことになっているのか、自分でも不思議で仕方がないんだ。
「俺は一体何を…?」
俺の手に氷を宛がいながら、フーフーと息を吹きかけていた”雅也”が顔を上げる。
「もしかして…覚えてないんですか?」
俺はそれに黙って頷く。
こんなにも赤く腫れあがっているのに、この指先には痛みすら感じない。
そう、まるで全ての感覚が麻痺してしまったような、そんな感覚だった。
「取り敢えずさ、飯済ませちゃいましょうか? 後で薬買ってきますから」
そう言って”雅也”は俺の左手にスプーンを握らせた。
でも…、
これをどう使っていいのか…
分からない。
俺は一体どうしてしまったんだろう…
頭の中にかかった”靄(もや)”は、一向に晴れる気配はない。
それどころか、どんどん広がって行っているとすら思えてくる。
俺が俺でなくなって行くのを、俺は心のどこかで感じていた。
「飯、食わないんですか?」
俺の目の前で、俺を変な目で見て来るコイツは…誰だ?
「翔真さん?」
“翔真”…
それが俺の名前なのか?
「もしかして、腹、減ってないとか? だったら片付けますよ?」
目の前の男が、俺の前から食べ物を奪おうとする。
俺の物なのに…
「やめろ! 俺の物に触るな!」
怒声と共に、俺の目から涙が零れ落ちる。
「やめて下さい。お願いします…」
俺は白米がこんもり盛られた茶碗を、両手でしっかりと握り締めた。
そしてそれを手に、俺は席を立った。
キッチンをウロウロと歩き回り、玄関の上がり端に腰を下ろした。
「翔真…さん? 何やってんですか…?」
えっ…
俺は一体何…を…?
どうして、俺は玄関で…?
茶碗を握りしめて、一体何を…?
「あの、さ…、飯、食うならこっちで食べない? そこ、寒いっしょ?」
言われた途端、コンクリートの冷たさが、素足の爪先から伝わってくる。
「あ、あぁ…、そう、だよ、な…」
ノロノロと腰を上げ、ダイニングチェアに移動した俺の手に、雅也が再びスプーンを握らせた。
「慌てなくてもいいからさ、ゆっくりね? …取ったりしないからさ…」
悲しげに歪む雅也の顔を見ながら、俺はゆっくりとスプーンを口に運び始めた。
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