第4章 ga

自分がおかしい…


それは薄々気付いていた。


時折飛ぶ記憶。

自分では理解出来ない言動の数々。


そう、まるで俺が俺じゃなくなるみたいな…


始めはそんな感覚だった。


でもそれは日を追うごとに増えて行き、ついには一日丸っと記憶が抜け落ちることも…


結果俺は、会社を辞めた。


いや、違うな…

“辞めた”と言う言い方には、少々語弊があるかもしれない。


同僚の話によれば、取引先との商談の際に、俺がとった不可解な行動が、会社に多大な損害をもたらした結果、俺は会社から三行半を突き付けられたそうだ。


もっとも、俺にその記憶はない。


失意のどん底にいた俺は、街を一人彷徨い歩いた…と、そこまでは自分でも記憶している。



でも…

今のこの現状は…一体?



部屋を見回してみても、明らかに俺の記憶の片隅にある自分の部屋ではない。



それに、だ…


この隣にいる男は…誰だ…?

分からない…



考えれば考える程、自分の置かれた現状が分からなくなる。


俺は身じろぎ一つ出来ない狭いベッドの中で、首だけを隣で眠る見覚えのない男に向けた。


その時だった。


その男の瞼がパチッと音を立てて開いた。


そして俺と目が合うと、フッとその顔を綻ばせた。


あっ…その顔は…


「智樹…くん…?」


それは不意に俺の口を付いて出た、懐かしい名前だった。


俺の発した言葉が間違っていたのか、目の前の笑顔が、次第に悲しげに歪んで行く。


そして俺の頬に手が伸びて来たかと思うと、ゆっくりと口が動き始めた。


「俺は”雅也”だよ? 翔真さん、あなたの後輩の”相原雅也”」



雅也…?

俺の後輩…?


それに今俺のことを”翔真さん”と…?



この男は俺のことを知っているのか?



分からない…!


この男のことも…

そして自分のことも、何もかも…



疑問ばかりが頭の中を駆け巡り、窮屈なベッドの中、背中を丸め、俺は頭を抱え込んだ。


「ちょっと、どうしたの? どこか痛いの?」


慌てた様子で俺の身体を揺する手を、俺は乱暴に払い除けた。


「翔真さん、あんた一体どうしちゃったの?」


それは俺の台詞だ…


「分からないんだ、何も…」


自分が誰で、どこから来たのかすらも…


「ね、と、とにかくさ、ちょっと落ち着いて…。あっ、そうだ、腹、減ってない? 飯でもしない? 俺、用意してくっからさ、ちょっと待ってて?」


”雅也”がベッドから抜け出し、部屋を出て行く。


その背中を、俺は僅かに霞んだ視界の中で見送る。



あれ?

アイツ、誰だっけ…?



一瞬で頭の中に靄(もや)がかかったような…


そんな感覚だった。


俺は、今さっきの出来事すら、忘れてしまったんだ。

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