第16話 お猿さん


 N子さんが勤務する保育園では、朝十時からがお散歩タイムとなっていた。

 その日もお散歩用のカートに子どもたちを乗せ、園を出発した。

 そよ風も心地よく、秋の自然を楽しんでほしいということから、いつものコースよりも少し遠回りすることになった。

 山頂にお寺がある、小高い丘のような小さな山のすぐ横手の道を通った時だ。

 子どもたちの何人かが、急に山の中に向かって手を振りはじめたのだという。

 N子さんは子どもたちが手を振っている方を見たが、その時は、特に何も見えなかったらしい。

「お山に誰かいるの?」

 尋ねるN子さんに対して、子どもたちは不思議そうな顔をして、

「せんせぇ、お猿さん」

「お猿さん、手、振ってる」

 N子さんは、子どもたちが指さす先を見た。

 しかし、山の斜面には、まばらに広葉樹があるだけで、子どもたちが言う猿がいるようには見えない。

「お猿さん、どこ?」

 N子さんが改めて子どもたちに訊ねると、

「いるよ!」

 一人の子が怒ったような声を出した。

「ええ、先生には、見えないけどなあ」

 N子さんは、目を細めて、再び山の斜面を見つめた。


 ──見えた。


 確かに、山の斜面に、奇妙なモノがいる。

 さっきまでは見えなかったのに。

 それは、周りが毛でおおわれたくしゃくしゃの老人のような顔をしていた。

 言われれば、ニホンザルに見えなくもない。

 だが、それは、服を着ていた。

 茶色く汚れた白装束、とでも言ったらよいだろうか。

 猿が服なんか着るはずがない。かといって、人間にしては小さすぎる。

「え、何、あれ」

 その猿のような、小さい老人のような何かは、山の斜面の中ほどで、正座のような態勢で座っていた。両膝をついたまま、じっとN子さんと子どもたちの方を見つめて、ぶんぶんと両手を振っていた。その振り方は、挨拶というよりは、何かしらの儀式やまじないのように見えた。

 N子さんは、急に怖くなった。

「お猿さん、いた?」

 子どもの問いかけに、思わずN子さんは、

「どうかな、いた、かな」

 と言葉を濁して、そのまま逃げるようにお散歩カートを足早に押した。

 ちょうど、その時、ずっと後方を歩いていた、他の引率の保育士が、N子さんたちの様子がおかしい事に気が付いて近づいてきた。

「何かありましたか?」

 聞いてくる保育士に、N子さんは、山のほうを絶対に観ないようにしながら、

「山の中、何か、いるように見えます?」

 と小声で訊いた。

 保育士は振り返って山のほうを見たが、

「山の中? 何もいませんけど?」

「あ、いえ、別に大したことじゃないんですけど、子どもたちがお猿さんがいたって言ってたので。もうどこかに行ってしまったのかもしれないですね」

 N子さんは、子どもたちを不安にさせるといけないと思い、怖いという気持ちを必死で抑え、そのまま散歩を全うした。


 翌日、子どもたちが体調不良で休んだ。

 N子さんが押していたカートに乗っていた子どもたちのうち、アレに手を振っていた子ども全員だった。

 園では、まだ寒い時期の散歩で風邪をひいたのだ、ということになった。

 あの猿のような何かのせいなのか。

 関連性はわからない。

 ただ、N子さんは必死に、次回からは通常の散歩コースに戻すよう提言したという。


「結局、ああいったものを見たのはあの時が最初で最後でしたが」

 N子さんは、言う。

「もしかしたら、アレって、天狗、だったんじゃないかと。最近そんな風に思いはじめました」

 N子さんは神妙な顔をしながら、両手でこぶしを作って鼻の上に重ねた。

 それは、いかにも保育士的な天狗の表現だった。


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