ex. ありったけの未来をくれてやる 6

父が私やふたばを叱ることはあまりない。欲しいと言ったものをすぐに買い与えては母に怒られる、私からみても子煩悩な男だと思う。

祖父のご機嫌をとって、母のご機嫌をとって、ストレスの捌け口も探せず円形脱毛症になるような父を、幼い頃の私は格好悪いと思っていた。


反抗期を拗らせて罵詈雑言を投げつけるふたばに、父はオロオロとするばかりで何も出来なかったし、何も言わなかった。

母に怒られ、ふたばに詰られ、祖父に小言を言われる。可哀想な人でもある。


私の名前をつけたのは父だ。


この人はなぜ、ふたりめの娘に『ハジメ』と名付けたのだろう。

この人のことだからきっと大した理由なんかないんじゃないかって、そんなふうに思っていたけれど、本当にそうだったのかな。


「瑞ちゃんは、男になりたかったのか?」

「は?」


「男の子が女の子を好きになるみたいに、新本さんが好きなんだろう?昔からもしかしてとは思ってたけど、中学生くらいから普通になったからさ」


なにを、言っているのだろう。


聖の話を聞いていなかったのだろうか。それとも、聖の性自認も男だと思っている?


「もしそうなら、相談できる環境を作ってやれなかったお父さんたちの責任だし」

「お父さん」

「女の格好をするのが苦痛なら、制服のない学校に通わせることも」


バン!と大きな音に驚いて、その音が自分でテーブルを叩いた音だということにもっと驚いた。


びっくりした。テーブルを叩いた手のひらがヒリヒリする。


男になりたかった?誰が?

女の格好をするのが苦痛だった?誰が?


お父さん、誰の話をしてるの。


「私は……ずっと女だよ。生まれた時から、子どもの頃も、今も、ずっと。心が男だから男の子みたいな服着てたわけでも、心が男だから男の子と遊んでたわけでも……心が男だから聖のこと好きになったわけでもない」

「じゃあ、なんで……」


「そういうものだって、思ってよ。私は女で、好きな人は聖。それだけ」


頭を抱えた父の横で、母が静かに目を閉じた。


雑誌とプチプラのコスメを集めて、メイクの練習をした。

思春期で変わった髪質に苦労しながら、ヘアケア用品をお小遣いで集めた。

母におねだりして、香水をかしてもらった。

春休みにバイトを頑張って、ケイトスペードのバッグを買った。


美意識の高い男だとでも思ってた?


「結婚は?」

「しなくていい。するなら聖とする」


「女が相手じゃできないんだよ、瑞ちゃん」


知ってるよ、そんなこと。


あぁ、やめたい。なんのために報告したんだっけ。


優しく、柔らかく、手のひらを聖の指がなぞった。写真に指を沿わせて、可愛いと言ってくれたときのように。


「あたしもちょっと調べたんだけどさ、お父さん。同性が家族になるには、養子縁組とかパートナーシップとか、色々選択肢があるの。あとは海外に行くとかね。結婚だけがゴールじゃない」

「養子縁組って、そんな……でも、ほら、子どもも望めないだろ。お父さんはただ瑞ちゃんが心配で」


「はぁぁ……妊活って言葉知ってる?男女の夫婦だって、子どもを授かれないことは珍しくないんだよ。あたしたちだって、分かんないし。もし検査してサツキが子どもを望めない体質だったら、お父さん反対すんの?もし、あたしが子どもを生めない体質だったら、サツキに『娘と結婚しても子どもが生めなくて不幸だからやめろ』って言うの?」


それとこれとは話が違うだろ、と頭を振った父に、ふたばが思い切り舌打ちをした。

先ほどから穏やかな顔を崩さなかったサツキさんの口元が緩んで、それは明らかに笑いを我慢している顔であった。


人の懐にするりと入り込むところといい、こういう意外な食えなさといい、サツキさん、実は詐欺師とか向いているんじゃないかな。ふたば、騙されてないよね?


この人絶対、優しいだけの男じゃないよ。


「お父さんさぁ、お父さんが男女にこだわるのってなんでなの?ハジメがハジメのまま誰かのこと好きになるより、ハジメの二十一年間を否定してまで『心が男だった』とか言い出すの、なんで?」


ふたばが滔々と淀みなく語ってくれるお陰で、私も聖も口を開くタイミングが微塵もない。


聖に数年前のふたばを見せたら驚くだろうな。変わったことを知っていた私だって驚いている。


「だって……女同士だぞ……そんなの」

「はぁ。それ以上言ったら、あたしマジでお父さんのこと軽蔑するから」


「うん。お父さん、理解できなくても仕方ないと思うから……ちゃんと考えてあげましょう。むしろね、隠さずに話してくれたことがありがたいって思わなきゃ。相手が新本さんでなければ、瑞、うちに帰ってこなかったかもしれないし」


いくら実家から出たくて地方の大学を選んだとはいえ、帰ってこないことはない。はず、たぶん。


父が、音がするほど強く、頭を掻きむしった。まるで頭髪を引きちぎったかのように、その手に数本の毛が絡まっている。


なんか、なんだかなぁ。

あぁ、私は親不孝者なんだなと、ただ、ただ、そう思う。


知らないうちに用意されていた、濃紺のランドセル。

男の子が生まれていたらな、という祖父の言葉。

恐竜のネームプレート。



「お父さん、私が男の子じゃなくて、ごめんね」



父と母が、同時に目を見開いた。昔からよく思ってきたけど、似てるなぁ、この夫婦。

ふたばとサツキも似ているし、人は自分に似た人を伴侶に選ぶのかな。


私と聖は、似ていないな。


「ちが……瑞ちゃん、違う」

「お父さん、なんで私の名前、ハジメにしたの?二番目の娘にハジメなんて、おかしいでしょ」


「ハジメ……このタイミングでそれ聞く?」


ふたばだって、本当は知りたいくせに。


反抗期真っ最中に「あたしはふたばで、ふたりめがハジメ。あたしなんか生まれない方が良かったね」と母に言って、思い切り横面を叩かれていたことを覚えている。


はぁ、と大きなため息をついたのは母だった。


「サツキくんと新本さんの前で話すようなことじゃないんだけどね、家庭の恥だし」

「待て」


「じゃあお父さんが自分で言ったら?お義父さんに『息子、息子』って言われて、お腹の中にいる子の性別が分かる前に、母親に相談もせず『ハジメ』ってつけたって。瑞が幼稚園に入るまで、本当は女の子だってお義父さんに言えなかったって」


あぁ。

ま、そんなことだろうと思った。


今度のため息はふたばから聞こえた。

私の手は血流が止まるほどの強さで聖に握られている。そんなにしなくても、大丈夫だよ。


別にそこまで気にしていない。


たしかに私の名前は男児であることを願ってつけられたのかもしれないけれど、生まれたあとに好んで男の子と遊んでいたのは私の意思だし、あの時、聖が好きだから別れたくないと縋ったのも、私の意思だ。


男児が生まれることを願って男の子の名前をつけるとか、戦国時代かよ、と思わないでもないけれど。納得もできた。

ふたばが食ってかかったときに母が説明できなかったのは、私が理由だったから。張本人がいる前で、「妹じゃなくて弟が良かったから」なんて言えるわけがない。


聖の手を握ったまま、立ち上がる。久しぶりに正面から見た聖は泣きそうな顔をしていて、それが可笑しかったから少しだけ笑った。


「私はお父さんが私を愛してくれたこと、ちゃんと知ってるから。大丈夫。認めてくれなくても、理解してくれなくても良いから。ただ知っておいてほしかっただけ。私の人生には新本聖が必要なの」


リビングから出るとき、母の「ごめんね」と、ふたばの「最低」が重なって聞こえた。


「あとさ、それ、頭皮に悪そうだからやめた方がいいよ」


やめた方がいいと言っても、父はあの癖を辞められないのだろう。それならいっそのことスキンヘッドにでもすればいいのに。

また父にストレスをかけてしまったと、そう思うのに、やはりどこか他人事なのだ。


顔以外に取り柄がない、か。



私の部屋に着くまで、聖はなにも言わなかった。

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