ex. ありったけの未来をくれてやる 5
『はじめ』アルバムに残っている写真は、そのほとんどが小学生までのものだ。
中学時代は学校行事で撮ったものばかりで、どれも楽しくなさそうに遠くを眺めていた。
高校時代に至っては、たったの五枚。学校行事にカメラマンがついてくる小中学校と違い、自分の意思で写真を残そうと思わなければ増えることはない。
高校の入学式、年末に従姉妹と撮ったもの、誰かにもらった夕暮れの教室で黄昏ている写真、修学旅行で友人たちと写った一枚、そして卒業式。
教室の窓際でぼんやりしている写真を聖が気に入ったので、アルバムから引っこ抜いてプレゼントした。
危うく写真一枚が諭吉に変わるところであった。
なんで彼女から写真を買おうとするのかな。
「へぇ、じゃあ新本さんもカメラマンになるの?」
「あ、いえ、それは、えっと、目指していたときもあったんですが……いまは普通に就職しようかな、と」
脚立の座り心地は最悪である。ただでさえお尻のアザが治っていないのに、クッション性ゼロのこれは尾骶骨に厳しすぎる。
夕飯の最中、面接のごとく母から質問攻めにされていた。
「瑞、ぜんぜん撮らせてくれないでしょう?」
「えっ……め、めちゃくちゃ撮らせてもらってま、す……最高の被写体というか、あまりにも顔面が良すぎてレンズ割れるんじゃないかと思ったり、そもそも瑞ちゃんがあまりにもゴッドなモデルすぎて瑞ちゃんしか撮りたくなくなったり」
「ふふ、あははは!聖、勘弁して!ゴッドなモデルってなに!」
笑ったら箸が転がった。
それを俊敏に聖が空中でキャッチするから、その動きにまた笑う。
「瑞がふたばと仲直りしたのって、新本さんのおかげ?」
「それはふたばの反抗期が終わったからでしょ」
「うっさいな、反抗期ってなによ、反抗期って!」
間違えたことはなにも言っていない。
私もふたばも変わった。私は聖のおかげ、ふたばはサツキさんのおかげ。
私が変わったことも要因のひとつかもしれないが、やっぱり長い姉妹喧嘩の終幕はふたばの反抗期が終わったことにある。
「だってふたば、去年からツンデレみたいになったじゃん」
「ハァ!?動くマネキンから感情が芽生えたアンドロイドになったアンタに言われたくないんですけど!?」
アンドロイドは置き去りにした機微を再インストール中だ。
両親とふたば、サツキさんの四人は明日の午後から祖父母宅へ移動する。彼らがこの家に戻る前に私たちは帰る予定なので、六人で食事を摂るのはこれが最後かもしれない。
だいぶ打ち解けてはきたけれど、まだ緊張の抜けない聖が何度も座り直してはお尻の位置を直す。
やっぱり、ちゃんと言う。
そう決めたのは聖だ。
傷つかないように隠れて付き合うよりも、親しい人には誠意を持ちたい、と。
聖いわく、『ほしいのは瑞ちゃんとのハッピーエンドであって、トゥルーエンドでもメリバエンドでもない』らしい。
トゥルーエンドはまだなんとなく分かるけれど、メリバってなに?
あれだけ尻込みをしていたくせに、いったい何が聖の背中を押したのか。
ただ、変なところで度胸がある人だから、聖が言うと決めたことに驚きはしなかった。
私とふたばの言い争いを楽しそうに眺める父は、さて、どんな反応をするのだろう。
私の正面に父、聖の正面に母。予備椅子にふたば、脚立にサツキさん。
話があるんだけど、と切り出したところ、姉カップルが気を利かせてこの配置になった。
サツキさんが淹れてくれたお茶を、ゆっくり啜る。
雰囲気を感じ取ったのか、父の顔は厳しい。母はいつも通り、ただニコニコ笑っている。
膝の上で強く握られる聖の手が見えた。
「あのね、お父さん、お母さん」
私が切り出すより早く、母が口を開いた。
「瑞と新本さん、恋人なの?」
「…………お母さん、サイコメトラーだったんだね」
「なわけないでしょ。大学生にもなって、ただの友だちを実家に連れてくるわけがないって思っただけ」
ケロッとした顔をしている。
なるほど、ふたばが「お母さんは大丈夫」と言うだけある。
私が小学生までは専業主婦だった母は、私の中学入学と同時にパートタイムで働き始め、ママさんバレーまで参加するようになった。
それまでは父と泣くほどの喧嘩をしたり、祖父が家に来るたびに体調を崩したりしていたが、いまではずいぶん明るい表情をする。
結婚前は父と同じ職場で、バリバリ働いていたのだ。元々、専業主婦は肌に合わなかったのだろう。
父方の親戚とも折り合いが悪いのだから、ストレスも溜まるはずだ。
「恋人って……瑞ちゃんと新本さんが、その、付き合ってるってことか?」
「うん」
「改めまして……瑞さんとお付き合いさせて頂いています。ご報告が遅くなりまして申し訳ありません」
おぉ、吃らなかった、と感動したけれど、それを今口にするほど馬鹿じゃない。
震えないように握り締められた手が真っ白になっている。
「お父さん、ちょっと分からないんだけど……その、瑞ちゃんの彼氏が新本さんってことかな」
「私の彼女が聖で、聖の彼女が私ってこと」
「新本さんは、レズってことか?」
お父さん!と声をあげたのは、ふたばだった。
私よりも吊り上がった目をさらに吊り上げて、ふたばが何故か、私たちの代わりに怒っている。
やっぱりツンデレじゃん。
「それ、差別用語だから」
「いや、そうは言っても、なんていうのか分からんし、瑞ちゃんも巻き込まれてるわけだしな?」
「巻き込まれたわけじゃなくて、ハジメが選んだの!」
ありがと、ふたば。
怒るふたばの横で、脚立に跨ったサツキさんが穏やかに微笑む。あぁ、サツキさんはふたばのこういう気の強いところが好きなんだなって、漠然と思った。
「お父さん、まずは瑞たちの話を聞いてから、ね」
父が後頭部をガリガリと掻きむしった。
何度も円形脱毛症を繰り返しているくせに、その癖は抜けないらしい。
「真剣に、付き合ってるよ。私は聖のことが好きで、聖も私のことを好きでいてくれて、だから……恋人になった。私が聖を選んで、私が決めた」
「…………普通には戻れないのか?結婚もできないし、子どもも生めないだろ。お父さんは、反対だな」
硬く握られた指をほどいて、指を絡めた。聖の手は、ただただ冷たい。
「聖以外の人となんか、結婚したくない」
ぎゅうっと痛いくらいに握られた。痛いけど、いまは我慢してあげる。
男女で結婚することが普通なら、子どもを生んで育てることが普通なら、それが普通の幸せだと言うのなら、私が最初から普通じゃなかっただけのこと。
別に良いよ、普通じゃなくても。
「……お母さん全然気づいてあげられなかったんだけど、その、いつから女の子が好きだったの?」
「んー、一年くらい前?」
「そうなの?」
女の子が好きかと問われてもまったくしっくりこない。
だからと言ってこれから先、男の人と恋愛できるかと問われても、首肯はできない。
「分かんない。聖しか好きになったことない」
「ゔッ……」
真面目な空気、壊さないでもらっていいかな。
「とにかく、お父さんは」
「お父さんはちょっと静かにしてて。質問ばっかりでごめんね。で、新本さんはもともと女の子が好きなの?」
静かにすぅと息を吸って、何度か私の手を握り直した。
聖がパニクってもフォローできる自信ないから、頑張れ。
「…………はい。自覚したのは中学生のときで、以来ずっと恋愛対象は女性です」
「ご両親は?そのことを知ってる?」
「父には話しています。母もおそらく、勘づいているかと」
ふぅん、知らなかった。
夜中に聖を送り届けてくれたときには、もう話してたのかな。あのとき聖は車の中の父親に私のことを友だちだと話していた。
まぁ、あの時期では仕方ないか。
「瑞の、何が好きなの?親の私が言うのもなんだけど、顔しか取り柄がない子でしょ?」
「そのお顔が至高なんですけど……」
「もしかして、一目惚れだったりする?」
うんうん、と頷く聖に、うんうんと頷き返す母。
ふたばが茶を啜る音が、場違いに響いた。
反対するとも賛成するとも、まだ答えは出してくれていないが、それでも味方であろうとしてくれることは分かる。
それがこんなにも嬉しいことだと、私は知らなかった。
顔しか取り柄がない、については失礼とも思うが、残念なことに否定できない。何度も母に言われているし、その通りだ。
「顔かぁ。顔よねぇ、この顔だもんねぇ」
「あの、お顔もそうなんですけど……一番は、その、私のことを一生懸命、好きでいようとしてくれるところが……好き、なんですけど」
母の顔がパッと華やいだ。先ほどから何とも言えない顔をしている父と、ひどく対照的だ。
私はただとにかく気恥ずかしい。
「瑞さんと私は、生きている世界が違います。瑞さんはキラキラしたところにいますけど……私はお察しのとおり、人と上手に会話することも苦手ですし、コミュニケーションもうまくとれません。友だちも少ないですし……」
いや、私も友だちは少ないけど。
同学年での友だちといえば、謙太郎と晃太郎くらいしか思いつかない。輪を広げて考えてみても、私は聖と遜色がないくらい交友関係が狭い。
まったくもって、私の世界はキラキラしていない。
「でも、瑞さんはぜったいに私を否定しないんです。考えてくれる。悩んでくれる。たまに意味不明なときもありますけど、でも、どうしたらいいか一生懸命悩んでくれるんです」
ニコニコしていた母の顔に疑問符が浮かぶ。
待って。聖の話には私も首を傾げたい。それ本当に私の話?なんか私、すごい健気な女みたいじゃない?
「瑞って、思考放棄しない?あまり自分で考えないというか、深く考えないと言うか……」
「聖のせいで考えるようになった」
「わ、私のせい?」
そう、聖のせい。
「瑞は?瑞は新本さんのどこが好きなの?」
「分かんない。全部」
「ゔ……」
面白いから、やめようね。
ほら、すぐ考えるのやめる!と言われたけれど、分からないものは分からないのだ。
聖に恋をしているのか問題で散々悩んだ挙句、太郎たちの前で大泣きまでした。どこが好きか言語化しろなどと言われても、そんなの今更できるわけがない。
どこが好きとか、どこが嫌いとか、そんなものをあげたらキリがないし、最終的に聖のそばにいたい、で落ち着くのだから何も問題はないはず。
「聖しか興味ない。聖しかいらない。聖といるときが一番、心が動く」
「ねぇ、ふたば、知ってた?ふたばの妹、超情熱的!」
「あたしに振らないでよ!妹のノロケ聞かされるとか気まずいだけだから」
マグカップの茶を一口飲んで、母が少し真剣な顔をした。
「お母さんは賛成も反対もしない。応援はする。大学生の男女カップルだって、結婚までいくのは珍しいし。どちらかと言えばね、何にも興味がなさそうだった瑞があれだけ笑うの、嬉しかったから」
「ありがと」
「……瑞ちゃんは……」
迷ったように言葉を濁す父を待つ。
プレゼンとか、そんな話じゃなかったな。
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