第81話 了
昼からワインを飲んでいたせいだろう。聖の足下が軽くふらふらと落ち着かない。
私の日傘に入りながら首筋に汗を滲ませて、楽しそうにふにゃふにゃと笑っていた。
「今何時くらいかなぁ」
「実はもう夕方」
「え、うそ」
本当、と返して、聖の左腕を持ち上げる。細いチェーンベルトの華奢な腕時計は、聖によく似合っている。
腕時計の価値なんて知らないけれど、聖がハタチになったときに両親からもらったというこれは、その実とても高価なものらしい。
外し忘れてそのまま温泉に浸かりそうになったときは、聖以上に私が焦った。
時計の文字盤は、たしかに夕刻を示している。
「瑞ちゃんのその癖、かわいいよねぇ」
「……どの癖?」
「私の時計で時間見る癖」
それは癖と言うのだろうか。カバンからスマートフォンを出すのは億劫だし、隣に丁度よく時計があるのだから、活用しない手はない。
便利に使わせてもらっているだけなのだが。
「ぜんぜん夕方に見えない。あっついし」
「ね。でもね、私、夏ってちょっと得したみたいな気持ちになるから好き」
「得?なんかあったっけ」
同じくらいの高さにある目線。傘から顔を覗かせて、茶色い目を細めた。色素の薄い髪に、日差しが反射する。
「なかなか日が落ちないから。一日が少しだけ長くなったような気がする」
「そか。考えたこともなかったけど……言われてみれば、たしかに」
一日が二十四時間であることは変わりないし、日が長いからと言って一日のスケジュールが変わるわけでもない。だからそれは、感覚、という曖昧なものでしかない。
けれど言われてみれば、なるほどその通りで、そんな気持ちになってくる。
日が暮れると、一日の終わりに向かっている感じがするから。
「ありがとう、瑞ちゃん」
「なぁに、突然」
「んー、今日ね、チエリたちと話してて、幸せだなぁって思ったから」
日傘を傾けたら、肌を灼く太陽の光が私たちの隙間に差し込んだ。暑いけれど、それを柔らかく受け止める栗色を見ていたかったから、私は傘を戻さなかった。
聖には、オレンジが似合う。
「私と出会ってくれてありがとう。好きって言ってくれて、ありがとう。私も、私もね、瑞ちゃんが大好き。この世で一番、誰よりも、なによりも、たぶん」
カメラよりも。
私は、傘を閉じた。
晃太郎が教えてくれた少女漫画の主人公たちは傘の中で恋を育てたけれど、私たちには必要のないものだから。
あとひと月もすれば、また秋がやってくる。そうしたら、一年だ。もう一年、ようやく一年。
名前も知らない盗撮魔から、貴女になった。
適当に畳んだ傘をカバンに突っ込んで、右手で聖の左手を握った。
人の関係は変わっていく。これからも、ちょっとずつ。私たちの関係だって、もう何度、名前が変わっただろう。
バス停に立つお婆さんが目元に優しげな皺を寄せながら、そっと会釈をしてくれた。
「女の子同士のお友だちは、仲良しで良いわねぇ」
「…………はい、仲良しです」
夏は日が長いと言っても、やっぱりこうして見上げてみると太陽はもう西に傾いている。
聖が少しだけ寂しそうな顔で呟いた。
「お友だちだって」
だから私は、いつも通りの顔で返してあげる。
「お友だちでしょ」
本人には言ってなかったっけ。
私はまだ、諦めていないのだ。香水を交換したあの日に決めたこと。
「お、お友だちなの!?」
「うん。恋人で、お友だち。ただの友だちには戻れないって、言ったじゃん」
「い、言ったっけ?ごめんね、もう少し分かりやすく!」
言ったよ。たぶん。
手を離して、歩き出す。帰る場所は同じ。私たちは、友人で、そして恋人。
「聖の一番の友だちって、誰?」
「え?えー、チエリたち、だと思うけど」
「ふぅん」
聖が追いかけてくる。
西日が眩しいな。
「私、聖の一番の友だちになること、諦めてないから。恋人の位置も、友だちの位置も。聖の隣は、ぜんぶ私がもらう」
後ろから『ぅゔん!』と、たしかに聞こえた。いまこの瞬間、聖の胸の中を荒らしているのは私なのだ。
聖は感情の爆弾だから。私よりも、ずっと多くのことを感じ取って、考えている。
それが羨ましくて、羨ましくて、やっぱり眩しい。
「瑞ちゃん!」
「うん、なぁに?」
振り返ったら、ガシャンと鳴った。
ガシャン。
その長いレンズを回すと、まるで目の中で瞳孔が開いたり閉じたりするように、ガラスの向こう側に見える影も大きくなったり小さくなったりする。
ガシャン。
今も、あの時も、その前も、盗撮魔のカメラには私の姿が詰まっていた。
ガシャン。
西日を受けながら、私は今日もレンズの向こう側を見つめ返す。
ガシャン。
聖の写真には、聖の感情がつまっている。
ねぇ、いまどんなことを考えているの。ファインダー越しの視線には、いったいどんな意味がつまっているの。
ガシャン。
盗撮魔が、新本聖になった。
写真を介さなければ不明瞭な貴女の感情を知りたくて、私はまたレンズを睨み返すのだろう。
私は今日も、明日も、この先ずっと聖のことを考えるよ。
「瑞ちゃん」
ガシャン。
レンズに向かって、誰にも見せたことがないくらい、いままでの全部をのせて、聖に伝えたくて、思いっきり笑ってやった。
「私も、聖が好きだよ!」
だから、今日も、明日も、どうか、その写真に、貴女の。
ありったけの感情をのせてくれ。
了
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ここまで追いかけてくださって本当にありがとうございました。
次回より番外編となります。書き上がり次第の更新となりますので、お待たせしてしまうかもしれませんが、もしよろしければお付き合いください。
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