第73話

肉を食らおう、と言い出しのは晃太郎である。そのくせ今、晃太郎は肉そっちのけで漫画ばかり読んでいる。


ジュウジュウという心地よい音を流し込みながら、さきほど焼けたばかりの肉を口に運んだ。

晃太郎と謙太郎は焼肉にはライスが必須だと言うが、私は白米を食べたら肉が入るスペースが消えるので、いつも肉だけ食べる。ひたすら、肉だけ。


「晃太、それ、そんな面白い?」

「すげー、おもしれー。キュンッキュンする」

「ふぅん」


肉の脂が容赦なく飛んでくる空間で本を開くなんて、書籍というものにこだわりのある人が見たら、絶叫しそうな光景である。


肉を適当にひっくり返しつつ、焼けていそうなものを晃太郎の皿に乗せた。先ほど乗せたぶんもまだ手付かずで、このままだと肉を積む羽目になる。


「ねぇ謙太。こいつ、なんでこんなことになってんの?」

「わかんね。休み入ったあたりから、急に漫画オタクに目覚めたらしい」


「というかアレ、少女漫画じゃん。映画化してたやつ」


晃太郎の手にあるそれは、数ヶ月前に公開していた映画の原作だった。映画も見ていなければ、原作も読んでいない。予告を見る限りは、ありきたりな学園ものだったと思う。


「おい、あのクソ映画と一緒にすんなよ!アレはもはや別物だから!原作のが二千倍おもしれーから!」

「はいはい。分かったからとっとと食え。次焼くから」


「あのな、ちょっと聞け?雨の中、傘ごしに相手の顔が見えない状況でちょっとずつ惹かれてくんだよ!声と言葉で好きになっていくの!トオルがな、あ、相手の男ね。すげー顔が良くて、学校では王子様扱いされてるわけ。周りにはいっつも人がいるのに、トオルは孤独なんだよ。つまんねー日常の中で、傘にあたる雨の音を聞きながら本を読むのだけが楽しみな寂しい男なの!」


語り出した晃太郎に、謙太郎がわかりやすく嫌な顔をした。その露骨な態度にもめげず、晃太郎のプレゼンは続く。


良い具合の肉は私と謙太郎の皿へ。焼き過ぎた肉は晃太郎の皿へ。


「んで、コヨミちゃんは逆に自分の顔に自信がないんだよなー。でもすげー好奇心旺盛で、傘さして突っ立ったまま本を読んでるトオルが気になって声かけんの」

「あー、はいはい。あれだろ、トオルは天真爛漫なコヨミに惹かれて、コヨミは優しいトオルに惹かれる、とかそんなんだろ。そんで、実は同じ学校で、男は学園の王子様でした、で一悶着」


「なんでわかんの!?謙太郎、作家になれんじゃね!?」


なれるわけねぇだろ、と答えた謙太郎の言葉に合わせるように、網の上の豚トロからブワッと火が上がった。


「アッチ、やべ、めっちゃ火出んじゃん。あちち」


「いやー、でもさー、お互いのことを知ってからのすれ違いが辛いんだよなー!傘の下では明るく笑ってたコヨミちゃんが、自分のこと知ってから笑わなくなったってトオルが悩むわけよ」


手の甲がグラスに当たって、派手な音を立てた。横倒しになったレモンサワーのグラスから氷が滑り落ちて、机の上を濡らす。


「おい、大丈夫か……?」

「あ、うん。ごめん。おしぼり貸して」


良かった、飲み終わったあとで。散らばったのが氷だけだから良かったものの、中身が入っていたら大惨事だった。


溶けかけた氷をグラスに戻し、テーブルを軽く拭く。


「で?」

「は?なにが?」


「いや、コヨミが笑わなくなって、どうしたの。なんでコヨミは笑わなくなったの」


ふたりは一度視線を交わしたあと、そっくりな表情でこちらを見た。


傘のなか。雨の日にだけ交友を深める、なんてロマンチックなことはしていないけれど。仕方ない、気になってしまったのだから。


リュックから何かをごぞごそと取り出すと、晃太郎がスッと何かを差し出してきた。


「……特別に貸してやる」

「読まない。結果だけ教えて」


「オイ!」


傘を持ったキラキラした少女が、キラキラした少年に抱き上げられている。表紙に描かれた世界は何もかもが輝いていた。


恋愛といえば勝手にこういうイメージを抱いていた。恋とは得てして眩いものなのだと。

でも、現実はやはり漫画とは違う。謙太郎の恋も、叶の恋も、聖の恋も、綺麗なところばかりではなかった。


「晃太、つづき。はやく」

「おう?おう、えっと、どこまで話したっけ?あー、顔面バレからのすれ違いか」

「コヨミはなんで笑わなくなったの」


冷たくなった肉を口に放り込んで、うーんと唸る。晃太郎の咀嚼が終わる前に、新たに焼き上がったものが追加された。先ほど火を吹いた豚トロである。


コヨミと聖は別人なのだから、聞いたところで新しい発見があるとは思えない。けれど、考えなければいけない。


否、考えたい。知りたいのだ。私はやっぱり、聖のことが知りたい。


「コヨミちゃんは不安だったんだよな。告白したらオッケーもらって、晴れて恋人になったと思いきや、相手は学校イチのイケメンよ?トオルに無理して付き合ってもらってんじゃねーかって思っちゃったわけよ」

「好きって言って、いいよって言われたんでしょ?それで不安になるの?」


「え、いや、なんでお前がそんな顔してんの……?」


頭に手拭いを巻いた店員が新しい酒を持ってくると同時に、空になったグラスや皿を一纏めに回収していく。


「人間の心、激ムズなんだけど、ほんと……」

「なになにー?ハジメ氏、ショウさんと喧嘩でもしたん?」


「ふられた」


今度は大袈裟に晃太郎が皿をひっくり返した。


「だ、誰が?」

「私が」

「だ、誰に?」


聖以外にいないでしょ。と音に乗せたら、まるで自分の発した言葉に脳を直接殴られたような気持ちになった。


そうだよね。私、もうふられているのに。私と聖はもう、恋人ではない。


「な、なんで?は?え、ショウさんから?んなことありえる!?」

「ありえねぇ」


「恋の賞味期限、切れちゃったってさ」


考え込むようにふたりはじっと黙って、熱された網を見つめる。

言葉にしたことで、より強く実感した。


私と聖はもう恋人ではなくて、聖はもう私のことを好きではなくて、私が考えるべきは聖といかに友人に戻るべきかだということ。


でも。


でも、どうして。私は、聖と友だちに戻りたくない。

楽しかった日々が、お腹を抱えて笑った日々がもう一度欲しいと、そう思っていたはずなのに。


胸が痛い。


「本当に、ショウさんがそう言ったん?」

「……ん、うん」


「ハジメはさー、それで何て返したのよ」


まるでなんてことない世間話をするような口調に戻して、謙太郎と晃太郎は網の上の肉をいじった。


「そっか、って。わかったって、言った」

「ハァァァァ……お前、マジか」

「謙太郎のクソデカため息とか貴重過ぎんだろ」


マジか、と問われても、それ以外にどう答えたら良かったのだ。貴女にもう恋をしていないので別れてくれと言われて、ほかにどう答えれば良いの。


「ハジメはどうしたかったんだよ」


私は。


私は聖と笑っていたかった。


聖との『楽しい』をずっと続けていたかった。


聖といたかった。


「そんな顔するくらいなら縋れよ、ショウさんに」

「……どんな顔してた?」


「メシ食おうと思ったのに餌皿にカリカリが入ってないことに気づいた猫」


謙太郎の例えに、思わず少し吹き出した。愛猫たちの絶望顔を思い出してしまった。

猫は表情筋が乏しいわりに、存外表情が豊かだ。表情も、耳も、尻尾も、けっこうわかりやすい。


「良いのかよ、このままで」

「…………どうしたらいいか分かんないんだもん。自分の気持ちだって、よく分かってないのに」


「ハァァァァ……お前、マジほんと……」


良いのか。良いわけがない。

なら、どうすればいい。分からない。


「聖といたいけど……笑ってくれないんだもん……どうにかしようと思ったのに、どうやったら笑ってくれるのか分かんないし……今まで聖といて楽しいのが当たり前だったから、何していいかも分かんないし……でも、でも」


聖と一緒にいたい。


聖と手を繋ぎたい。


タオルケットに包まって、抱きしめあって、キスをして、また幸せそうに笑ってほしい。


好きって言ってほしい。


『楽しい』じゃなくて、聖の気持ちがほしい。


「聖に会いたい」


鼻の奥がツンとした。


聖に触れられて皮膚がジンジンするような、あの感覚がほしい。聖に笑いかけられてお尻の下がもぞもぞするような、あの違和感がほしい。


また、写真を撮ってほしい。猛禽類のようなあのレンズの奥から、私のことを見てほしい。


「おぉぉうい!泣くなよ!」

「だって……」


「お前、ショウさんのことめっちゃ好きじゃん」


はっとして、奥の歯がカタっと鳴った。

好きだから一緒にいたい。好きだから手をつなぎたい。好きだから笑ってほしい。


好きだから、好きって言ってほしい。


好きだから、聖が好きだから、聖の気持ちがほしい。


好きだから、会いたい。


シャッター音が聞きたい。


「ぅ、ぅぇぇ……っ」

「おま!ガチ泣きはやめろ!小学生みたいな泣き方すんじゃねぇ!」


「あー、あれだな。恋愛絡むとハジメも普通にめんどくせー女だな!」


なんかすげー安心したわー、とまるで他人事みたいに晃太郎が言うから、なんとなく腹が立って机の下の足を蹴り飛ばした。


私、聖のこと好きだった。


「いってぇ!……ハジメ、あれだよ、ショウさんに言った?それ」

「どれ……」

「全部だよ!ハジメの気持ち!好きだって、ちゃんとショウさんに言った?」


首を横に振ると、ふたりから特大のため息が返ってくる。

だって、言うもなにも、自分の気持ちだって今知ったばかりだ。


「ちげぇよ。好きとかそういうんだけじゃなくて、なんで笑ってくれなくなったのかとか、さっき言ってた一緒にいてぇとか、そういう気持ちを話すんだよ」


恋愛ってひとりでするもんじゃねぇだろ。


同い年のくせに、恋愛玄人みたいな顔でそうのたまった。軽くムカつくのに、納得してしまってまた腹が立つ。


「話してみなきゃ分かんねぇこといっぱいあんだろ。俺とカナは話さなかったからギスギスして、話した結果ムリだなってなったけど、ハジメとショウさんはその段階すら踏んでねぇじゃん」


謙太郎に肩をゴンっと殴られた。肩は痛くないけれど、そのかわり胸のどこかが痛んで、重たくつきまとっていた何かがするりと抜けていった。


「もう一回きちんと話して、そんでフラれてこい」


優しい俺らが慰めてやるから。

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