第72話

「見て、瑞ちゃん!パンダ!」

「いや、ウサギでしょ」

「パンダだよ!」


私の暮らすアパートから徒歩五分ほどにある公園で、ふたりして遊んでいた。

動物を模した遊具に跨ってぶんぶんと揺れているが、それはどう見てもウサギだと思う。


手足は白いし、目元と耳の色が違うのは塗装が剥げているだけだ。賭けてもいい、ぜったいにパンダじゃない。


「瑞ちゃんはクマね」

「いや、これキリンでしょ」

「クマだよ!」


言われた通り、"クマ"の遊具に跨る。キリンだと思うけど。じゃないとコイツ、耳が四つあることになるよ。

動物のぶんぶん揺れるやつ、と勝手に呼んでいるが、そういえばこの遊具の名前を知らないことに今さら気がついた。


白いブラウスの裾をひらひらとはためかせながら、聖が揺れる。それに合わせて、私も揺れる。

尖ったヒールが、土に突き刺さった。


「瑞ちゃん、あのグルグル回るジャングルジムみたいなやつ、なんて呼んでた?」

「地球儀」


小学生の時に遊んだあの遊具も、いまでは殆ど見なくなった。

聖の言う"グルグル回るジャンルジム"も正式名称を知らない。低学年の時、近所の誰かが大怪我をして撤去されてしまって以来、姿を見ていない気がする。


「あれ、近所の子どもが指を切断したとかで撤去されちゃった」

「うわぁ、想像しただけで痛い……うちの近くにあったやつは、固定されて動かなくなっちゃったよ」


日焼け止めの効果を突き抜けて、日差しがジリジリと肌を焼く。私も聖も日焼けすると肌が赤くなってしまう。


真夏、風があっても涼しさを感じられないほどの気温。今日の日差しであれば、熱された車のボンネットに生卵を落として目玉焼きが作れるだろう。

子どもの頃は、外で遊ぶのが楽しくて夏が大好きだった。一向に乗れるようにならないくせに、一輪車の練習ばかりしていたのを思い出す。


ふたばが買ってもらった一輪車が、たしかすごく羨ましかったのだ。


「あ、ブランコ乗ろう!」


パンダもどきを乗り捨てて、小走りでブランコに向かう。乗り捨てられたパンダだけ、虚しく揺れ続ける。


平日昼間の公園、猛暑日と呼ばれる今日は遊ぶ親子の姿もない。暑さをものともせずに遊ぶ子どもは熱中症になりやすい。

十年前の夏はここまで暑くなかったはずだ。


あえてゆっくりと、大きくブランコを漕いでいる聖の方へ歩いていく。

無理にはしゃいでいるのは分かっていた。


「ブランコって!こんなに怖かったっけー!」

「体重増えたからでしょ」

「太ったみたいに言うのやめてくださーい!」


子どもが乗るブランコよりも明らかに速度が速いのだから、怖いはずである。落ちたら大怪我をしそうだ。


今日、試験が全て終わり、レポートの提出も漏れなく終えた。講義によってはまだ試験が残っている学生も多いが、私と聖はひとまずの山を越えたといったところ。


出席日数も足りているし、試験でミスがなければ今回もフルで単位を取得できるだろう。卒業が順調に近づいてきている。


「あー、怖かった」


ずざざ、と音を立てて聖のブランコが止まった。


「暑いねぇ、今日」

「……そうだね」

「明日、雨だって」


雨が降ったところで、蒸し暑さが増すだけ。憂鬱だ。

郵便配達の赤いバイクがせかせかと通り過ぎる。


「あのね、瑞ちゃん」


声に出さないまま、ひとつ頷く。

聖はこちらを見ないし、私も聖を見ない。ふたりして、がらんどうのような公園を眺めている。


「審査員特別賞、もらえちゃった」

「えっ、すごいじゃん。おめでと」


「うん。嬉しい。ありがと」


聖の祖父が紹介してくれたイタリアの小さな写真コンクール。どれくらい凄いものなのかは分からないけれど、それでも評価されたのは凄いこと。


「でね、審査員のひとりがね、会いたいって言ってくれたんだって」

「そか。行くの?」

「そのつもり」


以前、イタリアにいた時に自分の写真を持って、色んな人に掛け合ったのだと教えてくれた。そのときは誰にも相手にしてもらえず、心が挫けてしまったのだと。


足りないものは努力だと教えてくれた人がいて、けれど聖はその努力を選ばなかった。それでも、彼女は撮り続けた。


私はそれを、聖の努力だと思う。続けることは、たしかに努力だ。好きだから、その職業につきたいから、親に言われたから、どんな理由であれ続けることは努力だ。


「それでね、予定の日が……鎌倉に行こうって約束した日とかぶちゃって」

「いいよ、それくらい。旅行なんていつでも行けるし」


「……うん」


あぁ、失敗したな。もっと、わぁ!ってはしゃいで喜ぶべきだった。

聖の持ってきた知らせはめでたいことに違いなく、喜ばしいことだ。私もそれを分かっているし、嬉しいとも思う。


だからこそ、こんなふうに会話が途切れるような空気を作ってはいけなかった。


「瑞ちゃん」


すぅ、と大きく息を吸って、はぁ、と大きく吐き出す。それを何度か繰り返して、また私の名前を呼んだ。


清水の舞台から飛び降りたときは、もっと大袈裟な深呼吸だったな、そういえば。


こちらを向いた気配がしたから、私も聖の顔を見た。それでまた、あぁ失敗した、と頭の片隅が呟いた。



「友だちに戻ろっか、瑞ちゃん」



キィンと耳鳴りがして、世界の音が消える。蝉の鳴き声も、車の音も、どこからともなく聞こえてきたはずの赤ん坊の泣き声も。


なんでもないような口調で、そのくせ相変わらず目だけは真っ直ぐこちらを向いている。


唇が震えたのは、たぶん私だけだった。


「友だちに、戻ろう」

「……………うん」


なんでって、いやだって、そう言わなきゃいけないはずなのに。だって、言えるわけない。


分からないから。いつも通りの口調と、真っ直ぐな目と、ふにゃっと笑った口元と、全部がぜんぶちぐはぐで、聖のことが分からない。

本当はなんて言って欲しいのか、分からない。


「解放してあげなきゃって思ってたんだけど、瑞ちゃんのことすごく好きだったから言えなかった。ごめんね。半年も私のわがままに付き合ってもらっちゃった。えへへ、でもね、あの、嬉しかったし、本当に幸せだったよ」


「解放って……」

「うん。手、放してあげなきゃなって思ってたの。いつからだったかなぁ、四月くらいかな?気づいてた?」


瑞ちゃん、ぜんぜん笑ってくれなくなったの。そう言って、唇の端を歪めた。


嘘だ。違う。笑わなくなったのは私じゃない。ふたりでいるときに楽しそうにしてくれなくなったのは、私じゃなくて聖のはずだ。


「瑞ちゃんがね、無理して恋人らしくしようとしてくれたの、分かってた。私と手繋いだり、ちゅーしたり、えっと、その、えっちしたり?そういうの、本当は違和感だらけだったでしょ、瑞ちゃん。そういう顔してた」


もぞもぞした。ジンジンした。聖に触れられると、知らなかった感覚に心が違和感を訴えた。


でも。


でも、嫌じゃなかった。不快なんかじゃなかった。


「だからね、もう私から解放してあげる。ありがとう、受け入れようとしてくれて。本当に、本当に好きだったから。うん、すっごく幸せでした」


ギィと音を鳴らして立ち上がると、すっと右手を差し出した。

手を繋ぐときはいつも私が右手、聖が左手。


ブランコの太い鎖を掴む私の右手を引き剥がして、無理やり握手の形を作った。


「これからは、また仲良しの友だち」


短く整えられた聖の爪。私に触れたいからって、そんな理由でネイルをやめて、深爪にまでした。

聖の短くなった爪は私にとって"恋人の聖"の象徴だった。


好きだった、と言った。好きだった、嬉しかった、幸せだった。それは全部、過去の形。


聖の顔を見上げたら、夏の日差しが痛いくらいに目をさした。


「もう、賞味期限は切れちゃった?」

「…………うん、そうだね。賞味期限、切れちゃったよ」

「そか………そっか、分かった」


立ち上がって、同じくらいの目線にある茶色い目を見つめる。

苦しい。肺がぱんぱんに張り詰めて、これ以上空気を吸い込んだら破裂してしまいそうだった。


意識して空気を吐き出して、口角を上げる。お世辞を言われたとき用の、慣れてしまった愛想笑い。


「友だちに戻っても、一緒に遊んでくれる?」

「もちろん」


「私のこと、好きだった?」


聖の唇が震えて、笑みの形になった。くしゃっと歪んだそれは、どこからどう見ても泣いているようだったけれど。


「大好きだった!」



○●○●○●○


ザァザァと降りしきる雨の音を聞きながら、シングルベッドに仰向けになった。


空港を出たときには快晴だったのに、こちらに帰ってくる途中で雨が降り出した。

聖に別れ話を切り出された翌日も、そういえば雨が降っていたと思う。遠い昔のことでもないのに、記憶は曖昧だ。


謙太郎にふられた叶は泣いていたけれど、残念なことに私は泣くことも出来ない。


聖のほうから近づいてきたくせに。


聖が私を好きになったくせに。


聖が恋人になりたいと言ったくせに。


あっけなかったな。あんなに悩んだのに。あぁ、でも、悩んだけれど結局なにも行動出来なかったのか。


伸ばした手を寂しい顔で受け取ってもらえなくて、私はそれ以上手を伸ばせなかった。


付き合ってほしいと言うのも、別れてほしいと言うのも、どちらも勇気を消費するというのに。聖の好意に甘えて、全てを押し付けてしまったから。


聖はカメラマンになるのだろうか。会いたいと言った審査員のひとと、どんな話をするのだろう。


雨の音だけが響く。


「お前の名前、つけてなかったね」


ヘッドボードに座っていた、青いリボンのペンギンを取り上げた。クリスマスに行った水族館でもらった、小さなぬいぐるみ。


私のキーホルダーはドン・ホセ。聖のキーホルダーはジョー・ブラッドレー。対になるカルメンとアンを探そうって約束したのに。


ペンギンのぬいぐるみを握りしめて目を閉じる。こんなに聖のことを考えているのに、やっぱり涙は出ない。

悲しいのか、なんなのか、心の落ち着けどころが分からない。


分からないだらけで、本当に嫌になる。


泣きたい、とそう思った。泣けたらいいのに。聖、聖って名前を呼びながら泣けたら良かったのに。

公園で話をしたあの日から。聖と友人に戻ったあの日から、ただただ胸が苦しいだけ。


「間に合わなかったなぁ」



胸のどこかがつっかえて、やっぱり涙は出ない。



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ストック分の推敲が間に合わないため明日、明後日の更新はお休みとなります。


この展開のさなかで本当に申し訳ないのですが、再開後は完結まで残り数話を突っ走りますので許してください……

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