第71話
私と聖の愛想笑いを受けて、ふたりはたいそう幸せに笑いやがった。
あー、はいはい、おめでとう良かったねお幸せに。と適当に返したところで、ふたりには紙吹雪の舞う祝福の言葉に聞こえてしまうのだろう。
メッセージで『うまくいった』と報告してくれるだけで良いのに、わざわざご報告会の席を設けてくれた。といっても小洒落たレストランでもない、駅前のファミレスだけど。
今日は俺の奢りだからさ、なんて格好つけて言われても、と思ってしまう。大学四年にもなって、ファミレスで奢った程度でマウントをとられてもなぁ。
叶とソウマ先輩がお付き合いをすることになった。
それはとても良いことだ。いくら叶と仲良くなったからと言って、謙太郎との一件が無かったことになるわけではない。
もちろん叶とソウマ先輩が恋人になったことで、その過去が消えるわけではないけれど、なんとなく一区切りついたような、そんな気持ちだった。
向かい合っている状態では見えないけれど、降ろされた二人の手は机の下で繋がっているのだろう。
横目で聖の表情を伺えば、先程と変わらぬ愛想笑いを浮かべていた。
まぁ、付き合いたての幸せビームを照射されてもね。
「なんか応援してもらったみたいで、恥ずかしいな」
「まぁ、はい、友達なので」
「ハジメさん、あたしのこと友達って思ってくれてたんだ」
わりかし本気で驚いている叶に苦笑を返す。友人だと思っていない人間と遊び歩くほど、私は八方美人にはなれない。
スノボ合宿のあの日から、私と叶はちゃんと友人付き合いをしてきたはずだ。
「じゃあ、叶はサークルも入るの?」
「そのつもり。先輩は就活で忙しいけど、あたしもやっぱり音楽やりたいし」
「ハジメちゃんも歓迎するけど?」
遠慮します。
やたら勧誘していると思いきや、どうやら内部で揉めて人数が大幅に減ってしまったらしい。どこも、人が多く集まれば諍いごとが起きる。
叶の言う「音楽をやりたい」は、けしてその道を生業にしたいという意味ではない。あくまで一番の趣味として携わっていたい、ということだろう。
羨ましいな、と素直に思う。
まだバンドを組んでいたときの叶を、私はあまり知らない。もしかしたらキーボードを弾く姿を見たこともあるのかもしれないが、残念ながら記憶に残っていなかった。
ファミレスの安いパスタをフォークでくるくると持ち上げて、楽しそうな叶とソウマ先輩を観察する。
「あっ」
「どうしたの」
「ぅ、ううん、なんでも」
バイブレーションの鳴ったスマートフォンを確認した聖が、驚いたような小さな声をあげた。
なんでもない、とは言うけれど、髪から覗く耳がほんのりと赤く染まっていて、聖が高揚していることは分かる。
茶色い目からキラキラと光が溢れて、緩みそうな口元をきゅっと引き結んだ。
「叶、ソウマ先輩。食べたら私たち帰りますね」
「え、ハジメさん、なんか用事あった?」
「ないけど、カップルの邪魔するのも悪いし」
随分と嬉しそうに、叶が相貌を崩す。幸せそうで良かった。
そう思うと同時に、先程の聖の表情が胸にドロドロと纏わりついた。
その連絡、誰から来たの。嬉しそうだけど、何があったの。最近は、私といるときはそんな顔してくれないくせに。
「聖、半分あげる」
「はいは……って、え?」
食道あたりがジクジクと気持ち悪くて、まだ半分以上残っているパスタの皿を聖のほうに押しやった。
「瑞ちゃん、具合悪い?大丈夫?」
「悪くないけど、なんで?」
「いつも以上に食が細くいらっしゃるので」
こちらを気遣うような視線が気まずくて、口角の端を上げて誤魔化した。人のお世辞が面倒くさくなって、笑って場を流すときの顔だけど、仕方ない。
だって、これ以上の顔なんて作れないし。
誰からの連絡だとか、なんでそんな顔してたのとか、こんなことを言えば困らせるだけだ。私とふたりでいるときにもその顔してよ、なんて言われても、意図してできるものではない。
気遣ってほしいわけでも、心配して欲しいわけでもないのだ。私はただ、『聖との楽しい』を逃したくないだけ。
もしこれが恋だと言うのなら、それはなんて自分勝手な感情なのだろう。
聖の『楽しい』は聖が決めること。
聖がくれる『楽しい』は、きっと私がひとりで楽しいだけで、そういえば友人になった頃から"聖にも楽しんでもらおう"なんて考えてもいなかった。
私が勝手に楽しいだけ。
この『楽しい』にはこの人の『楽しい』も必要だったのだと気づいた今、私にはどうして良いのか分からなくなっていた。
もしこれが恋なら、それはあんまりだ。あまりにも醜い、エゴの押し付けだ。
幸せカップルをおいてファミレスを後にするまで、私はそんなことばかりをぐるぐると考え続けていた。
鷹条大前駅からアパートの最寄り駅まで、たった数駅しかない。いくら都会と違って一駅間が長いと言っても、膨大な時間がかかるわけではない。
空いた車内に隣り合って座りながら、私は黙って流れる景色を眺めていた。
聖は先程からスマートフォンに文字を入力するのに夢中で、こちらを気にする様子もない。
ぽちぽちと指を動かす聖に視線をうつして、こっそりとその手元を覗き込む。ズラズラとアルファベットが並んでいて、少し目眩がした。
「………イタリア語?」
「ぇ、あ、うん。おじいちゃんに、返信」
しょっちゅう使うわけじゃないから、一向に上手くならないんだよね。そう言いながら、一文字、二文字と入力していく。
現地の人ほど達者でなくとも、会話を聞き取れて文章を組み立てられるだけ凄いことだと思う。
第二言語でドイツ語を履修していても、私は簡単な会話すらできない。
「さっきの……も、おじいちゃん?」
「ん?さっき?」
「…………ファミレスで嬉しそうにしてたとき」
思い出すように少し頭を傾げて、あぁ、と恥ずかしそうに頷いた。
「そんな顔してた?」
打ち込んでいたメールを一時保存して、相変わらず読めもしないイタリア語だらけの画面を見せてくれた。
「最終選考にね、残ったんだって」
「あ、写真?」
「そう!大賞は難しくても、特別賞とか貰えたらいいなぁ」
以前、応募作品を悩んでいたコンテスト。私の写真を送ったと言っていたのに、すっかり忘れていた。
「すごいじゃん」
「えへへぇ。瑞ちゃんの顔が良いからね、当たり前だよね!」
「聖の実力でしょ」
事実、いくら私の顔が良くても、写りによっては酷いときが多い。父が撮った旅行の写真なんかは、私もふたばもただの不細工なガキンチョだ。
娘ふたりを可愛い可愛いと溺愛する割に、残っている写真はどれも酷い。聖の写真には聖の視線が乗り移るけれど、それはあくまで彼女の腕前あっての話。
「大賞とったら、カメラマンになれる?」
「あはは!なれない、なれない!高校生のときだったら調子に乗っただろうけど、さすがに今はね」
叶はピアノを弾くのが好きだと言うし、聖は写真を撮るのが好きだ。ふたりともそれは趣味というカテゴリーで、どちらも義務は伴わない。
しかし叶はそれを仕事にしようと、音楽で食べていこうと思ったことはないと言う。
聖は、カメラを生業にしようとしていた。
「本当に商業カメラマンになりたかったら、日本に帰ってきたときに専門学校に行ってるよ」
そう言った聖の声は自嘲を含んでいて、そのくせ表情は負のかけらもない、穏やかなもの。
聞いても、見ても、覗き込んでも、聖の本当の気持ちが私には分からない。今でも仕事にしたいんじゃないのって、そう聞いてしまいたいのに、顔を見ると聞けなくなる。
聖の声と、表情と、行動は、いつだってちぐはぐだ。だからこそ、知りたくなる。どういうことだろうと考える。
出会ったときからそう。私はたぶん、聖のことばかり考えていた。
「聖、レポート書いた?」
「まだー。半分もやってない」
「………そろそろ夏休みだね」
楽しみだね、と言うくせに、ほら。ぜんぜん楽しそうじゃない。
楽しみだと言うのなら、楽しそうな顔してよ。
なんで、ずっと寂しそうなの。
「あのね、瑞ちゃん」
「うん」
「試験落ち着いたら、聞いてほしいことあるんだけど、良い?」
頷いてはいけないって、それは直感だった。
幼いとき、親戚の訃報を知らせる電話が鳴った。聞き慣れたはずの固定電話の音に、私は何故か嫌な予感がしたのだ。
実際、電話の内容は人の死を知らせるものだったし、こういうときの不穏な気配というのは確かにわかるものである。
そのときの空気に似ていた。
あぁ、聖はきっと、嬉しくない知らせを持ってくるのだろうな、って。
ふと、梅雨の教室で「俺はハジメとショウさんを応援してる」と言ってくれた謙太郎の言葉を思い出した。
応援、か。
私も叶に「応援してる」って言ったなぁ。
応援は外野の仕事だ。恋の応援って、なんだろうな。分からないことだらけだ。
聖と会って、仲良くなって、恋人になって、キスをして、セックスをして、そのあいだずっと、分からない分からないって、そればかり。
「うん、いいよ」
聖の顔も見ずに、私は了承した。
聖がいないときは、聖に会いたくなる。心が動いていることを実感する。
そのくせ、聖がいると心の加速についていけなくなる。
心が動いていることに嬉しいと思ったはずなのに。
電車内は涼しくて、外が殺人的な暑さだなんて忘れてしまいそうだった。
景色は流れていく。私を置き去りにして、いつだって全部流れていく。
仲良しの男の子が男性になって、同級生の女の子を理解できなくなって、ふたばと仲違いして、そうやって私が追いつけないまま流れていってしまう。
「…………やだな」
聞こえないように、そっと呟いた。
間に合えと伸ばした手は、寂しい顔をした聖に受け取ってもらえなかったから。伸ばした時には、賞味期限が切れていたから。
隣り合った電車の座席、ほんの数ミリの距離を縮める勇気が、私は出せなかった。
きっとまた私は、置いていかれるのだろう。
あぁ、やだなぁ。
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