第74話

雰囲気に流されて「本当に良い友人を持ったな」なんてしんみりできたのは、焼肉屋から帰る電車の中までだった。


フラれてこい、とはいかに。


そこはもっとお前なら大丈夫だとか、まだ間に合うだとか、そういう応援の言葉があっても良いのではないか。とは言え、私も叶に似たようなことを言った気がする。あまり覚えていないけど。


だいたいのことを適当に流してしまう私と違って、太郎たちへの相談はきちんと相談として機能していた。でなければ、ここまでスッキリとした気持ちではいられなかっただろう。


意図しない相談会になり、挙句の果てに泣くなんていう恥を晒したけれど、あの時間があって本当に良かったと思う。


「残念だなぁ!心底残念だなぁ!」


本当に、良かった。


満席のストゥルティという珍しい状況を乗り越え、ようやく洗い物を全て終えた。拭き終わったワイングラスを所定の場所に掛けていく。


満席は何度か経験したが、「申し訳ありません。ただいま満席でして」という文言をあれだけ口にしたのは初めてだ。ラーメン屋じゃあるまいし、回転の悪いバーで並ぶ人などいないから良いものを、それでも疲れたことに違いはない。


「傷心中だったら簡単に手出せると思ったんだけどなぁ!残念だなぁ!」

「マスター、ナッツの補充してください。帰れません」

「はいはい。なーんでこんなにケロっとしてるかねぇ。ハジメもショウちゃんに本気だったでしょうに」


最近ショウちゃんとどうよ、と聞かれ、フラれたと答えたところ、延々とこの調子なのだ。傷ついて凹んでいるハジメを見たかったのに、その状態だったら簡単に手を出せたのに、うんぬんかんぬん。どうたらこうたら。


別れたあとに好きだと気付く、という最悪な状況を迎えている今、正直人生で一番凹んでいると思う。ひとりになると相変わらず聖のことばかり考えているし、意味もなくイタリアとの時差まで調べた。いま向こうは何時かな、何してるかな、早く帰ってこないかなって。


明日帰国するという連絡を受けて、今朝からどんな理由をつけて呼び出そうか散々悩んでいた。良い言い訳はまだ思い付いていない。


それでもこうして平然としたフリをしていられるのは、ずっと重くのしかかっていた"分からない"に答えが出たからであろう。


「ま、ハジメがフラれるとは思ってたけど、案外もったね」

「は?え?私そんなにフラれそうでした?どこが?」


「ここで分からないところがジゴロっぽくて良いんだよなぁ、この子」


しゅぼっと小気味よい音でライターを灯すと、咥えたタバコに火をつけた。一口目をすっと吸い込み、誰もいない空間にふぅと流す。

マスターの手元には、もう加熱式タバコはない。付き合っていた女と別れたその日に封印したと言っていたので、余程気に入らなかったのだろう。


ジゴロだとか無自覚ハーレムだとか、周囲の女たちからの言われようが散々である。そもそもジゴロというのはマスターのような人のことを言うのであって、私のような恋も知らなかったウブな女に使う言葉ではない。


「ジゴロは置いとくとして、参考までになぜ私がフラれそうだとお思いになられたのかご教授ください、先生」

「素直な生徒は嫌いじゃないよ、ハジメくん」


マスターはストゥルティのマスターでもあるが、恋愛マスターでもある。マスターのアドバイスがいかに的確であり、そしてその言葉をいかに真剣に受け止めるべきだったことに、ここにきてようやく気づいた。


聖の好意に気づき、どうしたら良いだろうと相談したとき、マスターは言ってくれたのだ。


『わからないうちに焦って答えを出しても、良いことなんかないよ』と。


あのとき私は聖との『楽しい』を逃したくないという理由で、自身の好意もはっきりしないままに結論を急いだ。それどころか、足踏みしていた聖の背中を蹴り飛ばしたのは私自身である。


その結果が、いま。


「ヒントだけ教えてあげる。人間っていうのはね、強欲なんだよ。こと恋愛に関しては、際限のない欲しがりさんになっちゃう人が多い」

「欲しがりさん……いや、全然分かりません」


「うははは!悩めよ、若者!」


考えても分からないから聞いていると言うのに。

ふっと煙を吹きかけられて、思わず咽せた。聖と付き合い始めてから久しくやられていなかったので、反射で避けられなくなっていた。


受動喫煙がいかに害悪か、小一時間説教したい。


「ところで、ハジメ」

「はい、なんでしょ、ぅお!近いっ!」


「ショウちゃんと別れたってことは、君はいまフリーってことだ」


形の良い目を細め、薄い唇をニッと歪めて笑う。いつの間にか距離をつめていたマスターにジリジリと追い詰められ、ステンレス台に腰がぶつかった。


洗ったばかりの道具たちがカタカタと音を立てる。

えっと、これ、どういう状況……


「私が君を口説いてるの、冗談だと思ってた?」

「お、おも、ってまし、た……けど!」

「ずっと本気だったって言ったら、信じる?」


いつのまに火を消したのか、まだ数口しか吸っていないであろう先ほどのタバコは、もうマスターの手になかった。


これ以上後ろに下がることもできず、とりあえず上半身だけそらしてなんとか距離をとろうとするも、そんなことはお構いなしと言わんばかりに顔面を寄せてくる。

薄暗い店内でも分かるほどの瞳の光と、楽しそうに上がりっぱなしの口角。


色気の爆弾すぎて怖い。


「ひぇっ」


そっと頬を包まれ、至近距離で顔を覗き込んでくる。


ベッドへのお誘いがいつも冗談なのか本気なのか分からず、勝手に冗談として処理していた。

私、もしかしたらずっと勘違いしていたのかもしれない。悩むべきところは冗談か、本気かではなかった。


"遊びなのか"、"本気なのか"だったらしい。


「骨の髄までドロドロになるくらい可愛がってあげるよ。悩む暇なんて与えないくらい、愛してあげる」


心臓がばっくんばっくん鳴り響いている。トキメキでドキドキしているなんて可愛らしいものではなく、これはれっきとした恐怖である。


食われる。


私をウサギに、聖を猛禽類に例えたことが何度もある。訂正しよう。

私は虫で、聖はそれを食べる可愛らしい小鳥ちゃんだった。鷲はこの人だ。


食物連鎖の頂点、怖い!


「私と付き合おう、ハジメ」

「ほ、ほんきですか?」

「冗談で若い子に手出したりしないよ、さすがに」


残り数センチという距離で見つめ合うと、瞳のふちにコンタクトレンズの青いラインが見えた。コンタクトをしていることは知っていたけれど、そういえばメガネを掛けているところは見たことがないような気がする。


しかし、やはりどうにも違和感がすごい。この違和感は聖がいるときに感じたものとは別物で、明らかに心が『この人ではない』と訴えかけるものだった。


頬を包んでいた手を引き剥がして、しっかりと目を合わせる。


「私、まだ聖のこと諦めてないので。ごめんなさい、マスターとはお付き合いできません」

「……じゃ、私も諦めずに待つとしますかー」


「えぇぇ……諦めてくださいよ。というか離れてください、ほんと、あの、腰つらいんで」


部屋の明かりをつけるみたいに、マスターの雰囲気がいつもの飄々としたものに切り替わった。ダウナー系モテ女の本気、怖い。


身体が離れていこうとした瞬間、カランカランカラン、と入り口のベルが鳴った。

現在、深夜一時。客のはけてしまった今、新たな客が来るなんて私もマスターも思わず、クローズ作業を進めてしまっていた。


「こんばんは、瑞ちゃんまだいます、か…………失礼しました」


ひょっこりと顔を出したのは、まさかの聖であった。足元にスーツケースが置かれている。


マスターに迫られ、手を握りあっているようなこの状態。どう考えてもよろしくない。

開いたばかりの扉が、ゆっくりと閉じられようとしている。


あ、これまずいやつ。


「ま、ま、待って!待って聖!ストップ!閉めないで!行かないで!帰らないで!待って!違うから!ちょ、マスター早く退いてください!邪魔!」

「ぉおっと!うはは!」


マスターを押しのけてカウンター内から走り出ると、むんずと思い切り聖の肩を掴んだ。


「着替えてくるから待ってて!本当に違うから!待っててね!帰らないでね!マスター、あがりますお疲れ様です着替えます!」


勢いに押されて何も言わない聖と、元凶のくせにケラケラ笑っているマスターを置いて、スタッフルームに飛び込んだ。

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