第51話
「ねぇ、聖」
西日に目を細めながら、柵の向こう側に視線を送る。湯煙のなかに映える常緑は少し眩しいくらいで、なるほど絶景を眺めながらの露天風呂とはこういうものなのかと感じさせる。
肩も触れ合わない距離で膝を抱える聖には、いったいどんな景色に見えているのだろう。
「もう少しカジュアルに触れ合えませんかね」
「ぅ……で、できたら苦労してねぇです、瑞の姐さん」
「だーれがアネさんじゃ」
いかにも"その気になってます"という顔をしていたくせに、宿に戻ってまずは温泉に入ろうと誘った瞬間にヘタレた。
聖が恋人になりたいといったくせに。このヘタレっぷりはいったいどう言うことなんですかね。
たしかにお尻の下がもぞもぞするし、心臓は違和感をビシバシ訴えてくるけれど、聖と触れ合うことは嫌いじゃない。どちらかといえば、中毒性があって怖いくらいだ。
抱き合って寝るのは大好きだし、キスだって気持ち良かった。
そもそも、嫌だったら私から引き寄せたりしない。嫌だったら、いいよ、なんて言わない。
湯の中で気づかれないようそっと手を伸ばして、俊敏な動きで二の腕を掴んだ。はい、捕獲。
「昨日だって私が捕まえなかったら永遠にお湯の中でグルグルしてだろうし」
「それは、あの、ハイ」
「上から見たら完全に永遠のゼロだったからね」
その映画見てないです、とボソッと言われたが、今はそんなことどうでもいい。
二の腕を掴まれてもなお、逃げようとするこの人のほうが大問題である。
「夜だってそうだし。そのあとだってそうだし」
関係の距離をつめてくるのはいつも聖。
物理的な距離をつめていくのはいつも私。
「もっとさぁ、カジュアルでいいよ。ハグもキスも、えっちも」
「はぁぁうぇぇ……瑞ちゃんの口からえっちとか聞こえると本当に良くないです!」
「散々、肉汁とかしゃぶしゃぶとか言わせた貴女が言いますか!」
二の腕を掴んだまま、一気に距離をつめる。本当、何度目?
どう考えても呼吸が止まっている聖を無視して、聖の手を私の胸に押し付けた。
「ゔ!」
「聖って処女?ん?この場合は童貞のほうが正しいのか?女相手って考えると、私も童貞ってことになるのか?ん?」
「ハァウ、アァ、アァァ、アノ!アノ!テ!テガ!ヤ!ワ!ヤ、ヤワ!ングゥ、フゥゥゥゥ」
現界したばかりの悪魔みたいになっている。いや、現界したばかりの悪魔なんて見たことないけど。
処女、非処女、童貞、非童貞。あぁ、うーん、どうでもいいか。
「落ち着いた?」
「手の中に瑞ちゃんの瑞サマが座す状態で落ち着ける人間が本当に人間であるのかの議論を行いたいところですが現状を鑑みるにその議論は後回しにすべきでありワタクシは瑞ちゃんから頂きました当初の質問に答えるべきと結論致しますワタクシは性的な体験は経験済みですが処女膜はおそらく健在です」
「うん。落ち着いてないね。落ち着こうね。ヨシヨシ」
手を胸に押し付けた状態では一向に落ち着かないかとも思うのだが、手を離したらぜったいに逃げることも分かっている。
「で?聖はなんでそんなにヘタれるの?」
「………………罪悪感がね、ハンパねぇんすわ」
「んー?んー……んー?」
色事を知らない無垢な少女に手を出そうとしている罪悪感とか、そういうやつ?
「ほら、瑞ちゃんって天使じゃない?天の御使さま。もうね、魂の格すら違う神々しい御人に私は欲情して、あまつさえその欲を本人で満たそうとしているなんて、という」
「分かった分かった。ストップ。意味は分からないし、宗教的で怖いから」
なに、天のミツカイサマって。どこぞの宗教家かよ、怖いよ。
えーと、欲情はしているけれど、私がミツカイサマだから罪悪感を感じている?は?ふざけてるのかな?
表情の感じ、うん、ふざけている。
「あのぉ……えと、真面目な話。私ね、女の子と付き合うのは初めてじゃないの。高校生のときね、女の子が好きって公言してる先輩と諸々あってね」
ふぅん。と言おうと思ったけれど、なぜか声にならなかった。
まぁ、別にそれは良いのだけど。処女とか童貞とか、私から聞いたことだし、どうでもいいやって思ったことも確かだし。
なのに、なんか、なんだろう。
過去の聖は私の知らない女に欲情して、行為に及んだ、と。
私との性的なシーンは避けるくせに?
「だ、だけどね!瑞ちゃんはちょっと違うというか……こんなに深いところまで誰かのことを好きになったのなんて初めてだし。その、瑞ちゃんに触れてるとドキドキとかそういうの通り越して、頭の血管切れそうになるの。マジで死にそうになるの」
「さっきのミツカイサマどこいった」
「罪悪感もマジ」
うーん。どうしたら良いものか。
聖はセックスしたくないの?過去の恋人と私は違うということ?なにが違うの?聖の心の在り方?
欲情うんぬん、ミツカイサマうんぬんは冗談っぽかったしなぁ。
恋人という関係に身体の触れ合いが必ずしも必要であるのか、そんなことを語れるほど、恋というものを知らない。
私が過去に築いた恋人との関係にはキスやセックスが必要で、相手が求めるからそれに応えてきた。
なにより、聖が言ったのだ。
あの日、舌を絡めたいとか触りたいとか舐めたいとか、そういうことをしたいと聖が言ったのだ。
だからこそ私は、聖の言う恋人をやるためにはそういう触れ合いが必要なのだと思った。
あれはパニックを起こした聖が、パニックになったまま口走った適当な言葉で、本当はそこまで求めていないのだとしたら。
否、否。オレンジのアルバムに乗せられた聖の感情には、たしかに欲があった。
それも勘違いだとしたら?欲情とかなんとか言っているけれど、その実、精神的な繋がりで満足するような人だとしたら?
私が思い込んでいたから、そう見えただけだとしたら?
あれ、待って、私猛烈に恥ずかしいのでは?
「えぇと、なんか、ごめん?」
胸に押し付けた手をそっと離す。
ついでに、一歩距離をとる。
四角い湯船の端まで、すすすと後ずさる。
「ん?ん?え?はじめちゃん?」
「えーと。聖の気持ち考えなくて、ごめんね?」
あれ、なんだろう。胸の、真ん中の、ちょっと下。キリキリする。またこれだ。
なんか。恥ずかしいし、いたたまれないし、なんだろうか、この気持ちは。
「えっと?瑞ちゃん!?え!?え!?」
「先、出るね。えーと、ごゆっくり」
勢いよく立ち上がったら、ザバァと波がたって、気温が落ち始めた外気が肌を撫でた。
夕日が綺麗なのになぁ。
自分でも驚くような機敏さで全身を拭いて、カラカラとガラス戸を開けた。
わかんない。わかんない。胸の下部は気持ち悪いし、思わず逃げちゃったし、逃げた理由も意味わからないし。
だって、あれでは私がすごくキスしたくて、すごくセックスしたいみたいじゃない?
すごく深いところで好きになったって言っていた。それは良いよ、嬉しいと思う。
でも、意味はわからない。どいうこと?精神的なこと?
聖がヘタレるのは、ヘタレているわけではなくて、そこまでの欲がなかったということ?
踏みとどまってしまえるくらいの欲だった?
私が勝手にそう思い込んでいたから、聖の態度がそういうふうに見えていただけ?
うわぁ、なにそれ。めちゃくちゃ恥ずかしい。
聖とのキスは気持ちが良かった。
聖の手がうなじを撫でるのは気持ちが良かった。
触れ合ってもいいと思った。
その先を知りたいと思った。
聖はそうじゃなかったのかな。
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