第52話

浴衣を羽織ってゆるゆると帯を結ぶ。


浴衣を着る機会なんてそうはないから、いつもどっちが前だっけ?と迷ってしまう。帯の結び方も、これで正しいのかどうか、自信はない。


着れたら良いのだ。着れたら。


ん?正しく着れていないから、寝ている間にはだけてしまうのだろうか。


頭の中に残る羞恥を追い出そうと必死に浴衣について思考していたら、カラカラカラとガラス戸が鳴って、ずぶ濡れの聖が飛び込んできた。


「は、じ、め、ちゃん!」

「え、いや、拭きなよ。風邪ひいちゃうよ」

「う、うん。拭く!けど!わぶッ!」


バスタオルを頭から被せてワシワシ。肩、腕、胸、腹。背中、お尻、太もも、ふくらはぎ。上から順々に拭いていく。


なんか、大きい犬を拭いているみたい。


籠に入れていた下着と浴衣を手渡すと、素直にそれを着た。


「あの、あの!ごめんね、瑞ちゃん」

「なにが?」

「あ、え、分かんないけど……」


私が急に立ち上がったから追いかけてきた。というところかな。

少し時間がかかったのは、思考停止していたから?


逸らされた目にモヤっとした。


「理由も分からずに謝るのはよくないと思うよ」


尖った声が出た。

良くないのは私だ。勝手に機嫌を悪くして、それを態度に出して、場の空気を乱す。


自分の機嫌は自分で取るべきだ。もう子どもじゃないのだから。

咄嗟に謝ろうとしたら、戸惑ったような色を湛えた目がこちらを向いた。


「じゃあ、教えて」


ほかほかになった手が、少し冷えた私の頬を包む。そのまま目の奥を覗き込まれた。


「傷ついた目、してたから」


傷ついた?


違う。違うと思う。自分の盛大な勘違いに恥ずかしくなっただけだ。


「まだ、してる」


親指が私の唇をなぞる。聖の体温が皮膚を通して流れ込む。


「瑞ちゃん、たまに凄い角度でシナプス繋げてくるから。だから、ごめんね。分からないから教えてください。私が瑞ちゃんのことを傷つけたかもしれないなんて、耐えられないよ」


心臓がぎゅうっと縮こまって変な動きをした後、キリキリした気持ち悪さが、いつものもぞもぞした違和感に形を変えた。


こっちのほうがいい。


下唇が優しく撫でられたかと思うと、ふにと押された。

聖に触られると、やっぱり皮膚がじんじんする。


「ド直球で聞いていい?」

「二秒待って、覚悟決めるから………いいよ、どうぞ」


「聖、私とセックスしたくないの?」


フリーズ。

というより、もはや電源プラグごと引っこ抜かれてシャットダウンしたパソコンみたいになっている。それか、ブレーカーが落っこちた家電用品。


覚悟はどうした、覚悟は。


私の頬を両手で包んだまま動かない。電池が切れたロボット、のほうが良いだろうか。


フリーズしているときは、たくさんの言葉が舞っているのだろうか。それとも、文字通り思考が停止しているのだろうか。


覗いてみたい。知りたい。


あ、動き出した。


「ごめんね、もう一回言ってもらっていい?」

「聖、私とセックスしたくないの?」


「ン、ンー……?……………超したいですけど!?」


包まれていた頬がぎゅうぎゅう押される。ぜったい顔面崩れていると思うのだけど、あの。


あ、したいんだ。と脳が理解した瞬間、心がふわっと安堵した。恥ずかしい勘違いでなくて良かった。


「え、したいですけど!?」

「だって、聖ヘタレじゃん」

「や、え、待って、待とう?私さっき恥をしのんで、『瑞ちゃんに触れてると死にそうになる』って言わなかった?あれめちゃくちゃ言葉通りの意味ですけど!?度が過ぎた興奮で脳みそ壊れそうになるの分かって?キスしてるだけで鼻から溶けた脳みそが出そうになるの!」


冗談みたいな言い方されたら分からないよ、ばか。ミツカイサマとか言われて本気だと思うわけないでしょ、ばか。


あ、目がギラギラしてる。


なんで私、この目を見て安心しているのだろう。やっぱり感情機関のどこかがおかしくなっている。


「というか、瑞ちゃんこそ分かってる?私、女だよ?本当に良いの?お友達の延長線じゃないんだよ。瑞ちゃんに拒否されたり、怖がられたり、気持ち悪いって思われたり、そんなの今度こそ死んじゃう」


淀みなく喋る聖の目は真っ直ぐで、私いま聖の一番なんだなって、それが嬉しいのだ。

それに応えたら聖の一番でいられるって分かるから。


お友達の延長線じゃない。


「私、いいよって言った」


私の頬をぎゅうぎゅう押さえつける手を引き剥がして、一度だけ唇を重ねた。


「男とか女とか、どうでもいい。聖のこと怖いなんて思わないし、聖が気持ち悪いのなんて今さらでしょ。拒否なんかしないよ。しないから」


逃げないでほしい。


あの退屈にはもう、戻りたくない。


今度は聖から唇を重ねて、いつも通りヘラっと目元を緩ませた。


「興奮しすぎて大量出血したら、慌てず騒がず、救急車を呼んでください」


だから私も、笑って言った。


「AEDの設置場所、確認してないや」




布団の上、向かい合って寝転びながら、額や頬に聖の唇を感じている。仕返し、とたまに顎に唇を押し付けると、聖が嬉しそうに笑うから、鼻先にもキスをあげる。


「ねぇ、瑞ちゃん」

「ん?」

「私、前世で聖女だったのかもしれない」


なに言ってんだコイツ。


怪訝な目で見つめてみても、聖はいたって真剣な表情をしていて、茶化して良いものかも微妙なところ。

いや、本当、真面目な顔して何を言っているのだ。脳外科とか連れて行った方が良いのだろうか。


「たぶん前世でとんでもない徳を積んだんだと思う。ナイチンゲールばりの徳」

「ごめん。私にも分かるように説明してもらっていい?」


「あまりにも幸せすぎて現実味がないって話」


そう言って笑うと、また唇を寄せてくる。顎を上げて応えようとしたのに、逸れて頬に着地した。


キスしないの。


目で問うても、ふふっと優しく笑うばかりで、頬や耳に触れるだけ。

見えないうぶ毛を確かめるように、指先がするすると首筋を撫でる。ぞくぞく、ぞわぞわ、じんじん。キスしたいのに。


至近距離で止まって、目が合うと微笑んで、なのに唇には触れてくれない。私から触れようとしても、角度をずらして逃げていく。


ちょっと、不満げな顔をしてしまった。


「あぁー……かわいい……」

「……………聖」


「うへへぇ、えへ、ふふ……ごめんね。キスしてって顔が猛烈に可愛くて、つい」


聖のくせに余裕綽々なのが腹立たしい。


そんな顔してたかなぁ、してたんだろうなぁ。


「……………キスして」

「私死ぬかも」


ふざけている聖の下唇に吸い付けば、首筋をゆるく撫でていた手に頭を固定されて、逃げられなくなった。

そのまま、深くまで入り込んでくる。


貪るように、でも優しく。私はただ必死に、それについていく。キスって、こんなんだった?


いつのまにか外されていた帯。触れるか触れないかの優しさで肌を撫でる手。唇の端から漏れる吐息。


セックスなんて初めてじゃない。こんなものか、としか思わなかった身体の触れ合いで、ここまで頭が真っ白になるなんて予想だにしていなかった。セックスって、こんなんだった?


「気持ちいい?」


そういうことは聞かないで欲しい。

気持ち良くないときに、相手を傷つけないよう「気持ちいい」なんて言ったら嘘になる。

でもね、本当に気持ち良いときに「気持ちいい」って言ってしまうのは、全身が壊れそうなくらい恥ずかしい。


優しいのに。声音もキスも優しいのに、聖の指は全然優しくない。


「教えて、瑞ちゃん」


細く、声が跳ねる。恥ずかしくて口元に持っていった手を、邪魔だと言わんばかりに押さえつけた。好き勝手しやがって。


「っ……ぜっ、たい、や」


だって、ずっとゾクゾクしていた。

背筋が、頭の芯が、手のひらが、足先までも、ずっと。

気持ち良いなんて言葉にしたら、どうなるか分かったもんじゃない。勘弁してよ、本当。


なんで聖、そんなにセックス上手いの。ヘタレのくせに。

指先が器用なのかな。


心臓を素手で撫でられているような違和感から逃げたくて、でも自分から誘った手前、逃げられなくて、あぁ追い詰められているって自覚したとき、あの猛禽類みたいな捕食者の目に捕らわれた気がした。


これはマズい。たぶん私、聖にレンズを向けられるたびに、この感覚を思い出す。



聖の指の長さを恨みながら、頭の冷静な部分で、夕飯の時間に間に合うかなぁ、なんて考えたのは現実逃避だったのかもしれない。


せっかく確認したAEDの設置場所は、役に立たなかった。

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