第50話
夜中、目が覚めた。
散々舌を吸われて、うなじや背中を撫でられて、そのせいで下着が大変なことになっているのは自分でも気づいていた。だけど、聖はそれ以上私に触れてこなかったし、私も聖に触れなかった。
じわじわその気にさせられている気がする。
相手の体に欲情するわけではないけれど、そういう場面になったらその気になる、ってふたばもそう言ってたな。
聖の体に欲情するだろうか、と思って、気持ち良さそうに寝ている聖の浴衣をぴらっと捲ってみたものの、なんとも言えない罪悪感が沸いたので丁寧に戻した。
まぁ、セクシーではあった。
窓に寄りかかって、夜空を眺めてみる。雲に隠れて、月は見えない。月齢を習ったのは中学校だっけ。それとも小学校かな。いつ習ったのかも、その内容も忘れてしまった。勉強したな、という記憶があるだけだ。
月、か。
無重力空間は楽しいのだろうか。大金を出せば、何年後かの宇宙旅行に行けるらしい。宇宙にまで飛び出して行く。人類はすごいなぁ。
見えないかな、月。見えないな。
肩に触れる窓が冷たい。布団に戻ろうか、どうしようか。
寝る前にもう一回温泉に入りたかった、とぼんやり言った私に、明日も一日あるよ、と聖は優しく返した。
明日はなにをしよう。なにを食べて、どんな話をしよう。
思考だけがつらつらと流れて行く。
「…………はじめちゃん?」
「ごめんね、起こしちゃった?」
振り返った聖は布団に身を沈めたまま。薄明かりのなか、たぶんその意識は半分夢の中。
「……シャングリラ、みつけた?」
シャングリラ?ヒルトンだっけ。
理想郷とか、桃源郷とか、そんな感じの意味。
声が出なかった。夢と現を彷徨う聖が、あんまりにも寂しそうだったから。
「……わたしも……つれてって」
どこに、理想郷なんてみつけてないよ、ここにいるよ。どの言葉をあげたら良いのか、私にはわからない。
私が求める理想郷は、どこにあるのだろう。実家かな、それとも大学近くのアパートかな。帰る場所って、なんだろう。
理想郷ってなんだろう。考えたことも、なかったなぁ。
夜はいけない。センチメンタルな気持ちになってしまう。
聖の求める解答が分からないから、私の答えたいように返すことに決めた。
「いいよ」
薄っすらと、部屋の中に月明かりが差し込んだ。あぁ、雲が途切れた。
「聖も連れてってあげる」
どこに帰るのかは、分からないけれど。だって、貴女がいればどこにいても楽しい。
月明かりに照らされた聖が、幸せそうに微笑んだ。
「んん……まぶ、しい」
あぁ、夜中に起きたときにカーテンを閉め忘れていた。朝日が顔面に降り注いでいる。
同じタイミングで目が覚めたらしい聖が、腕をぐっと上げて伸びをした。
あっぶな!顔面殴られるかと思った。近距離で寝ている弊害。
私の顔面にダメージを食らわせたら、私以上に聖のダメージが大きそう。殴られてみれば良かった。
「おはよ」
「ぉ、ぉぉ、おおう!」
「もはや朝の挨拶ですらないけど」
そう赤くなられると、こちらまでどうしたら良いのか分からなくなる。
りんごのほっぺ、なんて形容されそうなほど可愛らしく染まっているくせに、口から漏れ出ているのは言葉にならない奇声だ。
私そろそろ、聖の奇声翻訳アプリの開発に乗り出した方が良いかもしれない。
「おはよ、聖」
「おは、おおおおは、おは、よう」
「で?聖はなんで朝からわけの分からないことになってるのかな?」
枕に頭を乗せたまま、わざとらしく肩をすくめて見せる。副音声は『やれやれ』だ。
聖の茶色い目が、ふらふらっと泳いで、私の顔面に到着したかと思うと、また泳いでいった。
「朝からちょっと刺激が強くてですね……その、もし宜しければ瑞ちゃんの瑞サマが見えないようにお隠し頂けると、その、大変ありがたいのですが……」
「あぁ」
浴衣ってはだけるよね。浴衣で寝てはだけないひとってこの世にいるの?そこまで寝相が悪いわけではないと思うのだが、上も下も見事なはだけっぷりを晒している。
いそいそと胸元をなおして、臙脂色のナイトブラを隠した。というか、聖も聖サマがお見えになっておりますが。
「せっかく隠したけど、朝風呂しませんか、聖さん」
「します」
おはよう、とようやくまともな挨拶をくれた聖が起き上がって、唇の端にひとつ、キスをした。おはようのキスだってさ。
恋人みたい。いや、恋人なんだけど。
自分でやっといて悶えるのはどうかと思う。
遊覧船に乗って、神社でお参りして、お茶屋さんで抹茶とお団子を楽しむ。日が落ちないうちに旅館にもどり、また温泉に入る。そんな計画。
聖の肩にぶら下がっているカメラには、私があげたネックストラップがついていて、ペンギンたちが楽しそうに踊っていた。
「聖、次は江ノ島いこう」
「良いねぇ。水族館もあるし」
「うん。あそこよりずっと大きいし、有名だし」
団子を飲み込んで、しらす丼食べようね、と聖が言った。生しらすの美味しさは分からないけれど、釜揚げしらすは大好き。
あのハンバーガー屋の店主も、サーフボードを抱えて由比ヶ浜に行ったりするのかもしれない。
「海、好き?」
「きらい」
「あー、ね、うん。瑞ちゃん、海嫌いそう」
そう言う聖にも、海のイメージはない。
別に海そのものを嫌っているわけではなく、付随する諸々が嫌いなのだ。紫外線は肌の敵だし、潮風は髪の敵。老若男女入り乱れる、あの大混雑。
少し、想像してみる。
海に行くなら水着だけれど、私も聖も海には入らないだろうから、わざわざ買いに行ったりしないだろうな。
日焼け対策を万全にして、賑わう砂浜を歩く。人が多い、なんて文句を言うのだ。
海の家でご飯を食べて、かき氷なんか食べたりして、それで聖のシャッター音を聞く。
うん。悪くない。
「聖は海の写真撮りに行ったりしないの?」
「たまにする。けど、海は精密機器に優しくないから」
「あぁ、カメラね」
聖が抱えているカメラはどうやら随分と繊細な生き物らしく、お手入れをいつも欠かさない。レンズをお掃除している様子を見せてもらったこともあるが、お手入れ道具だけでも色々なものがあった。
「ま、うちの子は防滴防塵の優秀な子ですけどね!」
「ボーテキボージン。強そう」
「つよ、う、うん。タフだよ」
自慢げな顔をして、カシャン。
レンズの動きに、昨晩の聖を思い出してしまった。熱くて、欲望が剥き出しで、そのくせしてどこまでも優しい。
唇の柔らかさまで連想しだした思考を追い出すように、レンズを睨みつける。
「ぅゔん……」
カメラを下ろして、聖が顔を覆った。
「撮らないの?」
「その顔はまだ撮りたくない……」
「私どんな顔してた?」
自分の顔をぺたぺたと触ってみたけれど、流石に触っただけでは分からない。
否、聖には私が見えない景色まで見えるから、きっと鏡があっても分からないままだろう。
「色々と私の堤防が決壊しそうなお顔でいらっしゃいます……」
「なるほど、全然分からん」
「旅館に……戻りませんか……」
なるほど。なんとなく理解。
いいよと答えて手を差し出したのに発作中の聖は茶屋の座席からなかなか立ち上がらない。差し出した私の手を見て悶えて、私の顔を見て悶えて、一向に収まる気配がないので、追撃してみた。
栗色の髪をかき分けて耳を露出させ、そこに唇を寄せて囁く。吐息を含ませるのも忘れない。
なんだっけ?十八禁ボイス?
「しょう、はやくいこ」
壊れたパソコンみたいにフリーズして、ぴくりとも動かなくなる。耳を澄ませたらエラー音が聞こえそう。
静かな茶屋で爆笑するわけにもいかず、仕方がないので笑いを堪えながら勝手に会計を済ませて、聖の再起動待った。
動かない。石像のような聖。アフレコしてみる。
「燃え尽きたぜ、真っ白にな」
「それはジョー!わたしはショー!」
「あはは!起きた!」
楽しそうに、でも照れたように笑うから、私は心臓の違和感を誤魔化すために目を逸らすのだ。
大切な『楽しい』がこの違和感に侵食されていく感覚が怖くて、聖の隣を歩きながら心臓をさすった。
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