第43話

残念ながら我が家に体温計なんてものはない。


そうしょっちゅう風邪を引くわけでもなければ、基礎体温を毎日記録するマメさもない。そもそも生理周期はかなり安定していて、記録をとらなくてもホルモンバランスによる変化がわかりやすいのだ。


生理痛もそれほど重くないので、毎月ダウンするようなこともなかった。


大学に入学して一人暮らしを始めてから、ここまで明確に体調を崩したのは初めてのことだと思う。


だからと言って、体温計を新たに買うつもりもない。


「あーんしてもいい?」

「そんなに重病人じゃない」

「御無体な!」


レトルトの湯煎したおかゆに鮭フレークをぶち込んだだけのそれ。

深皿にうつしたおかゆを手に、聖が不満げな顔をしていた。


講義が終わった瞬間、講義室に乗り込んできた聖に、連れ去られるようにしてアパートまで帰ってきた。

途中でコンビニに寄って買ってきたものが、おかゆと解熱剤と使い捨てのマスク。


オンボロ原付くんは、大学の駐輪場に置き去り。


聖はマスクをしている。この一枚にどれほどの効果があるのかは不明だが、なにもしないよりマシだろう。

なるべく聖にうつさないように、加湿器もフル稼働させている。ローテーブルに置かれた加湿器からもくもくと水蒸気があがり、部屋の向こうをぼんやりと霞ませた。


「瑞ちゃんにあーんするために来たのに!」

「クリスマスに散々やったでしょ」

「あれで中毒になった」


出掛け先で『ひと口ちょうだい』とやるだけならまだしも、完全に食べさせてもらうのは恥ずかしすぎる。体がまったく動かないような重病人ではないのだ。

むしろ晃太郎のときと比べると軽症ですらある。


器を渡せ、とベッドの上から手を伸ばしても、聖は頑として動かない。

じっと目を見つめても、聖はただ見返してくるだけ。いや、ちょっとたじろいでいるけれど。このまま睨めっこを続けたら勝てる気がする。


でも、まぁ、いいか。誰も見ていないし。聖が喜ぶのなら。仕方ない。


「あー」

「ぐはッ!」

「…………やっぱり自分で食べる」


何に打ち抜かれたのかは知らないが、その気がないのなら、と悶絶している聖から器を取り上げた。


「後生!後生ですから!あっしにやらせてくだせぇ!お嬢の世話だけがあっしの生き甲斐でやんす!」

「…………粗相のないように」

「へぇ!ありがてぇ!ありがてぇ!」


極道の娘と付き人かな。


うやうやしく取り上げた器から、スプーンでひとすくい。ふぅーとさますと、私の口元にそっと近づけた。


スプーンを口にいれたところから飲み込むまで、聖が私の様子をじっと眺めている。なんか、視姦されている気がする。


「目がやらしい」

「おぉぉうぇぇええ!?」


皿とスプーンがカタカタと抗議した。

言ったそばから粗相しかない。


「次。あー」

「うううぇぇぇぇ」

「自分で……」


ごめんなさい!ごめんなさい!やります!と器が遠ざけられ、また新しいひと口を差し出す。

やっぱり視姦される。


マスクのせいで、目元しか見えないのだ。普段見えている口元が隠れ、より一層視線を強く感じる。

普段は豊かすぎる表情に隠れていただけで、瞳だけ見るとこんなにも熱い。どこから食べてやろうかって、そんなふうに言われているみたいだ。


レンズに狙われているときに近い熱を感じて、思わず睨み返した。そう簡単に食えると思うなよ。


聖がたじろぐ。目を逸らす。

ふん、雑魚め。


どうやら真面目にやる気がないようなので、おかゆは結局自分で食べた。あの調子でやられたら、食べ終わるまでにきっと二時間くらい掛かるに違いない。

聖は文句を垂れていたが、そんなことは知らない。視姦する聖が悪い。


解熱剤を飲んで横になり、聖が食器を洗う音を聞く。注意書きに『飲んだ後は車の運転をするな』と記載されていた。ほんやりした思考は、熱のせいだけではないのだろう。


生活音のBGMは心地いいけれど、洗い物が少ないせいか、すぐに止まってしまった。


「瑞ちゃん」

「洗い物、ありがと」

「どういたしまして。夜のおかゆとお薬置いておくけど、ひとりで大丈夫?」


ベッドの横にしゃがんで、聖が問う。


大丈夫か大丈夫でないか、その二択ならば大丈夫と答えるほかない。インフルエンザほど酷いわけではないし、咳が出て苦しいということもない。


熱があるからと言って、子どもみたいに心細くなるわけでもない。


だけど。


布団の中から手を伸ばして、肩にかかった聖の髪に触れた。柔らかい。


「どどどどうしたの?」

「んー、なんでもない」


マスクをしていると、動揺した時の面白い顔が見られない。声もくぐもって聞こえる。邪魔だなぁ、これ。


マスクのふちをすりすりとなぞったら、また動揺する。



可愛いなって、心の隅っこが思った。

ふぅん、面白い、じゃないんだ。



私を見つめる聖の目は、風邪を引いているわけでもないくせに、たぶん私より熱っぽい。


「はじめちゃん」


マスクに触れていた手がとられ、握られる。


指先が絡まった。


親指が、私の甲を撫でる。


「はじめちゃん」


じんじんする。


撫でられているところがじんじんする。


マスクを外さないまま聖の顔が近づいてきて、残り五センチのところで顔を逸らした。私から。


響くのは加湿器の音だけ。


「うつるよ」


はっとした聖の目がじわじわ大きく見開かれて、その奥の、奥の、奥のほうに、傷ついた色が見えた。


「ご、ごめ、ごめん……ごめんなさい。かえ、かえるね!」


引き止める間も無く、オレンジ色のリュックを掴んで、聖が消えた。



聖、と呼んだ私の声も、ドアの音にかき消されて消えた。

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