第42話

隣でずっとズビズビ汚い音がしている。


「ハジメ、ティッシュちょうだい」

「………はい」

「サンキュ」


渡したポケットティッシュを取り出して、晃太郎がまたもや汚い音で鼻をかんだ。

基礎ゼミのときからこんな調子である。


「五億年ぶりくらいに風邪引いたわー」

「晃太、バカじゃなかったんだね」

「バカでも風邪ひく証明になっただけだろ」


私と謙太郎の暴言に言い返す元気もないらしく、ぼんやりと食券機を見つめている。熱でもあるのではなかろうか。

せめてマスクくらいしてほしい。


「俺、うどん食おう」

「は?」

「え?」


これは結構重症なやつでは。


お釣りと食券を受け取って、フラフラと受け渡し口に向かった。


「え、ねぇ、アレ熱あるんじゃないの」

「だよなぁ……あいつがうどんしか食わないのはヤバい」

「あのままバイク乗ったら事故りそう」


私たちが自分の食事を受け取って席についた頃には、晃太郎の目がなんだか虚になっていた。食欲がまったくないわけではなさそうだが、明らかに朝より悪化している。


いただきます、と手を合わせて食べ始めても、私たちの席は静かだ。晃太郎が騒がないと、音が足りない。


カタン、と隣の空いた席にトレーが置かれた。


「ハジメさん、隣いーい?」

「叶じゃん。おはよ」


いいよ、と答えてカバンとコートをどけると、迷わずそこに座った。うん、香水のつけすぎは見事に調教されたらしく、鼻が曲がることもない。


「え、いや、カナ、なにしてんの」

「ハジメさんとご飯食べにきたの」

「お、おう。そうか」


晃太郎は静かだし、謙太郎と叶は目も合わせない。どちらかといえば、叶より謙太郎のほうがそわそわと落ち着かない様子である。


「あ、叶、あれ使ってみた?」

「使ってみた!伸びがすごいし、ファンデの乗りもいいし!あたしも買おうかなって思って調べたんだけど、高くない?ハジメさんいつもあんなの使ってるの?」


叶に余っていた化粧下地の試供品をあげたのだ。自分で使っているものがそろそろなくなりそうだというから、なら試しにどうぞ、と。


「高いんだけどめっちゃ伸びるから、あんまり減らないんだよね。安いやつ使って、伸びは悪いわしょっちゅう買い替えなきゃいけないわっていうのは嫌じゃん?」

「たしかに……でも高いやつは一回の出費が大きいんだよねー」

「わかる。私、ファンデとかもそこそこ高いから、なくなりそうになると絶望する」


からからと笑う叶の声に共鳴するように、晃太郎がズビーっと鼻を鳴らした。うわ、うどん残してるじゃん。


「晃太くん、風邪?」

「んー、うん。ヤバいかもしんね、寒気がする」


「帰ったほうがいいよ。あ、ちょっと待ってて」


すたっと立ち上がった叶が、食べかけの定食を残して走り去っていった。


「晃太、大丈夫?」

「だいじょばない……」

「代返しとくからカード貸せ」


晃太郎が自分のリュックをごそごそ漁っている間に、叶が戻ってきた。手にはお冷と二錠の薬。


「ショウさんから解熱剤もらってきた。はい、晃太くんこれ飲んで帰りな」

「おう、まじさんきゅ」


「………え?聖から!?」


当然、みたいな顔をして叶が頷いた。

なんで聖が解熱剤持ってるの。なんでそれを叶が知ってるの。


「ショウさん、痛み止めとか胃薬とか、なんかいっぱい持ち歩いてるよ」

「知らなかった」

「あと絆創膏とか、消毒液も。自分で歩く救急キットって言ってた」


知らなかった。


いや、知っていたらどうという話でもないのだけど、なんだろう。なんか、なんか、んんん……


胸のあたりが、気持ち悪い。


「わりー、帰るわ」

「ん、あ、晃太!ちゃんとバスで帰りなよ」

「んぁー……たしかに。そーする」


ふらふらの晃太郎は酔っ払ったみたいな足取りで帰っていった。

明日は流石に休みかな。一晩で熱が下がったとしても、ぶり返すこともあるだろうし。あいつも出席日数は足りているだろうから、その辺りは問題ないだろう。


それに、学生証は謙太郎が預かっているし。


「なんか、大人しい晃太郎って気持ちわりぃな……」

「ね。別人みたい」


「……カナ、ありがとな」


どういたしまして、と微笑んだ叶はおかしなところもなく、感情が揺れているようには見えなかった。

でも、本当に?人の中身なんて、見ているだけではわからない。叶はいま、なにを考えているのだろう。


私に共感できる力があれば、叶の気持ちを察することができたのだろうか。

そうすれば、私も聖に恋ができたのだろうか。


友達とか、楽しいとか、一番とか、そんなことで悩まずに、選択することができるのだろうか。


胸の奥が、気持ち悪い。



翌日の火曜は、案の定晃太郎は休みで、それでも私たちは普段通りの日常を送った。謙太郎と講義を受け、聖と昼食を食べ、廊下で会った叶と談笑をする。


胸の奥の気持ち悪さは、聖といるときだけは感じなかった。


「申し訳ありません」

「………許さない」

「いや、ほんとスマン」


水曜。風邪を引いた。まさかすぎる。なんで謙太郎はうつっていないのに、私だけうつるのだ。理不尽だ、この世界は。


朝、なんとなく体調が悪いような気もしたのだが、まぁ行けるか、と思ってこの様だ。今、猛烈に具合が悪い。

前頭葉がズキズキと重たくて、身体に力が入らない。一限が始まった直後から悪寒が始まった。


講義終了まで残り十五分。水曜の講義が一限だけというのは、不幸中の幸いだった。


『ごめん、風邪引いた』

『お昼いけない』

『ごめんね』


すぐに既読がつく。しばらく間が空いて、ぽこぽことメッセージが返ってきた。


『あんた、相手間違えてる』

『あったかくして寝なさい』


あれ、ふたばだ。あれ?あ、送る相手間違えた。離れたところに住んでいるのに、風邪引いた、なんて言われても困るだろう。申し訳ない。


ふたばに謝ってから、全く同じ言葉を今度こそ聖におくった。


『だいじょうぶ?』

『家に薬とかある?』

『熱ありそう?』

『食欲は?』

『おかゆとか常備してないよね』

『帰りひとりで平気?』

『送っていこうか?』


「く、ふふ……」

「なに、熱で壊れた?」

「なんでもない、ふふ」


『あんまり酷いようなら病院行ったほうがいいよね』

『付き添おうか?』

『保険証持ってる?』


まだ続いている。


『心配だから迎えに行って良い?』

『行くね』

『というかもう講義室の外にいる』

『だいじょうぶ?』


「やばい。吹き出しそう」

「まぁ、元気そうでなによりだけど、突然笑うのは怖ぇから」


『はじめちゃん?』

『お返事ないけど大丈夫?』

『そんなに具合悪い?』


『へいき』

『ありがと』


ありがとう存じます、とカーテシーをするクロリーナのスタンプを送ったら、咽び泣いているクロスチャンが返ってくる。


うちまで一緒に来てくれるのかな。そのまま一緒にいてって言ったら、何時までいてくれるのかな。



あと五分、はやく講義終わらないかな。

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