第34話

謙太郎に呼ばれて大広間についた頃には、すでに酒盛りが始まっていた。

今年入学した未成年もいるというのに、そんなことはお構いなしである。


吹雪は夕方になる前にやんだが、酒が入ってしまえば、もはやスノーボードどころの話ではない。急性アルコール中毒患者が出ませんように、畳で吐く人間がいませんように、と願うばかりだ。


「ふあぁぁぁぁ……極楽ぅ……」

「ショウさん、オヤジくさい」

「温泉は人間を堕落させるのだ……」


人が疎らな温泉に、私たちは身を沈めている。


私たち三人はアルコールを飲まず、まだ明るいうちから日帰りの温泉施設に足を運んだ。

宿泊所にも大浴場はあるのだが、まぁ、そこそこボロくてそこそこ汚い。せっかく徒歩圏内に日帰り温泉があるのだし、吹雪もやんだのだ。行かない手はない。


温泉に行く!と言い張った私に、ふたりがついてきた形になる。


熱めの湯が気持ちいい。


「ハジメさんもショウさんも、おっぱい大きくない……?」

「んあぁぁぁ……」

「いや、ハジメさんまでオヤジにならないでよ」


寒さで凝り固まった筋肉が、熱い湯で解されていく。どうしてオヤジにならずにいられよう。


しかし、おっぱいねぇ……


自分の胸を両手で掴んで揉んでみる。自分の胸だ。

聖を見ると修行僧のような"無"の顔で虚空を見つめていた。さっきまでの堕落したオヤジはどこにいったのか。


カナちゃんのじっとりした視線が、私の胸元に注がれている。カナちゃんも小さいわけではないと思うけれど。


「実はそんなに大きくない。私も聖も」

「カンジーザイボーサツギョージンハンニャーハーラーミータージーショーケンゴーウンカイクードーイッサイクーヤク」


「え、ちょ、なに!?般若心経!?怖いんだけど、聖やめて!」


突然ボソボソと唱えられた経に、カナちゃんと揃ってギョッとする。

聖は面白い女だが、「アハハ!オモシローイ」では済まない怖さが滲んでいる。般若心経をそらんじる女子大生、怖いから。


「ごめんね、変な人だから、この人」

「あ、うん……で、ハジメさんのおっぱいだけど」


「シャーリーシーシキフーイークー!クーフーイーシキシキソクゼークー!クーソクゼーシキジューソーギョーシキ!」


音量上がったし!


「怖いからやめなさい!」

「ろろろろろろろ露天風呂いいいいい行ってくるます!」


ザバァっと立ち上がって、猛烈な勢いで露天風呂に消えた。


「えーと?」

「今日の聖は一段とおかしい、ということで」


「あー、うん」


なんの話してたっけ。あぁ、胸か。胸ね。


「私も聖もアンダーがそれなりに細いから。胸自体はそんなに大きくない」

「触っていいですかって聞こうと思ったけど、ショウさんが死にそうだからやめておく……」


「死者に呼びかけてそうな空気だったしね」


しかし、不思議だ。


私はいまカナちゃんと風呂に入っているのだ。ある程度和解できたらしい私たちのあいだには、数日前までのギクシャクした空気はない。


ひと月前には、あたしのケンくんに手出さないで、みたいなことも言われたのになぁ。


「ハジメさん、わかってる?」

「………聖が私を好きってこと?」


「自覚あったんだ……いいの?」


いいの、とはなんぞや。誰と仲良くするかは私が決める。いいと思ったからそばにいるのだ。


「気持ち悪いとか思ったりしないの?」

「んー?んー……んー……女の子に好かれてることが?性的な目で見られてることが?」


「どっちも」


それはあまり考えたことがない。


たしかに、マスターと知り合うまでの私は男性と恋愛することが当たり前だった。女は男に恋をするもので、男は女に恋をするもの。当たり前のように女であることを享受してきた私にとって、それは常識であった。


情報社会と言われる現代に生まれ、さまざまなメディアで情報を受け取れる現代っ子な私は、同姓同士の恋があることを知っていた。ボーイズラブと称される恋物語のジャンルを知っているし、それを趣味とする同級生もいた。


マスターと知り合うまでは、同性間の恋は私には別世界の話だと思ってさえいたのだ。

では、マスターと知り合って、それに忌避感を覚えたか。それは否。


私はマスターが同性を恋愛対象に含めることを知って、『ふぅん』と思った。

私が引いたのは、どちらかといえば同性に恋をすることよりも、恋人が複数いるマスターの爛れた恋愛事情のほうだ。


マスターに自分が性的な対象と見られていることを知って、私は忌避感を覚えたか。それも否。

マスターと恋愛したら、爛れた性生活を送るハメになりそうだなぁ、とは思ったけれど。


「そもそも、同性同士のなにが気持ち悪いのかも分かんない。好きでもないひとに無理矢理迫られたら、男だろうと女だろうと怖いよ」

「それはそうだけど、そうじゃなくて……」


カナちゃんの言いたいことは分かる。自らの常識に外れたものを目の当たりにすると、人間は嫌悪や忌避を抱くものだ。


野菜や家畜の肉を食べることが当たり前で、同族を食料として見ない人間は、カニバリズムを忌避する。

生卵を食べたり、踊り食いなんていう生食文化を持つ日本人を嫌悪する外国人がいるのと同じ。


「ベルリンの壁」

「はい?」


「ベルリンの壁に恋した女。知ってる?」


首を横に振った。湯につかないよう雑にまとめられた髪が、一房さらりと落ちる。


「対物性愛、だったかな。二年になったら講義でやると思うけど」

「はぁ」

「ベルリンの壁にね、恋をして、結婚した人がいるんだよ」


ベルリンの壁と結婚した女が実在する。あまり興味がなく、さらりと講義を聞き流して終わってしまったが、印象に残ったのは事実だ。


「どう思う?」

「え、そんな人もいるんだなーって」

「うん。私もね、ふぅんって思った」


無機物に恋愛感情を抱く人間がいる、と聞いても、私はふぅんとしか思えない。へぇ、そうなんだ、としか。


「イルカと恋愛して、ペッティングした人間。知ってる?」

「え、や、知らないけど……」


どう思う?と聞くと、カナちゃんは少し悩んで、先ほどと同じような返答をした。


イルカと恋愛した人間、こちらも実在する。しかもひとりではない。


「ズーフィリアって言ってね、動物に恋して、動物とセックスしたりする人たちがいるんだよ。どう思う?」

「え、気持ち悪い」


なるほど、イルカは平気でも、動物と一括りにしてしまうとダメらしい。


「私はね、ふぅんって思った」

「あっさりしてる……」

「無関心ともいう」


講義を聞いてさまざまな反応をする学生たちの中で、私は『ふぅん』と思っていた。


私は聖ほど感受性が豊かではない。あっさりしていると言えばその通りだし、無関心だと言われてしまえば否定できない。


だから私は、憧れという押し付けで私に追随しようとする女の子が分からないし、恋愛感情でもなく私に理想を押し付けようとする女の子が分からない。

そういうものだ、と頭で理解できても、彼氏の女友達に嫉妬する気持ちが理解できない。


「同性同士の恋もね、ふぅんとしか思わないの。物に恋するのも、動物に恋するのも同じ。ふぅん、で終わり。もし自分が飼ってる猫に恋しても、衛生観念とかそういうところでは悩むかもしれないけど、恋をした事実についてはたぶんそこまで悩まない」


だから、聖のことも、聖に向けられる感情も、気持ち悪いとは思わないんだよ。そこまで言い切った。


なんだか真面目に語ってしまった。


たぶん私は、嫌だったのだと思う。聖を気持ち悪いものとして扱われることが、聖の感情を気持ち悪いものだと認識されることが、嫌なのだ。


隣からぶくぶくぶくぶく、という行儀の悪い音が聞こえる。

子どもみたいにお湯をぶくぶくさせるカナちゃんを眺めていたら、しばらくしてプハッと上がってきた。


「ハジメさん、格好いい」

「そう?ありがと」


どこが格好良かったのかは謎だけれど。まぁ私、顔が良いし。


「そういうところも。敵わないなって思う」

「敵わない、ねぇ」


「ケンくんも晃太くんも、たぶん本当はハジメさんのこと好きだもん」


ふぅん、と返した。


謙太郎と晃太郎の気持ちなんて、謙太郎と晃太郎たち本人にしかわからない。そうだと思う、なんて曖昧に言われたところで、聖のアルバムみたいに決定的な証拠があるわけでもない。


そうだとしたら、もし本当にそうなら気まずくならないと良いな、としか思えなかった。


「ここでもふぅん、なの……」

「んー、うん。ふぅん、だね」


謙太郎と晃太郎に大事にされていることは知っている。盗撮魔と近づいたことへの過保護なまでの心配も、生理中でダウンしている私への心配も、男女入り乱れる飲み会で気遣われるのも。


電車で私だけ座り、ふたりが私をガードするように前に立っていたときには、流石に笑ってしまったけれど。そこまでしなくても良いよ、と言った私に、やべぇやつに付き纏われたことあるだろ、と苦笑いで言われた。


こうして考えてみれば、ふたりが私の『彼氏一号二号』と言われてしまうのも、無理はないのかもしれない。


私たちは友人という枠の中におり、それは三人で一纏めだけれど、個人で切り取っても友人であることに相違ない。

けれど、私たちは異性だ。謙太郎と晃太郎は男で、私は女。


私はふたりを"男"友達として扱い、謙太郎と晃太郎は私を"女"友達として扱う。

私はふたりを、聖や他の女友達と同じような扱いはしない。謙太郎や晃太郎は私を、他の男友達と同じような扱いはしない。


心置きなく冗談で殴り合う関係でも、たしかな一線が引かれており、たぶん私たちはそれが心地良いのだ。


「あたしがケンくんに振られそう、なんて話しても、またふぅんで流されるんでしょ」

「ふふ、うん」


うんってさぁ、とぼやいたカナちゃんの顔は、謙太郎に媚びをうった顔よりもずっと魅力的だった。


「私たちも露天風呂いこ」

「それでまたショウさんのお経を聞くんだ」

「般若心経始まったら知らん人のフリしようね」


楽しそうにカナちゃんが笑う。楽しくて、私も笑う。

聖と知り合ってからの日々は、驚いてしまうほど、どうしてこんなにも楽しい。


「カナちゃん、あとで連絡先交換しよ。あとフルネーム教えて」

「……ヌクイ、カナ。明日って書いてヌクイ、叶えるでカナ」

「お、君も一文字族」



明日を叶える、ね。良い名前だ。叶って呼んでやろう。

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