第35話 闘技場の悲劇
怪獣を繋いでいた鎖が弾け飛び、拳大の鉄の塊が観客席に落下した。
それを皮切りにして、観客が一斉に悲鳴を上げ始めた。
とは言え、観客席からステージまでは高さがある……、
柵こそないが、それはつまり、怪獣は上がってこれないと証明しているのではないか――。
豹が爪を立て、壁をよじ登ろうとするが、突き立てた爪は壁を切り裂き、自重を支え切れずに地面へ落ちていく。その鋭い爪が皮肉にも壁を登るためのフックにはならなかったようだ……、
それとも闘技場の管理者は、これを見越して柔い壁を採用したのだろうか。
なにはともあれ、鎖こそはずれたが、怪獣は観客席まで登ってはこれないようだ。
おれだけでなく観客それにも気づき、悲鳴を上げて立ち上があった大人たちも安堵の息を吐いて席へ戻っていく。襲われそうになったにもかかわらず、戻ってくるとはな……、
NPCとは言え、図太い精神をしている。
やっぱりどれだけ危険でも、こっちに手が届かないと分かれば強気になれるのか。
「まあ、とにかく危険はなそうだな……」
「本当にそう思うのか、ヨートは」
ナン子は未だ、ガラスに張り付いたままだった。
「そりゃそうだろ、だって、登ってこれないって証明されたじゃないか」
「手が届かないところに吊るされているバナナを取ろうとした猿が、じゃあ届かないからってすぐに諦めるとは、うちには思えないよ」
ヨートならどうする? と、バカにされたような質問だったが――、
ナン子は真面目な表情だった。
「……道具を使う。その場にあれば、の話だけど、
台でも、棒でもいい、バナナを落とす方法を考え……」
言いながら、おれは気づいた。
――怪獣、だけど、それがおれたちが知る動物と同じものだと考えてしまえば、簡単に予想を覆されてしまうだろう。支配者が用意したダンジョン内に棲息する生物だ――、人間と同等とは言わないまでも、知恵があるはずだ。
届かないからって、すぐに諦めるのではなく、台や棒を探すくらい、最初から頭の中にあるよう設定されているのではないか……?
だから。
たとえば壁がよじ登れないのであれば、結果までの過程を『登る』に限定しない、とか。
おれだったら?
……壁がダメなら、坂道にする。坂道にできないのであれば、足場を作る。
そしてその両方ともが、あの豹の状況から、作り出せるのだ。
豹が対戦相手だった熊に爪を立て、絶命させる。
鎖のあるなしが勝敗に大きく影響を与えた。倒れた熊は、その体を硬直させる――、
引きずって壁に立てかければ、その体はまるで足場だ――。
そう、豹が乗れば、壁に爪を立てなくとも、ひょいっと、観客席に前足をかけられる。
『え――』と誰かが言った。
豹の巨体が、観客席に影を作った。
まるで向かい合わせになる影のような、黒い体毛の豹だった。
その両目だけが、黄金に輝いている――まるで夜空に浮かぶ月のように――。
ざわっ、と後方の席の観客が、いち早く冷静に戻り、危険から遠ざかろうとする。
しかし、動いたものを反射的に狙う本能のせいか、豹が爪を振るう――すると、
薄っすらと見えた、一文字の粒子の集まりが、背後を向けた男を、両断する。
え、あれは――まさか――、
「――絶空っ!?」
なんで、怪獣が絶空を!?
そんな疑問の答えを探している暇はなかった。
一人目の死者が出たことによって、今度こそ本当に、観客席がパニックになる。
『うわああああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?!?』
音の洪水だった。
人の波が、おれたちに迫ってくる。
だが、観客たちはガラスの中へ逃げ込む前に、豹の絶空によって切り裂かれていく。
鮮血が舞う、切断された部位が八方に散っていく、
どれが誰のどこの部位なのか、もう分からなくなって――、
やがてその死体は、すっと音もなく消えていった。
「…………」
NPCであるという証拠なのだろうが、それでも、ショッキングな光景だったことに変わりはない。おれは、ハヤテの時にまだ体験があったために抵抗できたが、真緒はおれの足下で嘔吐いていた。無理もない、ゲームや映画で慣れていても、現実のそれはまったく違うのだから――、
絵具の赤色とは違う、真っ赤な血の色、鉄の匂い――、
その全てが、腹の底の嫌悪感を膨らませるのだ。
「ナン子、お前は――」
「もしかして、あの怪獣を倒せば、アビリティ・カードが貰えるのかも」
と、真緒とは正反対に、なんともなっていなかった。
見慣れている? その年齢で? 耐性がある?
一体どんな方法で耐性をつけたと言うのか。
ナン子、お前は……。
どんな家庭で、育てられたんだ……?
「、こ、これが、このダンジョン、での……イベント、って、こと、ですか……っ」
涙目で、よだれを口の端から垂らしながら、青い顔で真緒が言った。
無理するなよ……、そんなことを推理するために頭を使うんじゃない。
「おぶってやるから、無理に喋るな」
「誰が、せんぱいの背中に、なんか――」
「いいから乗れ、引きずってもいいんだぞ?」
さすがに今の状態で引きずられるのは嫌だったのか、おとなしくおれの背にしがみつく真緒。……重い、が、それは言わないようにした。男の意地でもあり、たとえ相手が生意気な後輩とは言え、女の子に言っていいセリフではない。
おれだってそれくらいは分かるのだ。
「あの豹を倒せば、絶空のアビリティ・カードが、手に入る……」
十位圏内のアビリティ・カードである。
確保しておきたいアイテムだ。おれたちが使うかどうかではなく、他の誰かに使われないように、という意味が強い。間違いなく、この豹は強いだろう、そんな怪獣が、絶空を持っているのだ、まさか他の場所に絶空のカードがぽんぽんと落ちているわけもないだろう……。
この一枚だけとは思わないが、それでも世界に数枚しか存在しないのではないか――。
だったら、確保しておきたいアイテムであることに変わりはない。
「ナン子、アビリティ・カード、持ってるか!?」
さっき、猿たちから手に入れたカードが数枚ある。だが、その全てを使っても、あの豹を倒せるかどうかは分からない。おれと、真緒、そしてナン子のカードを組み合わせて――、それでもまだ、五分五分にも届かないかもしれない……けど。
おれたちの能力より、勝算があるのは、カードの能力だ。
せっかく手に入れたアイテムを、使わずに殺されるなんて間抜けはしたくない。
「うちが持ってるのは、『煙幕』だけだぞ……」
煙幕。名前の通りの能力だろう……、人間相手には通用するだろうけど、目だけに頼らない豹には、通用しないかもしれないな……。
「ヨート、うち、役に立たないか……?」
ナン子の不安そうな瞳……、力になりたい、と訴えられている気分だ。
「そんなことねえよ、煙幕だって、使いようだ」
そうだ、能力は、使い方次第で化けるのだ。
矛にも盾にもなる。
光にも、闇にも、だ。
使い方であり、そして使いどころである。
それを意識すれば、使い道がなさそうな能力でも活路を見い出せる。
「せ、ん……」
真緒の震える声が耳元で聞こえる。
こいつがぎゅっと密着しているからだ。
「なんだ、なにか思いついたのか!?」
「吐きそう、です……っ」
「さっさとあの豹を倒して真緒を落ち着かせるぞ、ナン子!!」
おーっ、と拳を突き上げたナン子の背後――、ガラスに衝突してきた黒い塊――豹。
砕けた鋭利な破片が、おれたちを襲った。
「がはっ!?」
吹き飛ばされ、地面を転がる。破片よりも先に地面を転がって助かった……、もしも順番が入れ替わっていれば、やすりの上に投げ飛ばされた、では済まない傷だ。
立った刃の上を転がるのと変わらない……、
明滅する意識の中で、おれは倒れる真緒に手を伸ばす。
気を失っているのか――?
くそっ、早くあいつの傍にいかないと、怪獣に狙われ……、て……。
その時、おれが見たものは。
黒い豹の大きな口から生えた、二本の細い足――、
強張った足の指が、つったように固まっていて。
あの、足は――――、
「ナン子ぉッッ!?!?」
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