一月七日

 キンとした寒さが、私を世界からくっきり浮き立たせるみたいにそこにある。冬休みは終わったのに学校は静まり返っていて、まだ眠っているみたいだった。ここに、何千人の生徒が普段存在しているなんて信じられないくらい、しぃんとしている。


 ゆっくりと冬眠から目覚めるように、校舎の中も誰かの息遣いが聞こえるようになるのかもしれないけど、今はまだ冷え切っているし、各部活の音も現実味がないくらい遠くで聞こえる程度だ。


 ひっそりとした校舎の中を一人で歩く。私一人が、この学校の中で動く唯一の生き物のような気がした。


 たった二ヶ月。その間に私が居る世界は様変わりしてしまった。ケイとユカリという友人ができたことも、バイト先のみんなが優しくしてくれることも、流されていく日常に溶け込むのを手伝ってくれた。どちらもこれまでの私には考えられないことで、嬉しいことでもあった。


 でもいつも心に引っかかっていた、この四階の階段を上がってすぐの部屋。図書資料室なんて名前がついているけど、誰も図書委員会ではないし、図書室の仕事もしていない。その部屋の中には、古い本なんかはあるけれど小綺麗にしてあって、ゆったりとした時間が流れていて、居心地が良い。私が変わるきっかけになった大切な場所。


 二ヶ月ぶりに訪れたここは、文化祭のあの日と何も変わっていなかった。机の隅に追いやられた、あの日使った看板と箱。そして一生懸命作り上げた、まっさらな文集たち。


 正直、来るのがとても怖かった。何度も引き返したかったし、ドアを開けるのもためらっていた。私が足掻いてなんになる? ちっぽけな私に何ができる? 頭の中で叫んでいるもう一人の自分。


 冬の弱々しい日差しがその文集を照らし、教室いっぱいに降り注いでいた。変わって行った四季ごとに蘇る思い出の数々。その一つ一つが、雪の結晶みたいに光り輝いて私に見てと言ってくる。


 そして、机に座る一人の人間に目が行く。タケルだった。


「お疲れ様。……早かったね」


「何、相談って」


 そっけなく返事を返すタケル。どうでもよさそうに、投げやりな声だったけれど、ひとまずここに来てくれたのは嬉しかった。


「うん。あの、これさ」


 私は机に積み上がっている文集を指し示した。


「文化祭で全部売る予定だったのに、半分も残っちゃったでしょ? みんなで一生懸命作ったのに、このままだと捨てることになるって言われたの」


 すべすべとする文集の表面を撫でながら言った。


「だから、私のバイト先の小熊書店で売ろうってなって。みんなの物語が文集には入ってるから、その確認を取りたくて」


「先輩たちは?」


 遮るように聞いてくるタケル。私の話なんて聞きたくないっていう態度が、私の心を蝕んで暗くする。


「シズカ先輩と、レン先輩にはもう確認取ってあるよ。ユア先輩は……、まだ、これからだけど」


「ふうん」


 タケルが聞いたから答えたのに、つまらなそうなリアクションを返された。


「売るのは小熊書店のみんながやってくれるし、私が他にやることは学校に許可を取ることと、あと宣伝くらいだと思う。先輩たちにも、タケルも、大変なことはないと思うから、そこは安心して」


「え? カレンがやるの?」


 タケルが驚いたように、私を見つめた。


 ようやく、タケルと真っすぐ目が合った気がする。座っているタケルは、私より少し目線が低い。だから自然とタケルが私を見上げるような形になる。


「そうだよ。だって、私が言い出したことだもん」


「なんで?」


 冷たい響きを含んだ声だった。


「信頼してた先輩に裏切られて、楽しかった思い出が台無しになって、その後なんの音沙汰もないし、俺たちが頑張る必要なんてあるの?」


 タケルが怒っていた。怒っているけど、じゃあタケルは文化祭の時に何をしてくれたんだろうか。ほとんどクラスの準備をしていたじゃない。


「文化祭の準備は、先輩たちのために頑張っていた部分もあるよ。でも、文芸部が私にとって大切な場所だって気がついたの。それが例え、ユア先輩が居なくったって、シズカ先輩とレン先輩が卒業しちゃったって。残して、伝えたいの。私達のこと」


 そう言うとタケルが考え込むような感じで黙ってしまった。


 すると、耳が痛いほどの静寂が訪れた。指の一本も動かせない。息をするのだってためらうくらいの、張り詰めた空気。どうしてこんなに緊張しているんだろう。頭の中を、走馬灯のようにタケルと過ごした時間が駆け巡っている。


「わかった」


 静寂を破って、大きなため息と一緒に、タケルが言葉を吐き出した。


「部活なんてどうなったっていいやって、思ってたけど。カレンの真剣な顔見てたら、なんか、自分が恥ずかしくなったわ」


 バツの悪そうにタケルが言う。


「カレンは、すごいな。ちゃんと、そうやって考えてる。考えてるだけじゃなく、行動もしてて」


「私も、時々自分にびっくりすることがあるよ。でもこういうふうになったのは、文芸部に入ったからだよ」


 今度は照れ臭そうに笑うタケル。


「直接じゃないけど、やっぱり、カレンを文芸部に誘って良かったよ」


「……うん。ありがとう」


 細長い腕を目一杯にピンとして、タケルが大きく伸びをした。その仕草に釣られて、私も身体が伸びる。緊張で強張っていた身体が少し楽になった。


「手伝うことが合ったら遠慮なく言ってよ。ってか、俺たちだけで部活すればいいのか」


 コロコロと表情が変わる、懐かしい雰囲気のタケルが目の前にいた。


「うん。シズカ先輩とレン先輩もなるべく来るって言ってくれたよ。レン先輩は受験はこれからだけど、シズカ先輩は推薦で決まってるから」


「そうなんだ。全然知らなかった」


 ちょっと寂しそうなタケルの表情が、冬の日差しに柔らかく照らされている。付き合って、別れて、そんなことをしたものだからタケルとはぎくしゃくしたままだったけど、今日ようやく「ふつう」になれた気がした。


「俺、実はまた新しいの書いたんだ。明日の部活で、カレン読んでよ」


「うん、読む」


「カレンは? 最近何か書いた?」


 タケルに聞かれて気がついた。文化祭の日から、ほとんど何も書いていなかった。これまでの私だったら、書くことで殻に閉じこもっていたのに。


 自分の変わりように今更ながら気がついた。寂しい気持ちと、空しい気持ちと、ちょっとだけ懐かしむ気持ち。今なら、今までと違ったものが書けるかもしれない。


「書いてない。でも、これから書くよ」


 久しぶりに感じる、お話を作ることのワクワク感。


 明日の放課後が、とても楽しみになった。

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